信じること-1
家族を失ったショックと事故の怪我による脳の障害ではないかと医者は言った。
すべての臭いが手に取るように分かってしまう。
俺の診断した医者はカツラだ。だって、異常なまで汗が蒸しかえった臭いが頭から煙のようにばら撒いてやがる。それにタバコ吸うだろ。煙とニヤの臭いを話すたびに吐き出しやがって。まるで下駄箱みたいな口をしている。看護婦さんは髪の上に塗っているトリートメントはツバキか?人工的なクソ甘い蜜の臭いがする。人を不快にさせる甘い臭いだ。それとファンデーションの粉っぽさが俺の鼻を纏わり付く。さらに汗臭さをごまかすための柑橘系の冷汗剤の臭いが俺の鼻を切り刻むようだ。それ以上近づくな不愉快だ。購買で出会ったばあさんは干からびた魚の日干しの臭いがする。それはもう死人の臭いに近かった。これ以上関わりたくない悪寒のする臭いだ。子供の唾液のなんともいえない生臭さはダメだ。しかも、それを気にせず放置することで唾液が蒸発し、生臭さに粉っぽさと腐った匂いが加算される。やめろ。気持ち悪い。
病院内を歩いているだけでどんどん人が嫌いになっていく。人のいるところに出向くだけで人が嫌いになっていく。こんな悪臭を放っている奴らと俺は普段から関わっていたのかと思うと悪寒で鳥肌が立つ。別に潔癖症というわけじゃない。埃っぽいのが嫌いだとか汚れていることが許せないとかは思わない。どちらかといえば、俺の自室はいつも物が散らかっていてよく母さんに片付けなさいと怒られたものだ。そんな俺が人の臭いが悪寒だと感じるようになってしまったのはこの鼻のせいだ。なんで、こんな異常なまでに鼻がよくなってしまったのか?理由を考える前に俺はこれでは生活できないと人の臭いからの悪寒と気持ち悪さと吐き気を体が壊れるんじゃないかって思うくらいに堪えながらマスクを購入した。その後、拝借したガーゼに水をぬらしてマスクの下に潜ませる。水が外気の臭いを俺の鼻に直接入ってくることを防いでくれている気がする。そういう先入観で水を湿らせた。それである程度は人前を歩くことができたが、それでも口臭とか体臭といった独特で強い臭いのものはマスクと水を含んだガーゼでも防ぐことはできず、極端に人と話す機会が減ってしまった。そのせいか根暗で話し下手のイメージが医者たちの間でついてしまった。今後も俺のそのイメージは付きまとうことになる。
そんな他人のイメージの話はどうでもいい。それよりも俺がどうしてこんなに鼻がよくなってしまったのかの話だ。
医者にありのままことを伝えるとこう告げた。
「賢治くん・・・・・そんな臭いはしていないから」
それは衝撃的な否定だった。
「君は家族を失ったショックで少しばかり脳にダメージがある。そのせいでしないはずの臭いに過敏に反応してしまっているだけだ。脳が誤認しているといったほうが正しいかな?」
脳が誤認している?違う。確かに俺が感じ取る異臭は本物だ。性別によって年齢によって場面によって環境によって臭いはすべて異なる。
「違う!臭いは本当にするんだ!」
目の前のハゲの医者の下駄箱みたいな異臭を放つ口臭に吐きそうにながら漏れは必死に訴える。だが、医者はまぁまぁと俺をなだめる。
「精神科の先生のところに行くといい。君に必要なのは脳の怪我よりも心の怪我を治す必要がある」
「ふざけるな!信じてくれ!俺にはあんたの生ゴミを食った後みたいな口臭が臭うんだよ!歯磨いてないだろってことが臭いで分かるんだ!それにあんた着ている服の汗臭いが昨日よりも増してる!着替えてないだろって臭いで分かるんだって!信じてくれ!」
