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第1話 人喰い鹿

秋風が吹き抜ける、北海道のとある市街地郊外の住宅地。


その中へと通じる道路に貼られた規制線は千切れて風に揺れている。


通行止めのバリゲードには看板が立て掛けられていた。


─【避難区域】─


この区域では

大規模な獣害の継続発生および

七月に発生した太陽フレアの影響による

電力・通信・物流機能の停止により

住民の安全確保ができない状態が続いています。


住民は既に指定避難所へ集約されています。

現在この看板を確認している方は

速やかに最寄りの避難所へ戻ってください。


なお、区域内で発生した負傷・行方不明事案について

救助・捜索・物資支援は行えません。


八月二十日 北海道庁・防衛省 北部方面隊・北海道警──


その規制線を抜けた先にあるのは、


人影のない家々。

放置された車両。

荒らされたゴミ捨て場。


歩道を埋め尽くした草木は、道路にまで枝葉を伸ばしている。

その一角に、一頭の鹿が立っていた。




『いました……鹿です』


二人の青年が民家の陰に身を隠し、息を殺してその様子を伺っている。


『そこまで大きくないっすね……この距離なら矢も届きますし、心臓も狙えます』


大久保直樹(18)は背中の荷から手作りのボウガンを取り出し、静かに組み上げた。

その手は人生初の狩猟に緊張し、小刻みに震えている。


『……待て。角と口元、確認したか?』


背後から、小林裕太(32)の低い声が届く。

POLICEの文字が残る透明な盾を構え、直樹の背中を守るように立っていた。


『……角は短いけど赤くはないです。口元は……この位置だとよく見えないっすね…』


『そうか……よし、撃て』


直樹は頷き、静かに矢を番えた。

ゆっくりと深呼吸し、息を止める。


──スパンッ!


矢が放たれ、二十メートルほど離れた鹿の脇腹に突き刺さる。


『ギュアアアアァァッ!!』


鹿は絶叫し、跳ねるように走り出すが、数歩で足をもつれさせ、茂みの中へ倒れ込んだ。


『よっしゃあ……! 一発で……!』


鹿が倒れたのを見て、直樹は興奮気味に道路へ飛び出した。


『おい待てっ! まだ動くぞ!』


裕太がすかさず呼び止めたが、その声と同時に鹿が身をよじらせ、急に跳ね起きる。


辺りを見渡した鹿の瞳が、道路に飛び出した直樹を捉えた。


『や…やっべ!!』


直樹は慌てて民家の陰へ隠れようとするが、時すでに遅し。


『ブフゥゥゥ!!』


唸るような低い声を上げながら、手負いの鹿はこちらに突っ込んできた。


『来るッ!』


直樹がそう叫んだ瞬間、裕太が直樹を庇うように前に躍り出た。

そのまま盾を構え、真正面からぶつかり合う。


ズドンッ──。


鈍い音を立て、盾が大きく揺れる。


『ぐっ…!!!』


鹿の力は重く、鈍い。普通なら勢いそのままに吹き飛ばされてもおかしくない。

全身全霊でどうにか受け止めるが、それが精一杯だった。


だが──裕太は押し返した。


『うおおおらああああ!!』


死んでたまるかと叫んだその瞬間、岩のように重かった盾が徐々に軽くなるのを感じた。

鹿が力を弱めたのではない。身体の内側から湧き上がる、己の力によるものだと裕太は悟った。


盾越しに鹿の動きを止めたまま、背から槍を抜く。


高枝切り鋏を改造した簡易的な武器。


それを、寸分の狂いもなく鹿の胸に突き刺した。


ズブッ、と骨の奥まで達する手応え。


鹿は一声も上げずに崩れ落ちた。


『……す…すげぇ……』


あっけにとられていた直樹が声を漏らす。


『裕太さん……すっげぇ力っすね……!』


『はぁ…はぁ……なんだこれ……火事場の馬鹿力ってやつか……?

