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呪詛【肆】






「五十鈴、いるか?」

「います」


 五条邸に顔を出すと、那子は自分の局にいた。どうやら、茅子の子が生まれたことであわただしいため、あまり動かないようにしているようだ。脇息にもたれて風土記など読んでいた。伊勢での生活で暇すぎて読むようになったそうだ。


「お帰りなさいませ」


 御簾をあげて入ってきた時嵩に、那子はにこりと微笑んだ。手元の風土記を片付けているので手伝ってやる。小腹がすいたので軽く干菓子などを用意してもらい、時嵩は那子に言った。


「右大臣が術師を出入りさせているそうだ」

「まあ。またですか」


 まあ、などと言ったが、あまり驚いている様子はない。正直なところ、権力者が陰陽師や僧侶などを出入りさせることは珍しくないのだ。


「宇治重玄でしょうか」


 時嵩が問いたかったことを、先に那子に言われた。一瞬言葉に詰まったが、すぐに口を開いた。


「わからない。お前はどう思う?」

「本人ではございません」


 即答だった。それにしても、微妙な回答だ。


「本人ではないが、関係はある、ということか」

「そうですわね……可もなく、不可もございません。占がよく当たる、と言うよりは外れないのでしょう」

「外れない、か」


 思わぬ情報を得た。あたる、と外れない、では似ているようで大きな違いがある。裏で宇治重玄が動いている可能性が高い。


 那子は宇治重玄の本当の狙いは時嵩だ、と言った。帝の周辺で何かあれば、時嵩が動く。時嵩は立てた膝に肘をついて、額を抑えた。時嵩の行動を把握するのは、実は難しくない。


「では、右大臣の術師のことは、陰陽寮に任せよう」

「そうですわね……わざわざ宮様が動くようなことではありませんものね」


 この回答は予知が含まれるのかわからなかった。純粋に那子の意見のような気もする。彼女が能力を制御できていない問題もあった。だが、今のところ実害は出ていないので、こちらは後回しだ。


 いつの間にか、外は暗くなっていた。見上げると、今日は十六夜だった。


「新月」

「は?」


 御簾をあげていた時嵩は、つぶやくような那子の声に振り向いた。


「新月の日はお気を付けくださいね」

「……」


 また意味深なことを。だが、日が指定されるのはありがたい。時嵩はもう一度空を見上げて「新月か」とつぶやいた。


 それは最も魔が濃くなる日。倭子の出産も近づいていることを考えると、妥当だ。


 倭子が産気づいたのは、それから五日後の朝方だった。邸内が慌ただしくなったことで時嵩が目を覚ますと、身を寄せて眠っていた那子もぼんやりと目を覚ました。


「すまない。起こしたな」

「いえ……お姉様が産気づいたようですね」


 気だるげに身を起こしながら那子は言った。何故わかる、というつっこみは野暮だ。そういうものだと思っておく。


「一度出仕してくる」


 寝ぼけている那子に袿を着せかけながら言うと、彼女は時嵩の単衣の袖を引っ張った。首を左右に振る。


「すぐに生まれるでしょう。待っていた方がいいと思います」


 つまり、時嵩が支度をして大内裏に向かっている間に生まれてしまう、と言うことだ。どちらにしろ、時嵩が行かなくても久柾が使者を出しているはずだ。時嵩はうなずいた。


「わかった」


 ひとまず支度を整え、時嵩は庭に出た。倭子がいる北の対の方が騒がしく、慌ただしく人が出入りしていた。彼は約束通り、倭子の出産でも鳴弦を行うつもりだった。


 近くにいた陰陽師に声をかけて鳴弦を行う。ぴぃん、と弦が音を鳴らす。清浄な空気が広がっていく。感嘆のため息が聞こえたが、時嵩は無視した。


 弓を持ったまま庭をうろついていると、細殿を行ったり来たりしている久柾と遭遇した。落ち着きがなく、北の方に追い出されたらしい。まあ、時嵩も似たようなものかもしれない……。


 那子は北の対の近くに控えているようだった。自分がいるせいで狙われる可能性が否定できないので、倭子の側にはいかなかったのだろう。今は清浄な空気が満ちているが、生まれた後のほうが怖いな、と思った。赤子は弱い。


