呪詛【弐】
時嵩が五条邸に帰宅すると、屋敷内が騒がしかった。どうも、茅子が産気づいたらしい。家の者や女房達が必死に祈りをささげている。ぶつぶつとつぶやかれる経が異様だ。
「戻ったか」
同じくお経をつぶやいていた久柾が時嵩に気づいて顔を上げた。彼の北の方の朔子までお経に参加しているのを確認し、時嵩は尋ねた。
「五十鈴はどこです?」
ここは那子の局のある東の対であるが、那子の姿はない。一緒にお経をあげているわけではないようだ。そもそも、教を上げるのは仏教で、那子の力は神道に基づいているので大元が違った。
「北の対で大姫と一緒だ」
大姫はその家の一番年上の姫、つまり今の場合は倭子のことを指す。那子は仲の姫、茅子は三の姫だ。
「わかりました。私も、鳴弦くらいはしましょう」
出産で時嵩に役に立てることはないので、気やすめでもそれくらいはしようと思った。もしこれが那子の出産なら、うろたえて役に立たなくなる自信がある。
とはいえ、まず那子の元へ向かった。倭子と共にいるかもしれないが、顔が見たい。
「浅葱」
「これは、宮様。おかえりなさいませ」
「ああ」
なじみの那子の女房に声をかける。浅葱が御簾の中に声をかけると、すぐに那子が出てきた。
「宮様。おかえりなさいませ」
「今戻った。お前は加持祈祷を行うわけではないのだな」
「わたくしの力は神道に近いですからねぇ」
加持祈祷を行うのは僧侶や陰陽師だ。那子はどちらでもない。
「約束しましたので、祈りはしますけれど。わたくしの役割は、もっぱらお姉様を守ることですね」
那子の力の傾向を考えれば納得できる話だ。彼女は結界術に優れた術者だ。守ることに長けている。
「理にかなっているな。それで、何か変化はあったか?」
「今のところ、ございませんね」
そう言って那子は肩をすくめた。今のところ、待機しているだけのようだ。
「……那子、覚えているか。お前は宇治重玄は子が生まれるまで動かない、と言った」
「……覚えていませんね」
本当に覚えていないのだろう。少し困惑したように那子は言った。彼女の予知能力はかなり信頼できる。十割あたるか、と言われるとそうでもないが、おおむね正しい未来を告げている。
「私も深くは尋ねなかったが、『子が』とはどの子のことだろうか。三の姫の子か? 弘徽殿の女御の子か? それとも、お前の子か?」
「ええっと……」
那子が戸惑った声をあげる。彼女の予知は任意ではない。答えられるときと、答えられないときがある。最近はさらりと日常会話の中で告げてくるのでわかりづらいが、今は答えられないときのようだ。
「……いや、すまない。気がはやってしまった」
「いえ……わたくしも、制御できていませんね……」
少し圧が強かっただろうか、と反省した時嵩に、那子も消沈して反省を述べた。那子は自分の予知能力が上がっていることを感知していない。認識していないことを制御するのは難しいだろう。
「身ごもると、術の使用に困難が生じることがございます。わたくしならそこを狙うでしょうね」
ため息をつくように言われたが、時嵩には「そうかもしれないな」としか答えられなかった。時嵩は男であるし、身ごもった女性の術者を見たことがなかった。おそらく、時嵩と宇治重玄の実力は現段階で拮抗していて、時嵩に那子がついていることで押している。那子が行動不能になればどちらが勝つか怪しい。
もし、ここで時嵩が、以前那子が倭子に告げた予言を知っていれば、これも予知の一つだと、気づくことができたかもしれない。だが、この段階では那子自身も気づいていなかった。
茅子は初産だ。初産は難産になる場合が多い。茅子も長く苦しんでいる。約束した手前、時嵩は鳴弦を鳴らす。ぴぃん、と鳴らされた弓から、波動のように正常な空気が広がっていく。
「さすがですねぇ」
