第8話 守るための壁
八月三十日 午前五時半 某県・街道沿い
国道に合流する県道や枝道はほとんどが封鎖され、黄色い規制線が張り巡らされている。
交差点には三角コーンや赤色灯を回した警察車両。
そして立ち入りを禁じる、警官の姿。
封鎖された道の入り口には、看板が立てられていた。
―【避難区域】―
大規模な獣害の継続発生および
太陽フレアの到達にともなう
電力・通信・物流機能の停止により
住民の安全確保ができない状態が予測されます。
この区域の住民は、指定避難所へ集約されています。
現在この看板を確認している方は、
速やかに、最寄りの避難所へ避難してください。
なお、区域内で発生した負傷・行方不明事案について
救助・捜索・物資支援は、行えません。
○○県・防衛省 ○○方面隊・○○県警―
◇
どこからともなく、防災無線の放送が、繰り返し流れていた。
『……こちらは、防災××です。
当地区の指定避難所は、いずれも、満員となっております。
現在、避難が可能な施設は、
△△総合体育館、ならびに、××ショッピングモールを、
臨時の避難所として、開放しております。
詳細は、各自治体の窓口へ、お問い合わせください。
尚、ただ今、電話が大変つながりにくくなっております。
避難の際は、道路上の、警察官などの指示に、従ってください。
野生動物には、十分、ご注意ください……』
同じ放送が、何度も、繰り返される。
昼も、夜も、関係なく。
その声が、
人の不安を、鎮めているのか、煽っているのか。
もう、誰にも、分からなかった。
◇
行き場をなくした車が、国道の本線へ押し出されていく。
空いている避難所を求めて、朝焼けの下をのろのろと進む、車の列。
その列に沿って、警官たちが立っていた。
無線で、どこかとやり取りをしている。
「……こちら、△△交差点。もう、限界です。
××方面の避難所、まだ空きは……はい……了解」
あぶれた人々を、少しでも空いている場所へ誘導する。
そのかたわらで、道の脇の茂みや、建物の陰にも目を配る。
獣が、いつ出るか分からない。
渋滞と、疲労と、見えない脅威。
その中で、それでも列は、かろうじて秩序を保っていた。
大きな文化センターの駐車場。
ホールの駐車場。
市民体育館の駐車場。
避難所になっている施設は、どこも車がぎっしりと詰まっていた。
そして「満車」の看板が、一つ、また一つと増えていく。
運転席の窓を下ろし、避難民が、誘導の警官に口々に尋ねる。
「すみません、どこか、まだ入れる避難所は」
「この先の小学校、もう一杯って聞いたんですが」
「子供がいるんです。どこか、ないですか」
警官たちは、無線を握ったまま繰り返す。
「申し訳ありません、順にご案内しています。
もう少し先へ、進んでいただけますか……」
その、どこか、が。
どこにも、なくなりつつあった。
◇
国道をのろのろと進む、一台のミニバン。
どこにでもある、ありふれた家族の車だった。
運転席の父親は、もう何時間ハンドルを握っているのか。
目は充血し、瞬きのたびに、意識が飛びそうになる。
昨夜、家を出てから、一睡もしていない。
「パパ、大丈夫? 代わろうか」
「……いや、いい。ママも、寝てないだろ」
助手席の母親は、スマホをシガーソケットのケーブルに繋いだまま、
食い入るように一晩中、画面を見ていた。
少しでも、新しい情報を。
どこか、たどり着ける場所を。
後部座席では、二人の子供がぐずっていた。
「ねえ、まだ着かないの……」
「陽菜、もう少しだから、我慢して」
「トイレ……ママ、トイレ行きたい」
「翔太も? ……もう少し、もう少しだけ、頑張って」
母親の声も、もう限界に近かった。
◇
カーラジオから、ニュースが流れていた。
『……各地の避難所は、収容の限界に達しつつあります。
避難所に入れず、車での移動を続ける方が多数に上り、
関東をはじめ人口が集中している地域の主要道路では、深刻な渋滞が発生しています……』
父親が、ハンドルを握り直した。
何時間も彷徨っているのは、自分たちだけではなかった。
『政府は先ほど、緊急の声明を発表しました。
既存の法令や条例にとらわれることなく、
受け入れに余裕のある施設は、可能な限り避難民を受け入れるよう、
強く要請するとのことです』
「……余裕のある施設なんて、あんのかよ」
父親が、掠れた声で呟いた。
ラジオは続ける。
『とりわけ、都市部やその周辺の、人口が集中する地域では、
指定避難所の数が、絶対的に不足しております。
政府は、大型商業施設やショッピングモールなどを、
臨時の避難所として開放するよう、
関係する業界、団体に、要請ならびに命令いたしました。
これらの施設は、外部から避難所と分かるよう、
「仮設避難所」などの表示を掲げることとなっております』
母親が、顔を上げた。
「モール……開放するって」
「……マジか」
一筋の希望だった。
『政府は、フレアの到達後も、
こうした臨時、非公式の避難所に対しても、
救助および物資の供給を行っていく方針である、と……』
◇
その政府の言葉を、どこまで信じていいのか。