「・・・・・・君の言葉はきっと信じてくれるよ」
それはお前の言うことは信じるわけがないという嫌悪する視線だった。先生の機嫌を損ねるようなことを俺は言ってしまったことに気付いていない。影でえっと驚くような声をひそひそと呟きあっている看護婦さんたちの姿を俺は見ていないからだ。清潔感が求められる病院の印象を壊すような発言をしたことに先生は言葉では発さなかったものの態度で俺に怒った。
その後に回された精神科の先生にも同じようことをした俺の言葉を信じるどころか誰も聞かなくなってしまった。嘘を言っているわけじゃない。本当のことなんだ。気付けば、俺の世話をしてくれる看護婦さんもどこか嫌そうな表情を押し殺しながら俺に接してくるようになった。
それは医者や看護婦さんだけに留まらなかった。俺を見舞いに来てくれる友人にも同じような態度を取ってしまう。いつも俺に絡んでくるやんちゃ者の鼻水に臭いが嫌い、メガネをかけたガリ勉のカビくらい臭いが嫌い、俺によく世話を焼いてくる女の子も大人ぶった香水の臭いが嫌い。でも、俺は友人と呼べる彼らなら俺の言うことを信じてくれると事実を告げると最初は戸惑ったが受け入れてくれた。だが、その関係もあっという間に崩れる。
やんちゃ者がくれたお菓子の臭いが気に入らなかった。腐った臭いがしたからだ。口にできなかった。賞味期限切れていたからだ。ガリ勉は俺が休んだ分のノートを俺に貸してくれたがどれだけ湿っぽいところで勉強しているか知らないがかび臭くて触れない。女の子は持ってきてくれた花は腐っていて生臭くてすぐに捨ててしまった。
口には出していなくとも態度で分かってしまったのか、それとも無意識のうちに言ってしまったのか分からない。その数日後にはその友人は誰一人俺のところに見舞いに来てくれなくなった。
気付けば、孤独になっていた。ひとりになっていた。すべてはこの鼻のせいだ。いや、俺を不快にするような臭いを発している奴らが悪いんだ。俺の言葉を信じない奴らが悪いんだ。そう言い聞かせる。でないと孤独な自分が惨めで泣きそうになるから。屋上でひとり風の臭いで自分の鼻の中を入ってくる嫌悪しか抱かない生活臭を嗅がないために空を見上げていた。西か吹く強い風が俺の心の傷を刺す。だが、この風の臭いは心地いい。西側の山脈には雪が積もっている。その雪の匂いだろうか。自然から発生する臭いだけが俺の心を安らげてくれる。このまま山に篭もる生活を送ることも本気で考えようと思ったときだった。
屋上に通ずる鉄の扉がぎりぎりと嫌な金属音を立てて開いた。
「屋上に来ると、さすがに寒いな」
と草色のジャンバーを羽織った背広の男がやってきた。背丈は平均よりも高い180くらいはあるだろうという長身の男。猫背で草色のジャンバーのポケットに手を突っ込んで胸ポケットからタバコの箱が見える。黒髪の短いスポーツ刈りの髪に細いが筋肉質良いの体つきをした武将髭を持つ30代半ばくらい男だった。
その男は俺の方を見ると笑みを見せて近寄ってきた。俺の背から強い西風が吹く。そのおかげか男が纏っているであろうタバコ臭いがしない。だが、俺の嫌いな臭いを放つ汚物であることは確かだ。敵意と言ってもいいかもしれない視線で睨みつける。それに戸惑ったような笑みを浮かべたまま俺の元にやって足を止める。
「えっと、君が犬山賢治くんか?」
頭を掻き毟りながらそう尋ねる。
「そうだけど」
「そんな不機嫌になるなって」
手をひらひらとやって俺の機嫌を整えようとするが、おちょっくているようにしか見えない。
そもそも、こいつはなんなんだ?俺の名前をなんで知っている?
