第1話 人喰い鹿の肉、食べて大丈夫なんすか?
『……いたぞ、鹿だ』
秋風が吹き抜ける、住宅地の外れ。
放棄された家々。草に埋もれた道路。
その一角に、一頭の鹿が立っていた。
『あいつ……そこまで大きくない。矢も届く距離だ』
大久保直樹(18)は、背中の荷から手作りのボウガンを取り出し、静かに組み上げる。
指先がわずかに震えていた。
『……待て。角と口元、確認したか?』
背後から、小林裕太(32)の低い声が届く。
POLICEの文字が残る透明な盾を構え、直樹の背中を守るように立っていた。
『……角は短いです。口元も、血はついてない』
『なら撃て』
直樹は矢を番え、息を止め──
──スパンッ!
矢が放たれ、鹿の脇腹に突き刺さる。
鹿は跳ねるように走り出すが、数歩で足をもつれさせ、倒れ込んだ。
『やった……! 一発で……』
『まだ動くぞ!』
裕太の声と同時に、鹿が身を捩り、急に跳ね起きた。
唸るような低い声を上げながら、こちらに突っ込んでくる。
『来るッ!』
裕太が盾を構え、真正面からぶつけ合う。
ドンッと音を立て、盾が大きく揺れた。
鹿の力は重く、鈍い。
普通なら弾き飛ばされてもおかしくなかった。
だが──裕太は押し返した。
盾越しに鹿の動きを止めたまま、背から槍を抜く。
改造された高枝切り鋏の柄に、刃物を針金で固定した即席武器。
それを、寸分の狂いもなく鹿の胸に突き刺した。
ズブッ、と骨の奥まで達する手応え。
鹿が一声も上げずに崩れ落ちる。
『……すげぇ』
直樹が声を漏らす。
『裕太さん……すっげぇ力っすね……!』
『ふぅ……火事場の馬鹿力ってやつかな。
人間、危ないとリミッター外れるって言うしな』
『聞いたことありますけど……鹿に力比べで勝つって……意味わかんないっすよ……』
『……言われてみれば、確かにな。
まあいい。運びやすいように、解体すっぞ』
裕太は膝をつき、ナイフを取り出す。
『こいつ何食ってたんすかね?』
直樹が興味本位で雑草の中を覗いた。
『おい待て!』
『うっ!…おぅえぇぇぇぇぇ!』
そこには死肉と化した人間が横たわっていた。
『…だから言ったろ。落ち着いたらこっちに来い』
『…はい、申し訳ないっす…』
吐き気が落ち着いた後、直樹も鹿のそばに並んだ。
ふたりは無言で、手を合わせる。
鹿に──そして、その傍らに転がっていた人間の成れの果てにも。
『……いただきます』
そう呟いて、裕太はナイフを腹に当てた。
足首の腱を切り、関節から脚を外す。
肛門の周囲を丸く切り抜き、そこから腹を割いた。
生温かい湯気と共に、臓器が露出する。
『うっ……』
直樹が思わず顔を背ける。
だが、すぐに戻ってきて、そばにしゃがんだ。
『……裕太さん、マジで慣れてますよね。
ていうか、なんでそんな冷静でいられるんですか』
『……もう慣れたよ』
裕太はナイフを肺の根元に差し込みながら、淡々と続けた。
『数年前から、山の動物の様子が変だった。
今思えば、あの頃からこいつらの雑食化は始まってたのかもしれない。
見た目も行動も、どんどん変わってきてた』
『……最近の話じゃないんですね』
『ああ。あの頃は大してニュースにはなってなかったんだよ。
でも今年になってからは、猟友会のベテランでさえやられるようになった』
心臓を切り離し、慎重に取り出す。
内臓は脇に掘った穴にまとめて入れた。
『それでも、自衛隊や警察と連携して、ギリギリ抑えてたんだよ。
それが──あのフレアが来て、全部崩れた』
直樹は思わず作業の手を止めた。
『……太陽フレア。
あれから世界中、何もかも変わってしまいましたもんね』
『ああ。
太陽フレアでインフラは壊滅、ネットも死んで、生きてるのはラジオだけ。
俺ら猟友会も、自衛隊とかとろくな連携取れなくなって、気がつけばこのザマだ』
裕太は背肉を切り出し、枝肉の形に整える。
『でも、それでも9月に入るまでは支援物資も避難所に届いてましたよね?
ラジオで情報も流れてましたし』
『無線とかは一部使えてたんだよ。
自衛隊員もトランシーバー使ってたし、衛星電話も生きてたのかな……
車もまだ使えたしな』
『てことは……やっぱり、8月31日の夜に見えたオーロラって』
『……二回目の太陽フレアだったのかもな。
二回も食らえば、文明は終わるんだな』
続いて皮を剥ぎ、背中と脚の肉を枝肉として切り分けていく。
『今じゃ文明の利器は何にも使えねぇ……
おぉ、この背肉、いい具合だ。煮ても焼いてもいける』
裕太は迷いのない手つきで、淡々と作業を進めていく。
何度も命と向き合ってきた人間の動きだった。
切り出した枝肉は、まず厚手の布で丁寧に包む。
その上から丈夫なビニール袋に入れ、口をしっかり縛った。
数分後、直樹が袋を抱え直したとき──
『……うわ、これ。底に血、溜まってきてますね』
『ああ。持ち方注意しろ。垂れたら痕跡になる』
『了解っす……』
荷を肩に担ぎ、ふたりは歩き出す。
コンビニへ向かって、住宅地を抜ける道を進んでいく。
誰もいない家々。
風に揺れる草と、崩れかけたフェンス。
さっきまで生きていた鹿の重みが、肩にずしりと乗っていた。
『浩平さんと幸さん、無事に着いてますかね』
『あの二人なら大丈夫だべ』
『でも……連絡つかないと、不安になりますね』
『しゃあねぇさ。今は音も光も届かねぇ』
坂を下り、曲がり角を越える。
コンビニの看板が、かすかに見えた。
『……そろそろ、着くな』
裕太がそう言ったその瞬間──風が止まる。
直樹の足が、ふと止まった。
『……今、なんか……』
『ああ。感じた』
背後に、気配。
でも振り返っても、何もいない。
ただ、雑草がさっきより静かだった。
ふたりは何も言わず、また歩き出す。
血の滲んだビニール袋を揺らしながら、コンビニの影へと向かった。
※第2話は【2025年7月4日6:40】に投稿予定です。
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