フレアが到達すれば、通信も交通も断たれる。
そのとき、どこに、誰が避難しているのか。
急ごしらえの避難所を、政府がどうやって把握し、
どうやって物資を届けるというのか。
その見通しは、実のところ、何一つ立っていなかった。
半分は、国民を絶望させないための、優しい嘘だったのかもしれない。
だが、たとえそうだとしても。
政府は最後まで、そう言い続けるしかなかった。
見捨てない、と。
必ず助ける、と。
諦めた瞬間に、終わってしまう何かが。
国家という大きな器の、いちばん芯の部分に、あった。
◇
どれだけ走っただろう。
郊外に出ていた。
幹線道路の両脇に、ロードサイドの店が並ぶ一帯。
その大型店舗の一つ。
三階建てほどの、大きな建物の、屋上の外壁。
巨大なロゴと店名が描かれた看板。
その隣に、今、もう一枚。
別の何かが、するすると降ろされてくるところだった。
母親が、目を凝らす。
カーテンやシーツを、何枚もつなぎ合わせたような、巨大な布。
印刷物ではなく、
スプレーやペンキ、それにガムテープのようなもので、
手書きされた、アンバランスな、大きな文字。
『ひなん所』
店員か、集まった人々か。
誰かが、ありあわせのもので、たった今、こしらえたのだろう。
華やかな看板の、すぐ隣。
不格好な、手書きの、その文字。
けれど、それは確かに、告げていた。
ここに、いていい、と。
「パパ……あれ!」
「ああ……!」
後部座席の子供たちも、顔を上げた。
「もう、あそこしかないんじゃない?!」
「……よし、行こう!」
父親が、ウインカーを出した。
カチ、カチ、カチ、という音が、やけに頼もしく聞こえた。
◇
一台が、車列を抜けて、その店へ入っていく。
それを見た後ろの車も、一台、また一台と続いた。
国道を離れ、横道へ。
たった今、生まれたばかりの避難所へ。
誰もが、来たるべきその時に備えて。
少しでも安全な場所で、身を寄せ合うために。
集まっていく。
壁も、屋根も、あるだけましだった。
一人で車の中にいるより、誰かと一緒にいたかった。
終わりが来るのなら、なおさら。
◇
八月三十日 午前六時 北海道 某市・農業高校
けたたましい音が、避難所に響いた。
ウー、というサイレン。
そして、カン、カン、カン、という鐘の音。
その音に、真っ先に反応したのは、
避難所の運営を任された、大人たちだった。
校庭に、赤い車両が停まっていた。
普通の消防車より、少し小ぶりで。
車体の前に、桜の形をした紋章。
屋根には、地元の分団の名が書かれている。
消防団の車だった。
荷台や後ろから、疲れ切った人々が降りてくる。
新たに、避難してきた人たちだった。
その向こう、遠くの空からは、
途切れ途切れに、防災無線の放送が、風に乗って届いていた。
◇
夏にも関わらず、消防団の法被を着た恰幅のいい中年の男が、助手席から降りた。
大野克俊。この地区の消防団を率いる、団長だった。
四十八歳。少し腹は出ているが、その体は、見るからに頑丈そうだった。
克俊は、市役所の加藤忠司を見つけ、大股で歩み寄る。
「よう。この人らを頼むわ。
他はもう、どこも一杯でな」
「い、いや、しかし、団長さん。
うちも正直、もう……体育館は、とっくに埋まっていて」
忠司は、例によって歯切れが悪い。
そこへ、別の声が割って入った。
「――大丈夫です。まだ入れますよ」
落ち着いた、よく通る声だった。
校長の榊信介。
この農業高校の校長であり、避難所のまとめ役だった。
「体育館は確かに一杯です。
ですが、校舎の教室が、まだ空いている。
特別教室から順に、開けましょう。
小さいお子さんや、お年寄りから、先にご案内を。
教室なら、少しは落ち着いて休めます」
信介は、避難してきた人々に、穏やかに頭を下げた。
「よくご無事で。さあ、こちらへ」
克俊は、その様子を見て、ふうと息をついた。
「……助かるわ。さすが校長先生、話が早い」
◇
だが克俊は、避難民を送り届けて、ほっとしたその顔のまま。
ふと、正門の外へ目をやった。
そして、眉をひそめる。
農業高校の敷地の一部を取り囲む、古いフェンスと低い塀。
ところどころ錆びつき、隙間や穴も空いている。
克俊は、忠司に向き直った。
「なあ。あんたら、バリケードは作らんのか」
「え……?」
「フレア来たら、電気止まるべ。
そしたら、獣避けの電気柵も何もかも、みんなただの飾りだ。
そうなりゃ獣たちが防衛ラインを突破して街中に押し寄せてくるのも時間の問題だぞ。
そうなった時、このボロい塀だけで、ここを獣から守れんのか?」
忠司は、言葉に詰まった。
避難民の中からも、声が上がる。
「俺たちも、それ思ってたんです」
「じっとしてるだけじゃ、不安で。
何か、できることはないかって」
だが忠司は、やはり首を縦に振らない。
「……いや、しかし。
勝手にそんな、大掛かりなことを。
避難の妨げになったり、何かあったら、責任が……
本部にも、確認を取らないと……」
「本部、本部って、あんたなぁ…」
克俊が、呆れたように、天を仰いだ。
「そんな悠長なこと言ってる場合か?