「おっと、申し遅れた」
内ポケットから何かを探し始めたがなかなか出てこない。
「あれ?おかしいな」
今度はジャンパーのポケットを調べるが出てこない。慌てて背広の中のポケットの中も調べ始める。
なんか相手しているだけ無駄な気がする。でも、横を素通りするとタバコの臭いするんだろうな。嫌なんだよな。煙臭いのニヤの臭い。あんな異臭を好んで口に含んでいる人間って本当に馬鹿なんじゃないかって思う。体に悪いのし、金掛かるし。
「あった!」
と喜びながら背広の胸ポケットから取り出した黒い手帳が開くとそこには金色の紋章と目の前の男の武将髭のない写真が入ったドラマとかで見たことあるものだ。
「俺は警察や。で刑事成木正義や。よろしく」
「・・・・・・刑事?」
「そう」
まるで少年みたいな笑顔を浮かべて手帳を元の胸ポケットに戻して手をポケットに突っ込む。
「ちょっと話を聞きたくてね」
「話?」
その話の予想はなんとなくついた。しかし、成木はすぐに本題を切り出さなかった。
「かなり医者たちを困らせているみたいやな」
何を思ったのか俺の前に胡坐をかいて座った。
「はぁ?」
あごに手を置いて自慢げに語る。
「なんでも、どえらい鼻が良くなって」
どえらいとはすごいの方言である。
「それがなんだよ」
誰も信じてくれないことを言われたところで・・・・・何がしたいんだよ。この男は。
「どんな臭いがするんや?」
「・・・・・・・・・・はぁ?」
その視線はさんさんとしていた。興味を示す目だ。
「ナースのお姉さんはさぞいい匂いがするんやろうな~。その匂いが分かるんやろ。俺も嗅いでみたいって。警察官がナースの匂いを嗅いだら社会的に問題やろ。でも、近くにいるだけでその人の匂いが分かるくらいのどえらい鼻が良くなれば、犯罪やないしな!ばれなきゃ犯罪やない!」
警察が言うことじゃないだろ。
「ああ、言ってもナースは若いねーちゃんに限定やで。ババアの臭いを嗅いだらそれこそ汚臭やわ。嗅ぎたくわない。さっさとゴミに出してしまいたいわ」
自分の鼻をつまみながら何かを掴むふりをして捨てるしぐさをする。
「何がいいたんだよ」
成木はそのしぐさをやめてポケットに手を突っ込んで立っている俺を見上げる。
「俺はお前の言うことを信じてるで」
「信じてるって」
「なんかどえらいひどいことを医者やナースに言い放ったらしいな。臭い、ゴミみたいな、汚物みたいな、人の臭いやないって。その表情は・・・・・意識していないな」
言った記憶はない。だが、思っていた。でも、言っていいことと悪いことくらい俺にだって分かる。それでも俺は言ってしまっていたことに驚きを隠せなかった。それは絶対に違うって言い換えそうにも、自分のではなく第三者の成木が言うのだからきっと言ってしまったんだろう。だから、俺は孤独に屋上にいるんだ。
「まぁ、そう落ち込むなって」
成木は胸ポケットの煙草に手が一瞬だけ伸びたがすぐにその手を引っ込めた。
「賢治くん。いや、賢治。君は信じるか信じないかって言われたらどうする?」
「どうするって・・・・・その状況によるけど」
「俺は信じるほうを選ぶ」
その成木の答えは即答に近かった。
「警察は疑うのは仕事やってよく言われる。でも、俺はそれでも信じるほうを選ぶ。信じるのと信じないとでは面倒ごとへの手間は圧倒的に信じないほうが少ない。やけど、信じることでその人が救われることがある。実際に俺は信じたことで被疑者の無罪を証明したことがある。泣きながら俺は違うって訴えた。同僚は皆口を揃えて嘘泣きに決まっていると言った。やが、俺はその言葉と涙を信じた。その結果が身の潔白を証明するに至った。これはほんの一例や。実際には身の潔白を証明できないことがほとんどや」
それはそうだ。犯罪者が自分の罪から逃れようと嘘をつくのは当たり前だ。それを信じてしまっては警察の仕事として成り立たない。
