呪詛【陸】
那子が目覚めない、と連絡を受けたのは、右大臣の大姫が入内した三日後のことだった。おりしも、新月が迫っている。
その場にいた空木によると、しばらく何もいない空間とにらみ合いをした後、突然倒れたそうだ。今朝がたの話で、時嵩は新しい女御が入内した後宮の確認もかねて大内裏にいた。予定通り右大臣の大姫が登華殿に入ったため、玉突きで倭子は藤壺こと飛香舎に移ることになった。その確認と、皇子を産んだ倭子を立后するための準備だ。まあ、ほぼ名誉職である時嵩が実際に行う仕事はない。要するに、那子が倒れたと言う知らせを時嵩は中務省で受けた。
那子が見えない何かとにらみ合いをすることはままあるので、空木はさほど気にしなかった。術師としての能力が高く、当代きっての霊力の持ち主である那子が、力の押し合いで負けることはほとんどなく、にらみ合った後もけろりとしているのが常だったからだ。
だが、今回は違った。にらみ合った後、那子は気を失った。糸が切れたように崩れ落ちたそうだ。幸いと言うか頭などは打っていないようだが、以降、声をかけても目を覚まさない。何の反応もない。
これを見て、五条邸の人たちは一年ほど前の田津の真名が奪われた件を思い出したそうだ。あの事件は那子が解決しているが、時嵩も概要は聞いていた。
「似ていると思ったんだが、どう思う?」
久柾に尋ねられて、時嵩は那子の顔を眺めながら考え込んだ。この辺りはいつも彼女の管轄だった。手を伸ばしてその小さな頭を撫でる。青灰色の瞳は、今見えていない。
「……五十鈴は自ら内に閉じこもっているのでは?」
誰かの術に屈したとは思いにくい。田津と同じ状況なら、真名を封じられたと考えているのだろうが、どんな術者だろうと、彼女の真名を奪ったり封じたりすることは不可能だ。彼女の真名は、時嵩が持っている。
と考えると、彼女が自分で閉じこもっているとしか思えない。精神攻撃を受けたのか、原因は不明であるが、那子が自分で閉じこもっているのなら外から働きかけるのは難しい。
那子は自分で閉じこもっているのだろうと考えこんでいると、御簾の外から「お待ちください!」という女房達の慌てた声が聞こえた。御簾の前で女性が立ち止まった。
「お父様、宮様」
「大姫か」
久柾がそう言ったことで、御簾の外に立っているのが倭子だとわかった。女御たちが慌てるのもうなずける。
「私が一度出ます」
時嵩はさっと立ち上がると倭子と入れ替わるように一度簀子に出た。さすがに日が暮れてきている。時嵩が那子が倒れたと言う報を受け取った時は、まだ日が高かったのだが。
几帳が用意されたらしく、再び御簾の中に入る。時嵩は几帳で目隠しされた、簀子に近い方に腰を下ろした。久柾と倭子、眠ったままの那子は几帳の向こう側だ。
「本当に起きないのですね」
倭子がつぶやいた。時嵩側に控えている空木によると、那子の頬をつついているらしい。昔は時嵩も那子の頬をつついて嫌がられたものだ。
「して、大姫。いかがした?」
少し気取って久柾が聞いた。倭子が「はい」と小さく答える。
「本人の意識がないところで言うことではないですけれど、五十鈴は身ごもっているのではありませんか?」
時嵩も久柾も黙り込んだ。ありえないことではない。空木を見るが、彼女も「その可能性はありますね」とうなずいている。
「この頃気分が悪そうになさっていることが多かったですし」
「五十鈴が言っていたんですけれど、自分に子ができるのなら私の子が産まれた後だって。まあ、あの子が言うなら、そう言うこともあるかなって」
「……」
空木の発言は最近の那子の様子を見てのことだったが、倭子の言葉が気になった。倭子と言うより、彼女に言った那子の言葉だ。最近の彼女は、何気ない会話で未来のことをこぼす。
子ができるなら倭子の子が産まれた後、新月の夜が危ない、宇治重玄が行動を開始するのは倭子の子が産まれるころ……。
「……だとしたら、那、五十鈴は、自分が身ごもっていることを気づいていたはずだ。自分からうちに閉じこもったのは、呪詛から腹の子を守るためだ」
今ここにいる人たちの前では那子の名を呼んでも問題なかったと気づいたが、まあいい。様々な要素を考慮した結果、那子は身ごもっている可能性が高く、腹の子を守るために自らの意識ごと外界から切り離した。おそらくだが、呪術的な攻撃を受けたのだろう。自分一人ならともかく、腹の子を守りながら対処できないと彼女は判断したのだ。
この五条の邸は強力な結界で守られている。久柾の術であり、那子の術だ。那子が身ごもっていても、この結界が揺らぐことはない。それでも呪術が届いたのなら、その相手はかなりの実力の持ち主だ。宇治重玄が活動を再開したのかもしれない。