まぁ…人間、危ないとリミッター外れるって言うしな…』


『聞いたことありますけど……鹿に力比べで勝つって……意味わかんないっすよ……』


『……言われてみりゃ、確かにな。

…まあいいや。運びやすいように、解体すっぞ』


裕太は自身の力に疑問を抱きつつも、その場に膝をつき、ナイフを取り出した。


『こいつ、何食ってたんすかね?』


直樹が興味本位で雑草の中を覗き込む。


『おいっ、やめとけ!』


『うっ!……おぅえぇぇぇぇぇ!』


そこには、死肉と化した人間が横たわっていた。


『……だから言ったろ。落ち着いたらこっちに来いよ』


『……はい、申し訳ないっす……』


吐き気が落ち着いたあと、直樹も鹿のそばに並んだ。


二人は無言で手を合わせる。

鹿に──そして、その傍らに転がっていた人間の成れの果てにも。


『……いただきます』


そう呟いて、裕太はナイフを腹に当てた。




足首の腱を切り、関節から脚を外す。

肛門の周囲を丸く切り抜き、そこから腹を割いた。


生温かい湯気と共に、臓器が露出する。


『うっ……』


直樹が思わず顔を背ける。

だが、すぐに戻ってきて、そばにしゃがんだ。


『……裕太さん、マジで慣れてますよね。

ていうか、なんでそんな冷静でいられるんですか?』


『……猟師やってりゃ嫌でも慣れんだよ』


裕太はナイフを肺の根元に差し込みながら、淡々と続けた。


『あの……この鹿って赤角あかづのなんすか?…見た目はただの鹿ですけど…』


直樹は時折顔をしかめつつも、裕太の迷いのないナイフ捌きに目が離せずにいた。


『見た目はな…ほら、これ見てみ。

本胃、焼肉でいうギアラだな。鹿も牛と同じ反芻動物だから、四つの胃袋を使って草を消化してるんだ。

一から三の胃袋は主に微生物による発酵。そして四つ目の本胃で胃液を使って溶かす。それが普通の鹿と比べて明らかに発達してる。

草食動物の胃酸は弱くて肉なんか消化できないけど…それができるようになってんだよ』


『なるほど…………てことは、赤角も…?』


『あぁ…俺たち猟友会が赤角と呼んでた鹿たちの腹ん中も、こいつと同じかそれ以上に発達してた。それだけじゃない…見た目もな…』


裕太は手元をとめて、直樹と目を合わせた。


『マジすか……つまり、そのうちこいつも……』


直樹は裕太の言葉に思わず固唾を飲む。


『そう…それに鹿だけじゃない…数年前から山の動物たちの様子がおかしかったんだ。

今思えば、あの頃からこいつらの変化は始まってたのかもしれない。

普通の動物の陰で、こいつらみたいな存在が徐々に増えてたんだ。

…見た目や食性さえも変えながらな』


『最近の話じゃなかったんですね…』


『ああ。最初の頃は、野生動物たちの異常行動ってくらいにしかニュースになってなかったな。SNSにもこいつらみたいな動物たちの怪しい動画が拡散されてたし。今思えばどこまでがフェイクだったんだか…』


『俺も一時期ずっと見てました…あの頃はどうせ全部フェイクだろって馬鹿にして…

でも、それから人が襲われるようになって、気付いたらこんなことに…』


心臓を切り離し、慎重に取り出す。

内臓は脇に掘った穴にまとめて入れた。


『俺だって最初の頃はそうだったよ。どうせ生成AIが作ったんだろってさ。


でも、猟に出た時に実際にこの目で見て分かったよ。確実に何か異変が起きてるってな。


それから人の生活圏内に野生動物が蔓延るようになって、獣害事件が後を経たなくなって…

…仕舞いにはうちの猟友会のベテランもやられてさ。


でも、それでも、自衛隊や警察と連携して、ギリギリ抑えてたんだよ。


それが──太陽フレアが来て、全部崩れた…』


直樹は思わず作業の手を止めた。


『……太陽フレア。

あれから世界中、何もかも変わってしまいましたもんね』


『あぁ…。太陽フレアでインフラは壊滅、ネットも死んで、情報源はラジオだけ。

俺ら猟友会も、自衛隊とかとろくな連携取れなくなって…気がつけばこのザマだ』


裕太は背肉を切り出し、枝肉の形に整える。


『でも、それでも九月に入るまでは支援物資も避難所に届いてましたよね?

ラジオで情報も流れてましたし…』


『無線とかは一部使えてたんだよ。

自衛隊や警察ともトランシーバー使って連携してたし、衛星電話も生きてたのかな……

車もまだ使えたしな』


『そうなんですね…てことは…やっぱり八月三十一日の夜に見えたオーロラって…』


『…二度目の太陽フレアだったのかもな…そして今度はそれが日本に直撃した…

あの日を境に無線も車も使えなくなってさ、

七月に太陽フレアが直撃したアメリカ周辺は車も動かなくなって被害は壊滅的、文明は18世紀に逆戻りしたとかってラジオで聞いてたけど、それって今の状況と全く同じだろ?

ラジオも止まってるから真相は分かんねぇけどさ…』




続いて皮を剥ぎ、背中と脚の肉を枝肉として切り分けていく。


『今じゃ文明の利器は何にも使えねぇ……

おぉ、このロースうまそうじゃん』


裕太は切り出したロースを手に持ち、直樹の顔の前へ嬉しそうに差し出した。


『え?…あぁ…うまそう…ですね…あはは…』


直樹は裕太の何気ない一言に、引きつった笑いで返した。



裕太は迷いのない手つきで、淡々と作業を進めていく。

何度も命と向き合ってきた人間の動きだった。


切り出した枝肉は、厚手の布で丁寧に包む。

その上から丈夫なビニール袋に入れ、口をしっかり縛った。


数分後、直樹が袋を抱え直したとき──


『……うわっ、これ。底に血、溜まってきてますね』


『あぁ、持ち方注意しろ。垂れたら痕跡になっからな』


『了解っす……』


荷を肩に担ぎ、ふたりは歩き出す。

コンビニへ向かって、住宅地を抜ける道を進んでいく。


誰もいない家々。

風に揺れる草と、崩れかけたフェンス。


さっきまで生きていた鹿の重みが、肩にずしりと乗っていた。


『浩平さんと幸さん、無事に着いてますかね』


『…あの二人なら大丈夫だべ』


『でも……連絡とれないと、やっぱり不安になりますね…』


『仕方ねぇ…今となってはな』


ゆるい坂を下り、曲がり角を越える。

コンビニの看板が、かすかに見えた。


『……そろそろ着くな』


裕太がそう言ったその瞬間──風が止まる。

直樹の足が、ふと止まった。


『……今、なんか……』


『……あぁ、感じた』


背後に何らかの気配。

振り返っても、そこには何もいない。

ただ、雑草がさっきより静かだった。


ふたりは何も言わず、また歩き出す。

血の滲んだビニール袋を揺らしながら、

コンビニの影へと向かった。


※第2話は【2025年7月4日6:40】に投稿予定です。


ここまで読んで頂きありがとうございました。

読者の皆様の応援がこの作品を書き切るモチベーションになります。

ブックマーク・評価・感想・考察お待ちしております。

作者Twitter(X)https://twitter.com/@GEROmadanamonai


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