信じること-2
成木の連絡先を貰った。今日は俺が甘い臭いを知っているかどうかを聞きに来ただけらしいのだ。詳しい聴取は明日改めて行うということらしい。あの事件から1週間が過ぎようとしている。あの事件の生き残りはそう多くない。俺の元に話しを聞きに来るのに1週間という時間がかかったのは親を失った精神的配慮を考えたことらしい。俺が異常な行動を病院内で繰り返していることを聞きつけてやって来たらしい。異常な行動をしているということはそれだけ回りに迷惑をかけているということで心を閉ざして閉じこもっていることは少なからずないと判断したらしい。
成木の連絡先はメモ帳の切れ端に殴り書きで書かれた電話番号のみだった。これを受け取る前に捜査状況について少しだけ聞いた。報道では規制がかかっているかもしれないと思ったから最前線の状況はどうなのか知りたかった。成木はあっさり教えてくれた。それもそのはずだった。捜査は何一つ進展していない。それはテレビの報道と何も変わらなかった。
爆発によって証拠らしいすべて消滅してしまったらしい。監視カメラのある警備室も地下の爆発に巻き込まれてデータの入ったハードが大破してしまってデータの修復はほぼ不可能となった。目撃者がいたかもしれない。だが、生き残ったものはほとんどが地下の入り口付近にいた人ばかりで犯人らしい人を見ていない。もしかしたら、犠牲者の中に犯人がいるかもしれない。被疑者死亡で警察も捜査を終えようとしている。だが、成木はその警察の結論に納得行かずこうして独断で捜査している。甘い臭いを追っている。
亜酸化窒素。
ネットで調べると確かに笑気ガスとして歯医者の抜歯とかに使われているガスらしい。そんなものをデパ地下に運んで充満させることが可能なのか?きっと、プロパンガスのようなタンクに詰められているはずだ。そんなものが大気中に充満しているところを誰にも気付かれずにできるのか?
俺は携帯電話を開いてあのデパートの地図を探す。地図はデパートのサイトの館内案内にあった。その案内はどの位置で何が販売していたか分かりやすく色分けされていた。その地図で出入り口は複数個所ある。階段にエレベーターにエスカレーターだ。あの日のデパ地下は人で混み合っていた。地下では北海道フェアをやっていてからだ。そんな中、どうやってガスを運び込んだ。
あらかじめ仕込んでいたのか?でも、もし前日に仕込んでいたら従業員が見ているはずだ。すべての従業員が地下で作業するわけじゃないから目撃者がいてもおかしくない。それがいないとなると目撃した人は爆発に巻き込まれてしまってもういないのか。甘い臭いは追えば分かる。だが、今の俺の鼻は知りたい臭い以外の臭いを多く拾ってしまう。それが俺の体調を崩し、周りから疎遠になってしまう。これ以上の疎遠はゴメンだ。でも、成木の言葉が脳裏をよぎる。
たくさんの人を殺した犯人を野ざらしにしておくなんて吐き気がする。
そのとおりだ。爆発させることに成功して警察の捜査から逃げ切っている犯人はさぞ満足しているんだろう。こうして今ものうのうと生きているんだろう。家族を、幸せな時間を奪った。そして、俺にこんな鼻まで覚醒させて苦しんでいる中で犯人は何をしている?
途端に俺は犯人に対する憎悪が強くなる。ベッドのシーツを強くに握りしめる。破れるんじゃないかって思うくらい。その瞬間、俺の鼻が回りのすべての臭いを一気に拾った。辺りの外気が瞬時に鼻の中に吸い込まれるようにいろいろな臭いが鼻の中で混沌と混ざり合う。その臭いが脳を揺らし、胃袋を縮ませてる。
もがく俺はベッドから落下する。シーツが後を追うように覆いかぶさるように落ちてくる。その中で俺は胃袋の中身は吐き出す。充満するのは夕食で食べて鮭のムニエルとサラダと米が黄色胃液に混ざってどろどろになったものだった。充満するゲロに臭いは自分から発されたもので自然と気にならなかった。逆に胃袋の中身がすべて出たおかげで何かすっきりした。のどの奥が焼けるようにひりひりするのが気にならない。口元に残った吐瀉物を袖でふき取って立ち上がる。そして、俺は目を閉じる。臭いというものは可視することはできない。だが、そのときの俺はなぜかさえていたのか分からないが、すべての臭いが見えているように嗅ぎ分けることができた。空間を正確に認識するように臭いを正確に認識できた。花瓶に飾られた花の蜜の甘い香りと水の中で繁殖しているかびの臭い、シーツの下のゲロの臭い、壁に塗られてほのかに臭う塗料の臭い、カーテンを洗浄するときに使われた柔軟剤の臭い、すべてが鮮明に分かった。その中に俺があの時に嗅いだ臭いがほのかに漂っているのが見えた。甘い臭いだ。それは廊下からだった。色に例えるなら薄ピンク色だ。そのピンク色の甘い臭いが一筋に流れていた。俺はその臭いの後を追う。周りには別の臭いも漂っているが、俺はその甘い臭いだけを追った。階段を降りる。降りる。階が低くなっていくごとにその薄ピンク色の臭いは濃くなっていく。薄ピンク色は濃いピンクに変わっていく。2階にたどり着いたところで臭いは位階に続いていたが流れから根源は2階だと感覚で分かった。ゆっくりと臭いの根源を辿ると歯科口腔外科にやってきた。診察室の扉の隙間から臭いはでていた。扉は開かなかったが、充満する臭いの挙動を俺はこの鼻で嗅いだ。臭いは床いっぱいに広がっていた。それはガスが空気よりも重いことを示していた。




