第22話 見ている者
羆は車の陰から姿を現すと、裕太ら四人の方を向いて立ち止まった。
四つ足で立っても、その高さは傍らの乗用車のボンネットを優に超えている。
手足、胴体、頭部――そのすべてが、巨大な丸太や岩のように太く、大きかった。
黒曜石のような瞳に、夕陽が怪しく映り込む。
羆はその眼で、まるで四人を観察するかのように、じっと見つめている。
『……ゆ、裕太さん……撃たないんですか……?』
直樹は視線を羆から逸らさぬまま、小声で尋ねた。
『……俺たちを襲ってきたら撃つつもりだったよ……ただし……誰かは犠牲になってたけどな……』
裕太は猟銃を両手で構えている。
だが、銃口は地面に向けられたままだ。
『……え……?』
『……さっき言ったろ。羆一頭仕留めるのに、平均五発の弾がいるって。俺の銃は連射向きじゃない……五発撃つのに、リロード含めて五秒は掛かる』
裕太は静かに、しかしはっきりと続けた。
『そしてこの距離だ……五秒もあれば、誰か一人……最悪、二人以上は確実に犠牲になる……』
その言葉に、他の三人は一瞬、裕太の顔を見た。
すぐにまた、羆へと視線を戻す。
『こ、この距離っすよ……!?
頭撃てばいいじゃないっすか……!』
羆との距離は、十メートルを切っている。
素人目に見ても、外しようがない距離に思えた。
『そんな簡単じゃねぇんだよ……』
裕太は銃口を下げたまま、隙のない構えで言う。
『いいか。そもそも俺らの存在は、こいつに最初からバレてた可能性が高い。軽トラで乗りつけて、弾も二発撃ってる……音や匂いで気付かないわけがない』
夕暮れの園庭に、裕太の低い声だけが響く。
『初めから襲うつもりなら、フェンスからここまで一直線に突っ込んでくる。
走らなくても、そのまま歩いて間合いを詰めてくるはずだ』
裕太は、羆から目を離さず続けた。
『なのにこいつは、俺たちが銃を持ってるのを分かった上で姿を見せて……目の前で立ち止まってみせた』
一拍、間を置く。
『……まるで、何かを訴えるみたいにな……』
『…………』
三人の顔から、徐々に血の気が引いていく。
裕太が話し終えると、羆は白い吐息を漏らし、ス
ンスンと匂いを嗅ぐように鼻を鳴らした。
そして、猟銃を持つ裕太と、男の子を抱える彰宏を、交互に見回す。
『……!!
……こ、こいつ……』
浩平は何かに気付いたように息を呑み、彰宏の方
を見た。
『……まさか……この子を置いてけ……って……言ってるんですか……!?』
彰宏も羆の視線の意味を悟り、愕然と立ち尽くす。
抱えた腕が、わずかに震えた。
『マジで言ってんすか……!?
……どんだけ頭良いんだよ、こいつ……!!』
直樹は思わず、ほんの一歩だけ後ろに下がる。
次の瞬間、羆の視線が直樹に向いた。
直樹の身体が、凍りついたように動かなくなる。
『頭が良いっていうより……学習してる』
裕太が、低く言った。
『たぶん、市街地に出た羆の集団の生き残りだ。
撃たれたこともあるはずだ……銃声や、硝煙の匂いで、銃を脅威だって学んだ』
猟銃を握る裕太の指に、力がこもる。
『……俺が銃口を向けた瞬間、こいつは迷わず襲い掛かってくるぞ……』
『…………』
四人と羆の間に、重い沈黙が落ちた。
その膠着の中で、最初に口を開いたのは彰宏だった。
『……俺が、この子を抱えて……
あそこの道路沿いのフェンスまで走ります』
彰宏は、視線だけでフェンスの方向を示す。
『皆さんは、その隙に軽トラに戻って移動して下さい。
そして、フェンス越しにこの子を渡す』
一瞬、言葉を区切り――
『この子を受け取ったら……
……その後は、俺に構わず逃げて下さい』
震えてはいるが、その声色に迷いはなかった。
『はぁ!?
な、何言ってるんですか!そんなのダメに決まってるだろ!』
『そ、そんな……ちょっと待って下さいよ、彰宏さん!』
浩平と直樹が、慌てて制止する。
だが彰宏は、静かに続けた。
『こうなったのも、全部俺の責任です。
俺が皆さんをここまで連れてきて……ぐずぐずしてたから、羆に見つかった……』
彰宏は腕の中の男の子を見下ろした。
意識は戻らず、眠っているかのように動かない。
『君には、悪いことしたね……
折角、助けられたと思ったのに……』
彰宏は小さく息を吸い、
『君が死ぬ時は、俺も一緒に死ぬ。
……だから、許してくれよな』
そう言って、そっと前髪を掻き分け、頬を撫でた。
『……本当に……本気なんですか……?』
直樹が、震える声で尋ねる。
『直樹くん……色々、怖い思いさせて悪かったね』
彰宏は、直樹を見た。
『君はまだ若い。
避難所の事を……もし俺が逃げ切れたら……この子のこと、頼んだよ』
精一杯の笑顔だった。
『そんな……
そんなこと……言わないで下さいよ……彰宏さん……』
直樹の目から、涙が溢れ落ちる。
彰宏は大きく深呼吸し、意を決したように羆へと身体を向けた。
三人に背を向けたその姿は、今にも走り出しそうだった。
『待って……待って待って待って……!
待って下さい、彰宏さん!!』
直樹の叫びが、虚しく園庭に響く。
『ちくしょう……どうすりゃいいんだ!
おい、裕太……!本当にこれでいいのかよ!?』
浩平が、黙り込む裕太に声を荒げた。
『…………』
裕太は、必死に考えていた。
全員が助かる方法を。
だが、どれだけ考えても答えは出ない。
むしろ、彰宏が走り出すのを待っている自分がいることに気付いてしまった。
『……これしか……ないのか……』
奥歯を噛み締め、彰宏の背中を見つめた。
その時、一陣の風が園庭を吹き抜けた。
車の間を通り抜けた風に、枯葉と雪が舞い上がる。
寒風に頬を打たれた、その瞬間――
嗅ぎ覚えのある匂いが、裕太の鼻先をかすめた。
『……ガソリン……?』