「……臘月と中の姫の子なら、かなり霊力が強いだろうな」
久柾はそちらが狙われているのではないか、と言いたいらしい。現段階では分からないが、その可能性は高い。少なくとも、素養はあるだろう。
「おそらくは。だとしたら、逆に五十鈴はしばらくは安全なはずです」
腹の子を育てるために、那子を殺すわけにはいかない。呪術に利用するにしても、跡継ぎのように仕込むにしても、今手をかけられることはないだろう。
外界から自分を閉ざした那子は、どちらかと言うと、精神下での攻撃を警戒しているのだ。夢殿で殺されて現実に死ぬ、という事例がないわけではない。那子の妹の茅子が似たような目に遭っている。
子を身ごもっていようと、那子が早々に負けるはずがない。むしろ、そちらに注力するために意識を閉ざしている。だとしたら、時嵩がすることは一つだ。
「……しばらく、五十鈴をお願いします」
「かまわないが、お前はどうする気だ」
「宇治重玄を始末してきます」
「待て待て。さらっと恐ろしいことを言うんじゃない」
几帳を回り込み、久柾が立ち上がった時嵩を止めた。
「……言い間違えました。捕まえてきます」
「お前、中の姫に似てきたんじゃないか?」
久柾の指摘に、几帳の向こうで倭子が噴き出すのが聞こえた。つぼにはまったようで、笑いが止まらない。
「似ていても何でも構いません。宇治重玄を何とかしなければ、五十鈴は目覚めない」
「かもしれないが、奴がどこにいるのかわかっているのか?」
「……」
時嵩の知覚能力は低い。那子もそうだが、彼女には予知能力がある。会話を思い出せ。今の彼女なら、何か助けになるようなことを言っているかもしれない。
少し落ち着いた時嵩は記憶を探る。右大臣のところに出入りしている術師は、宇治重玄ではないが、関りはあると思われる。可もなく不可もなし。占いは当たると言うより、外れない……。
そんなに遠くにはいないはずだ。術師の占いは、外れないように宇治重玄が手を回していると考えられる。おそらく京の都の中。
「……二条の、五十鈴の邸です」
ここ一年ほど、那子は五条の実家に身を寄せているため、邸を維持するための数人だけが二条邸に残っている。彼らは術師ではない。那子が結界を敷いているとはいえ、距離が離れていると限界がある。彼女はおそらく、当代でも三指に入る結界術の使い手だ。
しかし、手元を離れている結界だ。一度中に入ってしまえば那子でも気づけないかもしれない。時嵩よりはましだが、那子も知覚能力が高い方ではないのだ。
「とりあえず、行ってきます」
「待て待て。まず式を飛ばせ」
再び止められて時嵩は久柾を振り返った。
「式、飛ばせますか?」
私はできません、と訴える。時嵩は霊力が高く、霊視能力は高いが能力が偏っている。破魔の力は強いが、これが人間である宇治重玄に効くとはあまり思えない。術師の中にも向き不向きはあるものだが、こうしたちょっとした支援を担っていた那子が倒れているのが痛い。
「……少し待て。大姫、お前も北対に戻りなさい」
「そう致します」
倭子は父の言葉に素直に従った。時嵩と顔を合わせないように回り込んで簀子に出た。空木と浅葱が那子の様子を見るために御簾をあげて入ってきた。
「姫様は、大丈夫なのでしょうか」
空木が不安そうに尋ねる。そう言えば、一時期宿下がりしていた綾目はまだ戻っていない。厳密に言うと、戻ってきたが子を身ごもったために再び下がっているのだ。
「呪術的な面では問題はない。本人は自発的に眠っているだけだ」
自分の精神に対する結界と、この邸の結界を両方維持するために本人が眠りに落ちたに過ぎない。おそらく、活動しながら両方を維持するには処理能力が足りなかったのだ。
まず、久柾が式を飛ばした。一年以上戻っていない那子の二条邸であるが、邸の維持のために下男の老夫婦が住み込みをしている。その二人の姿は確認できたようだ。守りの術も機能している。
「……少し、違和感があるな」
「違和感?」
二条邸の状態を見ているのは久柾で、時嵩は何も見えていない。久柾はうなずく。
「中の姫の術ではない気がする」
結界は変わらず機能している。と言うことは。
「結界を誰かに乗っ取られたのかもしれない」
時嵩と結婚したことで霊力の質が変わったとも考えられるが、それよりは術ごと乗っ取られていると考える方が自然だ。那子が気づいているのかいないのか不明であるが……。
下男と下女の老夫婦は、何の問題もなく生活しているようだ。彼らは何も気づいていないようだが。
「何か起こっているのは確実ですね。行ってきます」
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