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まだ名もない物語  作者: GERO
序章
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第1話 野生の異変


満月の夜から、数年後。


ある夏の夜。



男は自室のドアを開けた。


手にはスマホと缶チューハイ、そして電子タバコ。



テーブルに酒と電子タバコを置き、慣れた手つきで引き寄せる。


スマホを片手に、そのままベッドへ仰向けに倒れ込んだ。



天井を見上げ、大きく息を吐く。



今日の出来事が、勝手に頭に浮かんでくる。



夕方、住宅地でまた羆の出没情報があり、市役所から猟友会へ出動要請が入った。


農場の仕事を切り上げ、現場へ向かった。


民家に居座った個体をようやく仕留めた頃には、辺りは夜になっていた。



常夜灯の灯りが、室内をほのかに照らしている。



電子タバコに手を伸ばし、無言でスマホを操作した。


YouTubeのアプリを開く。


少し考えてから、検索欄に文字を打ち込む。



『野生動物 異常行動』



タップ。



並ぶのは、サムネ詐欺のショート動画ばかり。


見なくてもディープフェイクだと分かるようなものだった。



長尺の方は、ニュースの切り抜きが中心。



その中に、都市伝説系YouTuberの動画が一本紛れていた。


数日前の投稿。再生回数はそこそこ。



興味本位で、男は再生をタップした。



―



帽子にグラサンの男が、画面に現れる。



『ハイハイみなさん、ごきげんよう!』



軽い口調が、薄暗い部屋に流れた。



『暖かくなって、また熊による被害が増えてきましたねー。


都内にもつい先日、荒川を経由したと思われる熊が板橋区の団地周辺に出没して大騒ぎになりました。


遂にアーバンベアが現実のものに、と。



その裏で、こんな動画が拡散されているのをご存知でしたか?』



画面が、拡散動画へと切り替わる。



『都市部の防犯カメラ映像。


路地から出てきた野良猫を、上空からカラスたちが急降下して囲い込みます。



ここまでは、よくある「モビング」です。



しかしこのカラスたちは、つつかない。


猫の逃げ道を塞ぐように配置につき、ちょうど通りかかった車の前へ追い込んだ、ようにも見える動きをします。



猫はパニックになって車道へ飛び出し、間一髪で車を避けます。


──ですが、カラスたちは、その「事故りそうな瞬間」を、何度も、何度も、繰り返させるんです』



男は無言で煙を吐いた。



『お次はこちら』



画面が切り替わる。



『夕暮れの公園。


飼い主と離れた場所で、匂いを嗅いでいる小型犬。


その背後から、植え込みを縫うようにして三頭のハクビシンが現れます。



ハクビシンは本来、臆病な動物です。犬を見れば一目散に逃げる。


──ですが、この個体たちは違う。



一頭が犬の正面に立ち、注意を引きつける。


その隙に、残りの二頭が左右から回り込み、首と胴体へ同時に噛みつく。



犬がキャンと鳴いた直後、三頭は植え込みの方へ、強引に獲物を引きずります。



飼い主の女性はリードを必死に引っ張りますが、首輪が抜けてしまい、そのまま茂みの奥へ連れ去られてしまう。



……最後は、飼い主の悲鳴で動画が終わります』



男はちびちびと酒を口に運びながら、画面を見つめ続けた。



『お次は、ブラジルのアマゾン。


研究者が設置した野生カメラの映像です。



木の上で静止していたナマケモノに、オウギワシが急降下。


その鉤爪で背中を掴み、離陸しようとします。



──ですが、ナマケモノは抵抗するどころか、まるで準備していたかのように、自身の長い鉤爪を、オウギワシの両翼の付け根と首筋へ、正確に突き立てます』



画面の中で、二匹の影が落ちていく。



『そのまま地面へ落下。


衝撃で翼を折られたオウギワシがもがく中、ナマケモノはゆっくりと、しかし確実に、体の上に乗りかかり、鉤爪で頸動脈を切り裂きます。



動かなくなったオウギワシの上で、ナマケモノは──



肉を食べるでもなく、


ただ流れ出る血を、ひたすら啜り続けていました』



―



次々と紹介されるショッキングな映像を、男は酒と煙草でやり過ごしながら、ただ見ていた。



『他にも似たような動画が、たくさんバズっています。


皆さん、どう思います?



……さすがに胡散臭いですよねー!



最後のナマケモノなんて、お前いつから吸血鬼になったんだよ、って。



どの動画も、生成AIによるディープフェイクだと思いますし、コメント欄でも「バズり目的」「再生稼ぎだろ」って意見がほとんどです』



画面の男が、わずかに身を乗り出す。



『で──ここからが、ちょっと怪しいんですけどね。



こうした動画が、運営によって次々と削除されているみたいなんですよ。



理由として考えられるのは、悪質なフェイクで人々の不安を煽るから、というところでしょうか?



でも、今回の動画はあり得ない内容ばかり。


そこまで削除する必要はないだろう、という声も多いんですよねー。



もし、ディープフェイクに混じって、本物の動画も含まれていたら……ゾッとしますよねー!



そしてそれを消そうとしている、影の権力者がいるってことなんでしょうか?



さて、今回の本題は──皆さん大好き、UFOにまつわる最新情報です!


