呪詛【捌】
つい半刻ほど前後にした五条邸は、静まり返っていた。自分で門扉を開けて中に入る。裏から入ったので庭を伝って那子の局がある東対にむかう。ここに向かうまでにも誰とも会わなかった。
結界がほどけているわけではないが、誰かが侵入した可能性が高い。那子はもちろん、弘徽殿の女御たる倭子がいる。
まず、那子の局を確認した。褥には誰もいない。この時点で、久柾たちが彼女を動かしたのか不明だ。誰か人を探さなければ。
渡殿に女房装束の女性が倒れていた。見ると、那子の女房の浅葱だった。
「浅葱、しっかりしろ」
肩を揺さぶるが、起きない。そこで時嵩は彼女の耳元で一つ、柏手を打った。空気がはじける感覚がして、はっと浅葱が目を開いた。
「浅葱。私がわかるか?」
「……宮様」
宮、は時嵩だけを指すわけではないが、浅葱はこの邸にいるものを別の名で呼ぶので、しっかり時嵩を理解できているようだ。肩を支えて引き起こしながら何があったのか尋ねた。
「宮様が外出されて、すぐのことでした」
まだ混乱しているようで言葉を探すようにしながら、浅葱は口を開いた。
「三の姫様の女房、と言うよりお子の乳母ですね。彼女が夫を連れて邸を訪ねました。私は姫様についていたので、空木から聞いた話です」
誰かが来たのはわかったが、那子の側についていた浅葱にはそれが誰かわからなかった。様子を見に行った空木が浅葱に教えたのだ。
「それからすぐでした。邸内が静かだと気づきました。私と空木は様子を見に簀子に出たところで、その男と出くわしました」
二十代後半から三十程度と思われる男性だったと言う。水干姿で、目の前に男が現れて驚いた空木を張り飛ばし、彼女は浅葱を巻き込んで倒れた。
「その間に、姫様がかどわかされてしまいました。申し訳ございません」
浅葱が彼女の姫君の夫である時嵩に対して、深々と頭を下げた。その肩が震えている。浅葱は渡殿に倒れていた。おそらく、那子を連れて行った男を追ってここまで来たのだろう。
「……いや、私も留守にしてしまったからな」
自分がいたからと言ってどうにかなったとも思えないが、罠に引っかかってしまったのは事実だ。今すぐ那子を追いたいが、その前に倭子や久柾の安全を確認する必要があった。浅葱に倭子の様子を確認しに行ってもらい、時嵩は久柾をたたき起こした。
「弾正尹宮、起きてください」
「臘月? 二条へ行ったのでは?」
寝起きできょとんとした顔がちょっと那子に似ているのがなんとなく腹立たしかった。
「あちらには右大臣の邸に出入りしていた術師がいました。捕らえて拘束してあります。こちらは何があったのですか」
「侵入された」
簡潔に言われた。しかし、それは浅葱の話と矛盾しない。やはり侵入したのだ。しかも、おそらく宇治重玄だ。彼は那子を狙っているだろう言動をしていたし、昨年末に那子と時嵩によって行動不能にさせられている。恨みもあるだろう。動機はそろっている。
「那子が連れ去られました」
「なんだと!」
めまいがするのか目頭を押さえていた久柾が驚きの声を上げた。時嵩はわずかに眉をひそめただけで特に表情を変えなかった。
「今、浅葱に女御様と三の姫の確認をしてもらっています」
特に倭子に何かあってはことだ。一刻も早く那子を探しに行きたいが、やみくもに探しても見つからない。落ち着いて、倭子の無事を確認してから那子を探さなければ。
「宮様」
浅葱だ。几帳を回り込み、姿を見せる。
「弾正尹宮様もご無事で何よりです」
浅葱は那子の女房だ。この邸の女房なら久柾を殿、とかお館様などと呼ぶが、厳密に言うと浅葱は久柾に雇われていないので、この呼び方はしないのだ。
「どうだった?」
「女御様も三の姫様もご無事でございました。姫様だけです」
「そうか……」
「五十鈴か? まだ眠っているのか」
久柾の問いかけに少しためらったが時嵩が答えた。
「どうやら、連れ去られたようです」
「は?」
久柾が目を見開いた。几帳の後ろでがたりと物が倒れた音がした。北の方様、と慌てた女房の声が聞こえた。後ろに朔子がいたようだ。
「何故そんなに落ち着いていらっしゃるの!」
「落ち着いてくださいませ!」
几帳の後ろから朔子の叫び声が聞こえた。娘が連れ去られたのだ。当然の反応だろう。同時に那子は母親に愛されているのだと少し安心する。
「慌てて探しても見つかりません。皆さんから話を聞いた方がいいと判断しました」