フレアはよ、あんたの許可なんか待っちゃくれねぇぞ!?」
◇
険悪になりかけたその空気に、信介が割って入った。
「まあまあ、団長さん」
信介は、穏やかだが、はっきりとした声で言った。
「加藤さんのお立場も、分かります。
これまで避難所の運営は、行政の主導で進めてきた。
だから、勝手な判断はできない。当然です」
それから信介は、少し遠くを見るような目で、続けた。
「ですが……状況が、状況です。
他の避難所が、現場の判断で、もう動き始めているのなら。
私も、この学校を預かる者として。
ここにいる皆さんの、命を預かる者として。
フレアが来る前に、できる備えはしておきたい」
信介は、忠司をまっすぐ見た。
「加藤さん。ここは、私が責任を持ちます。
学校の施設も、生徒も、使ってください。
何かあれば、校長の私の判断だと、そう言ってくれて構いません」
忠司は、しばらく信介の顔を見ていた。
そして、ようやく、小さく頷いた。
「……分かりました。
校長先生が、そこまでおっしゃるなら」
◇
そこからは、早かった。
克俊が、パンと手を打ち鳴らす。
「よし、決まりだ! 時間がねえぞ、始めるべ!」
急ごしらえの計画が、立てられていく。
新しく壁を一から作る時間はない。
だから、使えるものは、何でも使う。
まず、車だった。
避難民の車が、校庭のあちこちに、停められている。
それを、動かせるうちに動かして、塀同士の隙間やフェンスの弱い場所、
いくつもある出入り口に、隙間なく並べていく。
「どうせ、フレアが来たら、動かなくなるんでしょう。
なら、好きに使ってください」
そう言って、快く鍵を差し出す避難民も、いた。
何台もの車が、正門以外の隙間を、ふさいでいく。
出入り口は、正門の一箇所だけに絞った。
そこにだけ、人を配置すればいい。
車で足りない場所は、学校のもので補う。
農業高校だから、資材倉庫に、鉄パイプや木材がいくらかある。
農機具も、使えるものは引っ張り出す。
そして、教室の、机と椅子。
積み上げれば、壁の足しになった。
◇
「――だが、人手が足りん」
克俊が、腕を組んで唸った。
大人たちだけでは、とても手が回らない。
避難民の中の、動ける者は募った。
それでも、足りなかった。
信介が言った。
「生徒たちにも、手伝ってもらいましょう。
寮にいるはずです。
こんな時です。あの子たちも、力になりたいはずだ」
克俊が、にやりと笑った。
「なら俺がいく。若いモンを叩き起こすのは、得意でな」
◇
どんどん、と、寮のドアが、乱暴に叩かれた。
直樹は、その音で、飛び起きた。
寝ぼけたまま、ドアを開ける。
そこに、見たこともない、恰幅のいいおっさんが、仁王立ちしていた。
「……え、誰…ですか?」
「なんだお前、こんな時にまだ寝てたのか。いい度胸してんなー」
克俊は、豪快に笑った。
「起きろ起きろ! 手が足りねえんだ。手伝ってくれや」
「て、手伝うって、何を……」
「バリケードだよ、バリケード。
外から獣が入ってこねえように、壁作ってんだ」
直樹は、まだ状況が飲み込めないまま、恐る恐る尋ねた。
「あの……外って、大丈夫なんですか。
その、野生動物とか……」
「ん? ああ、今はまだ大丈夫だ」
克俊は、あっさりと言った。
「警察や自衛隊が、まだ頑張ってくれてっからよ。
……まあ、フレアが来て、防衛ラインが止まったら。
その時は、獣に食われる前に、逃げ足鍛えとくんだな!」
がはは、と、克俊は笑った。
冗談のような、口ぶりだった。
だが、言っている中身は、笑えないほど、本気だった。
だからこそ、今のうちなのだ、と。
この、豪快なおっさんは、そう言っているのだった。
◇
床で寝ていた渉も、叩き起こされた。
二人して、寝間着のまま、校庭に引っ張り出される。
朝のうちは、まだいくらか、しのぎやすい。
だが、昇り始めた夏の日差しは、もう肌に痛いほどで、