 倭子が産気づいたのは明け方だったが、那子の言う通り、昼過ぎには生まれていた。初産は時間がかかるものだ、と那子は言っていたが、その通りだった。


「五十鈴」

「あ、宮様」


 那子は釣殿で池を眺めていた。邪魔にならないようにしているらしい。時嵩は先ほどから気になっていた西対屋の方を見た。


「田津君か?」

「皆が赤子に気を取られているので、癇癪を起しているようですね」


 他人事のように那子は言った。そう。嫡男の田津は現在、若干放置気味だ。姉たちが立て続けに赤子を産んだためだ。皆こちらに気を取られており、田津をかまわない。注目を集められない田津が癇癪を起す、という流れらしい。


「あまりひどいようなら、わたくしが一喝してまいります」


 にこっと笑って那子は言った。彼女は以前、わがままを言う弟をひっぱたいたことがある。それ以降、なんとなく怖がられているらしい。そもそも、那子の名を出すだけでちょっとおとなしくなるそうだから、効果絶大すぎる。


「女御様の様子は? 何かあったか?」

「いいえ。何事もありませんでした」


 ただただ順調だったらしい。まあ、出産した瞬間が狙われるとは限らない。しばらくは注意しなければ。


「そう言えば、右大臣の大姫の入内はどうなったのですか?」


 倭子の出産の日に入内をぶつけることをほのめかしていた右大臣だが、うまくいかなかったはずだ。倭子は予定日よりかなり早く出産したし、入内の日はそうそう変えられない。占で決めた日だからだ。入内は十日は先である。


「じゃあ、怪しいのはそのころですかね……というか、どの殿舎に入るのですか? 弘徽殿、麗景殿、宣耀殿は埋まっていますよね」


 気になるのか那子がどんどん尋ねてくる。しかも、指摘されたのは悩ましいところだ。空いている殿舎はいくつかあるが、最後までもめた。


「私も詳しくは聞いていないが、登花殿に入ることになるのではないか」


 梨壺や桐壺は宿直で使用されることがあるため、そのままだ。また、梨壺は現在、東宮御所となっている。藤壺や梅壺も空いているが、こちらは帝の住まう清涼殿に近く、左大臣の娘である麗景殿の女御や女王である弘徽殿の女御との釣り合いが取れなくなる。


「え、でもお姉様は」


 そう。登花殿は弘徽殿の隣で、倭子の女房達が局に使っていた。那子が驚くのも無理はない。


「そうなれば、弘徽殿の女御様は、藤壺に移ることになるだろうな」


 そして、弘徽殿を空ける。弘徽殿は尤も格式の高い殿舎だと言われるが、藤壺の方が清涼殿に近い。女御たちの力関係を考えた際、この配置が最も無難だと思われた。


「では、お姉様のことは王女御(おうのにょうご)様と呼ぶべきなのかもしれませんね」


 那子も気さくに『お姉様』などと呼んでいるが、対外的には『弘徽殿の女御様』で通している。弘徽殿を与えられた女御だからだが、今回本当に藤壺に移ることとなれば、『藤壺の女御』となるが、途中で呼び名を変えるのは混乱する、と言うことなのだろう。『王女御』と呼べば、皇族女性の女御という意味なので場所を選ばない。


 さすがにこれを言うのは憚られたが、おそらく倭子は立后される。帝には中宮も皇后もいないが、倭子を上げるのが一番無難だ。そして、彼女の産んだ子は男児だった。


「私はこれから主上に目通りしてくるが……」

「はい」


 朝、那子が引き留めたので出仕しなかったが、生まれた今、一度帝の様子を、というか、帝の周囲を見に行きたい。だが。


「しばらく空けるが、大丈夫か?」


 那子の警戒状態は続いている。時嵩がいるから気を張りすぎないでいられる面もあるだろうと、彼は尋ねたが、那子はにこりと笑った。


「大丈夫です。数刻の話でしょう。わたくしも、宮中の様子は気になりますし……」


 姉が殿舎を移るかもしれない、と言うこともそうだが、皇子が生まれた今、周囲の動向を気にしなければならない。那子は倭子を心配しているのだ。


「まあ、お姉様ならするっと受け流しそうな気もしますが」

「確かに」


 苦笑気味に言う那子に、時嵩も思わずうなずいた。確かに、倭子にはそんな印象がある。


「そうですわね。お帰りになったら、わたくしを甘やかしてください」


 それで手を打ちます、と那子はにこにこ笑っている。そう言う心配ではないのだが、那子が笑っていることにつられて時嵩も苦笑した。


「では、そうしよう。おとなしく……と言うのは無理だな。あまり危ないことはしないように」

「はい」


 姉妹に何かあれば、那子は首を突っ込んでいく。その能力があるからだ。これを止めることはできないので、せめて危ない真似をしないようにとくぎを刺しておく。それでも、無茶をするだろうけど。








ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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