それに、那子の真名は時嵩が持っている。逆に時嵩の真名は那子が持っていた。これらに変化がないため、少なくとも那子は生きているはずだ。
と言っても、みんなほとんど何もわからなかったようだ。久柾は茅子の子の乳母の夫のあいさつを受けているはずだが、記憶がないようだ。
「おそらくその時ですね。皆を気絶させようにも、少なくとも弾正尹宮は顔を合わせなければ術を掛けられない」
少なくとも時嵩はそうだ。久柾自身が呪術に耐性のある人なので、対面でなければうまく術を掛けられない。もしかしたら那子はもう少し違う見解をする可能性があるが、二人の見解は一致した。
術師は久柾と顔を合わせ、彼には直接術をかけた。認識疎外の術を使用していたのだろう。前後関係を考えると、乳母の夫が術師だ。その乳母自身は茅子の側で倒れていたそうだ。
「狙いは姫ではない。臘月だな」
「……そうですね」
これは同意せざるを得ない。那子が狙いなら、こんな回りくどい方法を取らない。彼女の意識がない以上、殺すも連れさるも簡単なことだ。これは時嵩をおびき出すための罠だろう。何故時嵩を狙うのかわからないが、時嵩が行くまでは那子は無事なはずだ。人質は生きているから意味があるのだ。いつぞやの那子の予言は正しかった。問題は、どこへ行ったか、である。
「あの……」
おずおずと声をかけてきたのは浅葱だ。時嵩は斜め後ろにいる彼女を振り返る。
「なんだ?」
「姫様と宮様は血のつながりがあるのではありませんか」
「……」
いや、同じ皇族の血を引くのだから、もちろん血のつながりはある。だが、浅葱が言うのはそう言うことではなく、那子が時嵩の子を身ごもっていることを指している。
「……そもそも、弾正尹宮の娘だからな」
父と娘のつながりもある。時嵩と那子が、お互いの真名を持っている、と言うつながりもある。確かに、探せるかもしれない。だが。
「五十鈴の範囲だな。私にはできない」
そう言ったことが得意なのは那子の方だ。時嵩は景気よく吹き飛ばすのは得意だが、それだけだ。
「浅葱、それを言ったのは大姫か?」
「……さようでございます」
どうやら倭子が浅葱に入れ知恵をしたようだ。と言うことは、倭子は那子がいない現状を察していることになる。
「臘月はともかく、私がやってみよう。だが、私はこの邸を動けない」
「わかっています」
ここに弘徽殿の女御こと倭子がいる限り、久柾は五条邸から動けない。公的には、前伊勢の斎宮である那子よりも、現女御である倭子の方が重要だ。
久柾が取り出したのは水鏡だった。盥に水を張っただけではあるが、血を介することで対象の位置を探ることができる。
「姫ほどの精度はないが、紫野のあたりか?」
「斎院御所ですか? 賀茂の斎院のおひざ元ですが……」
現在の賀茂の斎院は先帝の末の妹、女四宮だ。時嵩から見ると、異母姉にあたる。末の、と言っても今三十歳くらいのはずだ。斎院に選ばれたとはいえ、時嵩を育てた斎院の女宮や元斎宮の那子とは違い、本人に霊力があるわけではない。
「葵祭が終わったばかりだ。斎院御所は留守だろう」
斎院の女宮と同じく、女四宮も京に邸を持っている。もしくは、母方の実家に身を寄せている可能性もあるが、祭が終わったばかりの今はどちらにしろ留守居役しかいない。ならば通常より監視も緩んでいるだろう。
念のため久柾が式を飛ばしたが、賀茂神社の結界で阻まれる。今代の賀茂の斎院はただ人であるが、それに仕える神祇官は術師だ。斎院の女宮が維持していた結界もあり、賀茂神社の結界もかなり強力なものだ。
「行ってきます。私を狙っているなら、入れるはずだ」
時嵩はそう宣言すると、立ち上がった。久柾が呆れたように口を開く。
「お前はそんなに行動的なやつだったか?」
「五十鈴の身がかかっていますから」
親王である自分が動くと騒動が大きくなるのはわかっている。時嵩も、那子の生死がかかっていなければここまでのことはしない。
「こちらはありがたいが。待て。呪具を持って行け。大したものではないが、ないよりましだろう」
そう言って久柾は気前よく呪具を貸し出してくれた。勾玉と管玉の首飾り、小さな銅鏡、依った糸のお守りなど。こまごましたものだが、すべて身を守るものだ。正直助かる。
「ありがとうございます」
「姫を頼む」
「頼まれました」
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