かの有名なロズウェル事件の裏に潜む、隠された陰謀を──』



UFOの話に切り替わったところで、男はスマホを閉じた。



「……ディープフェイク、か」



呟きながら煙を吐き出す。


煙は天井へ昇り、薄く消えていった。



やがて瞼が重くなり、男はそのまま眠りに落ちた。



―



翌朝。


スマホの着信音で、男は目を覚ました。



「はい、もしもし……」



眠い目をこすりながら、電話に出る。



「おお、裕太。起きたか?」



低くしゃがれた声。


先輩猟師の浜中康男(64)だった。



電話の向こうで、複数の猟犬の吠える声がする。



「はい……今、起きました」



「朝っぱらから悪いな。また羆だ。今から来れるか?」



「またですか……。ハマさんは?」



「俺も今、犬連れて向かうところだ。どれくらいで出られる?」



「えーっと、十分もあれば」



「分かった。位置情報、今送るからよ。それと、朝飯のおにぎり、お前の分も買っといた」



「えっ。すいません、ありがとうございます」



「いいっていいって。昨日、俺の代わりに出てくれたからな。じゃ、待ってるぞー」



電話が切れると、すぐにLINEで位置情報が送られてきた。



裕太はそれを開く。



市街地から離れた森の外れ。


だが、近くに民家が点在している。



「街に、徐々に近付いてるな……」



呟いて、身支度を始めた。



―



リビングでは、朝の仕事を終えた両親が遅めの朝食を取っていた。



「おはよ。羆が出たから行ってくるわ」



「おはよう。またなの? ご飯は食べていかないの?」



母親が席を立つ。



「あー……昼飯に食べるから取っておいて」



「気をつけるんだぞ」



父親が、納豆を混ぜながら顔を上げた。



「分かってるよ。ハマさんも一緒だから。じゃあ、行ってくる」



裕太はそう言い残し、家を出た。



―



スマホのナビ通りに、車を走らせる。



道中、防災無線があちこちでこだましていた。


内容は、羆の出没情報。


これから向かう現場のことだった。



十五分弱で、現場に着いた。



パトカーが数台停まり、規制線の向こうに警官とハンターの姿が見える。



車を降りて装備を整え、規制線をくぐった。



「おはようございます、お疲れ様です」



挨拶すると、皆から口々に返事が返る。



「おお、裕太。昨日はご苦労さん」



浜中だった。


すでにベテラン猟師が二人ほど到着している。



「お疲れ様です。──で、羆は?」



「たった今、駆除したところだ。民家の納屋に潜んでてな、罠を仕掛けようとしたら、突然飛び出してきてよ」



「えぇ……大丈夫だったんすか」



「間一髪だったが、何とか仕留めた。見るか?」



浜中は、納屋前のトラックの荷台を指差した。



ブルーシートをめくると、羆が横たわっている。



胴体に数か所の銃創。


後ろ脚からも血が流れていた。



「小さいですね……それに、この傷……くくり罠から抜け出したんでしょうか」



「ああ、まだ二、三歳ってとこだな。ひどく怯えてた様子だった。


縄張り争いに負けて、ここまで来たのか、罠でパニックになったのか……


──あるいはな……」



浜中は言葉を切り、顎で森の方を示した。



裕太が視線を向ける。



森と耕作地の境界。



そこに、蝦夷鹿の群れが立っていた。



全頭が、こちらを向いている。


まるで様子を観察しているかのようだった。



猟師たちが黙って見つめていると、群れの中から、一際立派な角の鹿が前に出た。



口元が、わずかに赤く染まっているようにも見える。


距離があり、はっきりとは分からない。



それでも、視線がこちらに向いているのだけは確かだった。



裕太の背筋に、冷たいものが走る。



昨日見た動画が、ふと、頭をよぎった。



「あそこの鹿って……ずっと、ああしてるんですか?」



そっと尋ねる。



「あぁ。俺らが到着した時から、ずっとあそこにいる」



浜中はブルーシートを羆に被せながら答えた。



「この前もよ、鹿、見なかったか?


鹿だけじゃねぇ。狸や狐なんかも、その辺から顔出してたこと、何度かあったよな?」



周囲の猟師たちに問いかける。



「たしかに……」



「言われてみれば……」



皆、思い当たる節がある様子だった。



「まさか……羆が、格下の動物たちに森を追い出された、って言ってるんですか?」



裕太が真剣な顔で聞く。



「最近、野生動物の動きが、妙に活発だろ?


うちの犬たちも、鹿にビビって追いかけなくなってよ。


この前なんか、途中で狸に噛まれて、尻尾巻いて戻ってきた。



荒療治になるが、羆に会わせれば自信を取り戻すかと思って、今日連れてきたんだが──」



浜中は、トラックのケージを見た。



中には、雑種の中型犬が二匹。


伏せたまま、うずくまっている。



「車から、降りようとしねぇんだ」



「……」



「あいつらも、もう歳だからな……そろそろ引退かもしれんが、


それでも、こんなこと、今までなかったからよ」



猟師たちの間に、重い沈黙が流れた。



「──まぁ、そんなことある訳ねぇよな!


たまたまだ、たまたま!



ほら、そこに裕太の分のおにぎりあるから食っちゃえな!


みんなの分のコーヒーもあるから、一服しようや!」



浜中が、空気を変えるように明るく振る舞う。



警官たちが撤収準備を始め、ハンターたちも束の間の休息に入った。



防災無線から、アナウンスが流れ始める。



『──羆は、無事に駆除されました──』



その様子を。



少し離れた森の境界から、


鹿の群れが、ただじっと見つめていた。


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