「やけども、俺は信じる。嘘でも信じ続ける。そうすれば、自然と相手も俺に心を開く。別に犯人の口を割るためやない。これは俺の善の心から信じることを選んでいる。実際に本当のことを叫び続けて信じてもらえない者の救いになりたい。俺はそう思っている」
再び煙草に手が伸びようとするのを再び引っ込める。
「賢治。お前は今苦しんでいる。誰にも自分の言っていることを信じてもらえないからや。やから、約束しようや」
成木は俺の目の前に手を差し伸べる。
「俺はお前の言うことを信じる。お前が異常に鼻が良くなってしまったことを信じる」
そんな口約束言うだけなら簡単だ。だが、目の前の成木という男はそれを実行してしまっている。煙草に手をつけないにも俺の嫌う臭いであることをどこかで知ったからだろう。風下から動かないのもその心使いだ。
「ハハ、バカみたいだな」
と俺は小バカにする。
「警察は疑うのが仕事だろ」
「違う。俺にとっての警察は信じることや」
「それだと犯罪を防げないだろう」
「防げる犯罪もある」
「でも、それだと効率が悪い」
「効率が悪くとも俺は救われるものを救う」
胡坐をかいていた成木が立ち上がる。
「それが俺の正義だ」
目の前の成木は堂々と告げた。信じることが正義である。
「やから、俺はお前のことを信じてるんや。臭い」
鼻を指差しながら告げる。刑事として俺に接触してきた理由。
「賢治はデパート爆破の直前、何か変な臭いがしなかったか?例えば―――甘い臭い」
それはデパートの地下に入る前に感じたネットリの鼻の中で気味悪く残る甘ったるい匂い。和菓子でも洋菓子でもない砂糖の匂いではない。胸やけがしてしまいそうになる甘ったるい臭いが一瞬にして火薬の臭いに変わる。その臭いを俺は嗅いだ。
「その甘い臭いが一体?」
成木は静かに告げる。強い西風に声が消されてしまいそうになりながらも俺は聞き入る。
「爆弾魔を捕まえるために協力して欲しい。賢治の鼻が必要だ」
孤独な俺の一筋の光が差し込む。
成木の話ではこうだ。
あのデパートの爆発には亜酸化窒素というガスらしい。ほのかに甘い臭いがする可燃性のガスである。だけど、亜酸化窒素だけでは爆発はしない。火種が必要となってくる。つまり、犯人たちはデパートの地下という空気の長時間滞留しやすい場所にそのガスを充満させてどこかのタイミングで火をつけて爆発させた。試食コーナーなどが混在デパ地下ではそのガスの甘い臭いを誰も判別できなかった。だが、数少ない生き残った人々の中に甘い臭いを嗅いだという人がいた。ほぼ虫の息だったその人の言葉を成木は信じたのだ。だが、成木の信じた生き残りの人はそのあと息を引き取ってしまった。甘い臭いの正体を知るために証拠が欲しい成木は探し回ったのだ。亜酸化窒素の臭い、甘い臭いを嗅いだ被害者を信じるために。
そして、成木は俺に出会った。
「甘い臭いのするガスを調べているところで亜酸化窒素というものにたどり着いた。笑気ガスとかいろいろ名称があるらしいが、工業的には発火促進剤として使われるらしい。あの爆発の原因になりうるガスやと俺は踏んでいるんや」
風下に座りながら俺に事件の経緯を説明する。
「笑気ガスっていう抜歯とかの恐怖を軽くするための麻酔とかに使われるガスやから入手系統を探れば、犯人をぐっと絞れる」
大きく指し伸ばした手をぐっと掴みかかるよう握る。
「そのためには証言がいるんや。俺がいくら信じてやってもそれを認めてもらうだけの証拠がなけりゃ周りを信じさせることはできない。これ以上たくさんの人を殺した犯人を野ざらしにしておくなんて吐き気がするわ」
この成木という男はまっすぐだった。まっすぐに正義を語るだけの信念を持った男だった。こんな男に俺の鼻が異常によくなったことを信じてもらえることがなんかうれしかった。目の前の成木の言うことはきっと本当のことなんだから。
「甘い臭い」
そう、あの甘い臭いが一瞬のうちに火薬の焦げ臭いに変わった。
「俺知ってるよ」
「・・・・・・え?」
「甘い臭いを」




