#42 須藤桃子
——十三年前の夏、俺は桃子と出会った。
母親が十七歳の時に生まれた俺は、母の手一つで育てられた。いや、正確には母の手一つではなく祖母の手一つか。父には一度も会ったことはない。どこで何をしているのかもわからない。
夜職をしていた母はほとんど家に帰ってくることはなかった。俺は昼の間は保育園に預けられ、祖母に連れられて家に帰ると徹底的に家事のやり方を叩き込まれた。この頃はなぜこんなにも祖母に厳しくされるのかわからなかったが、今ではとても感謝している。
小学校に上がる頃には、一通りの家事ができるようになり、誰かに頼らなくても生活に困ることは無くなっていた。
病気がちだった祖母は、俺が小学校に入学してすぐに亡くなった。その時母が悲しみ泣いていたことよく覚えている。
でも俺はちっとも悲しくなんてなかった。なぜなら俺のすぐそばに祖母が居たからだ。死んでも心が繋がってるとか、物理的に遺体がそばにあったとか、そういうんじゃない。俺には祖母が見えていて、確かにそこに居た。母にそのことを伝えると不謹慎だと強く怒られた。なぜ怒られるのかはよくわからなかった。
母は悲しみを埋めるかのように男の家に入り浸る時間が増え、俺は生活の全てを一人でこなした。掃除に洗濯、母から貰う僅かなお金をやりくりして自炊だってした。その度に祖母は俺のことを褒めてくれた。俺はそれが嬉しくて仕方がなかった。
祖母の葬式が行われてから一ヶ月が経った頃だろうか。祖母から『もう心配ないね。大輝なら大丈夫だよ』と言われると、祖母は光の粒となり天に昇っていった。その時、初めて祖母は死んでいたんだと理解した。
小学校の友達には気味悪がられることが増えていた。どうやら俺には見えてはいけないものが見えてしまっているらしい。他人から避けられるようになっていった俺は少しずつグレていってしまった。
高校生になった俺は立派な不良になっていた。
「何ジロジロ見てんだよ。ぶっ飛ばすぞ」
「せっ、先生が大輝くんを呼んでこいって言うから」
俺に話しかけてきた見るからに根暗そうな男子生徒はナヨナヨとしている。
対して俺の見た目は深い青色に染めた長髪に鋭い目つき。母のピアッサーで穴ををあけた耳たぶには赤いピアスが輝いている。そんな身なりでガタイも良かったから、側から見たら、まあ、怖かっただろうな。
「んだよ。先公かよ」
職員室に行くといつものように怒られた。身だしなみをきちっとしろだの提出物をしっかりと出せだの。このとき勉強はそれなりにやっていたし、それでいいだろ、なんて思っていた。
説教を不満に思った俺は「へーい」というやる気のない返事をすると、それが先生の怒りをさらに加速させてしまい、態度を改めろとなおさら怒られてしまった。
都内で一番レベルの低い公立高校にせっかく入学しのたが、もうなんか面倒くさい、辞めてしまおうか。そんな気持ちが大きくなっていき、俺は授業をサボることが増えていった。
高校に入学してから二度目の定期考査が行われた。授業をまともに受けてこなかった俺が問題を解くことが出来るはずもなく、結果は学年で下から三番目だった。
「すごいな春明、学年一位って。しかも、ほぼほぼ百点じゃねーかよ」
「そーか? まあ、まだ初めての期末試験だから簡単な方だったんじゃね」
同じクラスで学年一位をとった奴がもてはやされていた。
くだらない。そう思った俺はテストの結果が書かれた紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
七月になり、少しずつ暑さを感じる季節になっていた。授業を受ける気力がすっかり無くなっていた俺は、サボって街並みを一望出来る高台に来ていた。最近見つけたお気に入りの場所だった。人がほとんどいない、邪魔をするものは何もない。ただ平穏な時間だけが流れていく。ここで柵に腕を掛けて、一人で景色を見ながら考え事をしたりぼーっとしたりすることが好きだった。
首を左に向けると少し離れたところに、首から一眼レフをぶら下げている女が俺と同じように景色を眺めていた。なんだ、今日は俺一人じゃないのか。軽くため息をついて帰ろうとすると、俺に気がついた女が声を掛けてきた。
「あれ? その制服……高校生だよね。もしかしてサボり? こんなとこで何してーんの」
「なんだよ、……学校にちくるのか?」
「別にそんなことしないよ。実は私も大学の講義サボってここに来たんだ。なんかさー、ここで景色眺めてると嫌なこと全部どーでもよくなっちゃうんだよね。なんてちっぽけなことで悩んでるんだろって」
女はそう言うと屈託のない笑顔を俺に向けてきた。
これが俺と桃子の初めての出会いだった。
俺と桃子はこの高台でよく会うようになった。初めは彼女のことが煙たかったが、何度も話かけられるうちに気が緩んでしまい、気がついた時には高校での愚痴や幼い頃のことなどいろいろ話すようになっていた。それでも、幽霊が見えるという事は話さなかった。いつの間にか彼女には嫌われたくなくなっていた。
十月になり、三度目の定期考査が近づいていた。
「大輝くんはさ。どうして勉強しないの?」
「どうしてって……めんどくさいから? あと高校行っても先公がウザいだけだし」
「そうなんだ。今のうちに勉強はしといたほうがいいと思うんだけどなー。これお姉さんからの助言です。あ、そうだ、私が勉強教えてあげようか」
「は? 別にいーよそんなことしなくて。別に勉強ができなくても生きていけるし」
「えー、大人になってから絶対困るよー。私が言えたことじゃないけど。高校で先生に教わるよりはいいでしょ。ね、一回だけ一緒にやってみよ」
「んー……わかったよ。一回だけな」
俺は渋々、桃子の家に行ってテスト範囲の勉強を教えてもらうことにした。
「えー、高校生の勉強ってこんなに難しかったっけ? えーとこの二次方程式の二つ解が共に正であるときの条件は……」
「実際にグラフかいてみたほうがいいんじゃねーか。こうやって。ほら、こっちのパターンしかありえないからこうやって当てはめて計算すれば、ほら解けた」
「おお、実は天才か? 君」
「いや、教える立場の人がこんなんでいいのかよ」
「理数系は苦手なの! 英語とか、文系の科目ならちゃんと教えられるから」
桃子の言う通り、英語の文法についてはとてもわかりやすく教えてくれた。中学生の頃から苦手意識の強かった単語や語法が嘘のように頭の中に吸収されていった。
俺は最初の一回だけでなく、何度も桃子の住むアパートに出向いては勉強を教えてもらうようになっていた。俺が勉強を教わっているのか、俺が桃子に勉強を教えているのか、わからなくなることもあったが、何より桃子に会って勉強をすることがとても楽しみになっていた。