少し動けば、すぐに汗が滲んだ。
その中で、大人たちが、忙しく動き回っていた。
車を、移動させる者。
鉄パイプを担ぐ者。
机を両手に抱えて、よろよろと運ぶ者。
フェンスの隙間に、木材を打ちつける者。
校舎の壁や木々から、鬱陶しいほどの蝉の声。
怒号と、金属の音と、エンジンの音。
そこに、遠くの防災無線と、時折、緊急車両のサイレンが、混じる。
避難所の朝は、様々な音で、ざわめいていた。
「そこの若いの! その机、あっちのフェンス際まで運んでくれ!」
言われるがまま、直樹は机を持ち上げた。
思ったより、重い。
角が、手のひらに食い込む。
渉と二人がかりで、それを運ぶ。
車と車の隙間を埋めるように、積み上げていく。
一つ、また一つ。
何度も往復するうちに、手のひらがじんじんと痛んできた。
流れる汗が、目に染みる。
だが、不思議と、嫌ではなかった。
◇
ふと、手を止めた、その時だった。
遠くの方から。
パン、と。
乾いた音が、風に乗って、微かに聞こえた気がした。
様々なノイズに紛れて、すぐに、消える。
だが、直樹には、分かった。
あれは、銃声だ。
この、街のどこかで。
今も、誰かが、獣と戦っている。
克俊の言葉が、蘇る。
今はまだ、抑え込まれている。
守られている。
――だが、それも、フレアが来るまで。
直樹は、ぶるっと、身震いして。
また、机を、持ち上げた。
◇
昨日まで、直樹はただ、巻き込まれていた。
テレビを眺め、ネットを見て、
何度かけても繋がらない親を思って、スマホを握りしめ、
眠れない夜を過ごしていた。
何もできなかった。
ただ、流されて、怯えているだけだった。
でも今は。
自分の手が、何かを運び、積み上げ、壁を作っている。
世界の終わりを前にして、こんな机一つでは、
何の役にも立たないかもしれない。
それでも、手を動かしている間は、余計なことを考えずにすんだ。
怖さが、ほんの少しだけ、紛れた。
◇
作業が、軌道に乗り始めた頃。
克俊たち消防団が、引き上げる支度を始めた。
現場には、団員が数人、残るようだった。
だが克俊は、また、次へ行くらしい。
「じゃあ校長先生、あとは頼んだわ。
まだ回らなきゃならん所が山ほどあってな」
「ええ。団長さんも、どうかお気をつけて」
克俊は、ひらひらと手を振って、消防団の車に乗り込んだ。
まだ、あちこちに、行き場のない人々がいる。
克俊たちは、それを一つ、また一つ、拾い集めて回っている。
この崩れかけた世界で。
誰に命じられるでもなく、ただ当たり前のように。
自分のやるべきことを、やっていた。
◇
消防団の車が、動き出す。
カン、カン。
カン、カン。
行きとは、少し違う、鐘の音だった。
サイレンは鳴らさず、鐘だけが、静かに響いている。
直樹は、机を運ぶ手を止めて、その赤い車両を見送った。
隣で、渉が、ぽつりと言った。
「……なんか、かっこいいな。あのおっさんたち」
直樹も、同じことを、思っていた。
世界が終わるかもしれない、こんな時に。
怯えるでもなく、逃げるでもなく。
軽口を叩きながら、危ない外へ、また戻っていく。
子供の頃、消防車や、パトカーを、目で追ったときのような。
うまく言えない、憧れのような気持ちが、胸に湧いた。
車は正門を出て、朝の街の方へ、遠ざかっていく。
鐘の音が、少しずつ小さくなり、やがて聞こえなくなった。
◇
直樹は、手のひらに残る、机の角の感触を確かめた。
まだ、じんじんと痛んでいる。
初めてだった。
自分の手で、大きな何かに抗ったのは。
それが、何かの役に立つのかは、まだ分からない。
見上げると、よく晴れた、夏の空が広がっていた。
朝だというのに、その日差しは、もう、じりじりと肌を焼いている。
あの青い空の向こうから、あと数時間で、何かが降ってくる。
直樹は、もう一度、机を持ち上げた。
そして、フェンスの方へと、歩き出した。
フレアの到達まで、あと、九時間。