霊力のないものでもわかるほど空気が澄んでいく。知覚能力が高くないとはいえ、そもそもの底力が強い那子ははっきりと感じ取れたのだろう。目を細めて言った。時嵩は庭に出ていたが、周囲にはほかの陰陽師などもいるので、那子は簀子の死角になるところにいた。
「お前の舞には負ける」
「まあ」
那子がくすくすと笑う。あの神楽舞は見事だった。那子が伊勢の斎宮として赴任していた間に修めた、彼女の力だ。
「すべてを守ることなどできません」
唐突に、那子は言った。静かな語り口で、思わず顔をのぞき込むがいつも通りに見えた。
「何かを守りたいのならば、別のものを切り捨てなければならなくなる。星を落とした術師は、選択を強いてくるでしょう」
時嵩は思わず目を見開いて自分の妻を見た。衰えることのない、その予知能力。予言の方が近いだろうと、時嵩は思う。わかりにくいが、これも。
「星を落とそうとした術師とは、宇治重玄のことか? 彼は何者だ」
この状態の那子に問いかけると、答えがある場合が多いため尋ねたが、そううまくはいかなかった。当然だ。那子が述べるのは予言である。未来のことだ。
「言われてみれば、何者なのでしょうねぇ」
おっとりと首を傾げた那子は、いつもの那子に見えた。こわばっていた肩から力が抜けて、自分が緊張していたことに気づいた。
と、ふいに東対から産声が聞こえた。赤子が生まれたようだ。那子がぱちぱちと瞬いて、「思ったより早かったですね」と言った。
「もう夜中だぞ」
時嵩が出仕してからすぐに産気づいたと聞いているので、半日以上かかっている。那子は「丸一日以上かかるのを覚悟していましたから」と肩をすくめる。
「そう言えば、お前は今日はどこで寝るんだ?」
那子は東対に局があるが、今は茅子の出産でそれどころではない。別のところに寝所が必要だ。
「あ、そうですね。今日は北対屋です。浅葱に案内させます。わたくしは妹の様子を見てまいりますね」
そう言って那子は立ち上がると、東対に向かっていった。那子に呼ばれた浅葱が何とも言えない表情で時嵩を見ている。
「……言いたいことがあるのなら言ってくれ」
「……姫様はすぐにお戻りになると思います」
慰められた。そんなに沈んだ表情をしていただろうか。
浅葱の言う通り、それほど待たずに那子は時嵩が先に案内された北対にやってきた。置いてあった琴に触っていた時嵩は顔を上げる。
「なにもやらかさなかったか」
「わたくしは何を疑われているのでしょう?」
かなり失礼なことを聞いたが、那子は怒らなかった。こてん、と首をかしげている。つまり、彼女にもやらかすかもしれない自覚があるのだ。もちろん、時嵩が疑っているのは何か予言を落としてこなかったか、と言うことだが、こちらに関して那子は無自覚だった。
「いや、何もないならいい。三の姫はどうだった?」
「ひとまず大丈夫だそうです。あ、女子でした」
「そうか」
主語がなかったが、茅子の子供のことだろう。母子ともに無事ならよかった。時嵩は近づいてきた那子の手を取ると、軽く引っ張って隣に座らせた。
「女御様は」
「そちらも落ち着いています。妹の子を見に行きたいようですけれど」
そうもいかない。倭子も身ごもっているし、こちらも臨月のはずだ。倭子は女御であるので、どちらかと言うと茅子が連れてくるのが筋だろう。
「蔵人佐様も様子を見にいらしていました」
「最近はこちらに帰ってきていたようだな」
何度か見かけた。変に話しかけると蔵人佐が緊張するからやめろ、と那子に言われてからはばったり出くわしたとき以外は下手に話しかけないようにしていた。生まれたときから親王として身分の高かかった時嵩は、そのあたりの感覚がざっくりしている。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




