消えゆく「カイン」の心
山をひとつ叩き割るほどの過剰な力を見せてから、数日が過ぎた。
以前までのカインなら、少し魔物を倒しただけでも「みんな無事でよかった」と安堵し、倒した魔物の命にすらどこか申し訳なさそうな顔を見せていた。
頼まれごとは断れず、仲間たちが少し怪我をしただけで自分のことのように心配する――それが、村人カインという青年の素朴で優しい人柄だった。
しかし。
「カイン様、先ほどの盗賊たちですが……あそこまで容赦なく痛めつける必要はあったのでしょうか……?」
街道の脇で、剣士のライルが引きつった声で尋ねた。
足元には、全身の骨を砕かれ、ピクリとも動かなくなった盗賊たちが転がっている。命こそかろうじて繋ぎ止めているものの、復帰は絶望的な惨状だった。
「どうしてだい、ライル?」
カインは振り返り、淡々と答えた。
その表情には怒りも、悲しみも、罪悪感すらも存在しなかった。ただどこまでも平坦で、冷ややかな瞳がライルを射抜く。
「彼らは人々に害をなす悪だ。排除するのは当然だろう? 手加減をして反撃されたら、ライルたちに危険が及ぶかもしれないじゃないか」
「それは……そうですけれど……」
ライルは言葉を詰まらせた。
カインの言っていることは、論理としては正しい。だが、その声には温かみが一切感じられなかった。まるで「邪魔な雑草を刈り取った」としか思っていないかのような無機質さだった。
修道女のミリアと魔導士のセイルも、影で不安そうに身を寄せ合っている。
ここ数日、カインの感情が急速に希薄になっていることに、誰もが気づいていた。美味しいものを食べても喜ばず、美しい景色を見ても感動しない。ただ、迫り来る敵を機械的に、かつ徹底的に破壊することだけに全神経を注いでいるようだった。
(カイン様は……僕たちの知っているカイン様なんだろうか……?)
ライルの胸に、ぬぐい切れない不気味な疑念が広さしていく。
* * *
その夜。小さな宿屋の一室で、カインは一人ベッドに腰掛けていた。
右手に巻きつけた布を解く。
そこにあったのは、もはや人間の腕とは呼べない代物だった。
手首から肘を越え、二の腕のあたりまで、黒く禍々しい紋様が血管のように太く脈動しながら根を張り巡らせている。魔剣の柄と右手の皮膚は完全に同化し、境目すら判別できなくなっていた。
「……ふふ」
カインの口から、漏れ出たのは深い溜息でも恐怖の悲鳴でもなく、小さなくぐもった笑い声だった。
(……気持ちがいい)
カインは己の心境の変化を、客観的に観察していた。
以前の自分なら、こんな腕を見たら狂わんばかりに恐怖していただろう。村のこと、家族のこと、自分の未来のことを思って涙を流していたはずだ。
だが――今のカインの心には、何も響かない。
村の光景を思い出そうとしても、まるで遠い昔に読んだ本のイチ場面のようにリアリティがない。かつて大切だった思い出や感情が、頭の中からサラサラと砂のようにこぼれ落ちていく。
代わりに胸を満たしていくのは、圧倒的な全能感と、冷酷なまでの静寂だった。
『――そうだ……不要な感情など捨て去れ……――』
脳裏に響く重々しい声が、今や心地よい子守唄のように響く。
『――世界はお前の前で平伏す……お前こそが、全てを統べる者だ……――』
「そうか……僕は……世界を統べる……」
カインは空ろな瞳で呟いた。
黒い紋様が妖しく明滅し、カインの右瞳が一瞬だけ、人間のものではない『縦裂けの瞳孔』へと歪む。
素朴で優しかった村人カインの心は、魔剣の毒によって静かに、けれど完全に消え去ろうとしていた。




