天使の本①~シグルド~
僕の名はシグルド・ニルコラス。二七歳。
女神信仰を主信教とするこのクルスニク大陸の一教会に身を置く神父の一人だ。僕は布教活動をしながら旅をしている。その布教活動の旅を始めたのは二〇歳の頃。
ジャグダンでは成人は二〇歳なんだ。その年になると皆就職をする。僕の幼馴染のカイーナはエアトの冒険者ギルドに就職したっけ。
僕の熱心な活動により他信教からも移ってくる信徒が増えた。それはとても喜ばしいことだよ。この世界に生きる喜びが増えたということだからね。きっと彼らは以前よりも輝かしい生活をしていることだろう。
「主よ、アステリアよ。生きる喜びを糧に我らをお導きください」
教会の自室のベッドに両手を組んで床に膝をつく。毎朝の祈りは欠かさない。
天にまします我らの母よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
女神アステリア。それが女神信仰の唯一神。
長い緩やかな髪を持ち、豊やかな肢体を持つのはその御心でもってこの大地を豊穣の地とさせた証でもある。なぜ神の姿を教会のステンドグラスで現すかというと、はるか昔、このクルスニクの大地を作った折に実際にこの世界に降り立ったから。その姿を見たものは何千何万とおり、皆が一様に一人の女神を見たのだ。
クルスニクは神の槍。はるか昔魔人アルバクダルを女神アステリアがその一刺しで仕留めたという槍だ。つまり姿を見たものはその頃に生きていた者たち。この世の生き証人でもある。
女神アステリアはその魔人アルバクダルを倒した強大は槍をそのままにし、その上に豊穣の大地を作ったのだ。したがってこのクルスニク大陸の下には今も強大はクルスニクの槍が眠っていることになる。
多くの者がそれを確かめようと深淵の海へと潜ったが、誰も実際に見たものはいない。だが、それは確実にそこにあるのだ。
魔の島という島がある。ポールアームの内湾に位置するクルスニク大陸唯一の島だ。
魔の島ははるか昔打ち倒された魔人アルバクダルの目玉だといわれている。悪しきものを映すその目玉は魔人アルバクダルが死してもなお血の涙を流していたという。現在は火山島となっていて、一〇〇年の周期で噴火している。それは魔人アルバクダルの憤怒の炎だとか。
五冊の本がある。神の本、天使の本、剣王の本、誘惑の本、悪魔の本だ。
神の本は女神アステリアの本。天使の本はクルスニクの槍を作ったという天使のことが書かれている本。剣王の本は女神の教えでもある、清く正しくあれという教えそのもの本。誘惑の本は魔人アルバクダルが女神アステリアを淫らな視線で誘惑した折に囁いた言葉を書いた本。悪魔の本は魔人アルバクダルを唆した魔王の子の魔力を宿した本となっている。
これらは記録閲覧室には記載されていない禁書の一つに記載されている。
女神信仰の司祭以上に閲覧を許された禁書。なぜ僕がそれを知っているのかというと。それは僕が天使の本の所持者だから。だから特別に閲覧が許されたんだ。
本の所持者は神の一つ下に列される存在。そこには身分などは関係ない。たとえ孤児だとしても、卑しい盗賊だとしても、本の所持者になったものはその時点で敬われるのだ。
僕が天使の本の所持者になったのはつい最近のこと。南シーザでの布教活動が一段落して一度拠点であるジャグダンの教会に戻ろうとして旅車で旅をしているときだった。
カンナブラの教会で一泊した後、古物書を探しに古本商へ立ち寄った。そこで僕はできるだけ古い聖書を探していたのだけど、声がしたんだよ。
『そこのあなた。わたしの声が聞こえる? 聞こえているのなら返事をしてほしいのだけれど、いいかしら』
「聞こえてるよ。でも変だな。僕の他には男性の店主しかいないのだけど。もしかしていたずらかなにかかい」
『違うわ。わたしは天使の本。わたしの声が聞こえる人材を求めていたの。あなた、わたしを買いなさいな。不幸にはしないわ。わたしは天使の本なのだから』
その声を聞いて僕は驚いたよ。天使の本だって? 天使の本といえば、クルスニク大陸に広がる宗教の一つで、五冊の本を崇める宗教だ。この宗教の信徒は皆本の虫みたいなもので、日がな一日、本を読み漁っている。その宗教の崇める本のうちの一つがなぜここに。僕を謀っても意味はないけれど。
だけど、この頭に響く声。不思議と安らぐ鈴のような愛らしさを持つこの幼い声には悪意は微塵も感じない。だとすればこれは。
『ここよ、わたしはここにいるわ。見て御覧なさいな』
声の強くするほうへ視線を投げかけると、真っ白な生地と金糸で文字が縫われ装丁された本があった。その本はただ純粋に綺麗だった。まるでこの瞬間から五冊の本信仰に鞍替えしようかと思ってしまうほどに。いや、僕の信仰は唯一神である女神アステリアただお一人。だけどその決心をいくらか揺さぶるほどではあったよ。
「君かい、僕を呼んでいたのは」
『そうよ。わたしを持っていき買いなさいな。決して悪いようにはしないわ』
「うーん。たしかに君からは悪意の欠片も感じないけれど、そうだね。ひとまずは君を買っていこうか。店主が僕を気味悪く見ているからね。早く退散したほうがよさそうだ」
男性の店主が不審そうに僕を見る。僕はかなり怪しかったらしい。それはそうだね。この年で本に向かって話しているんだもの。せいぜい笑顔を振りまいてお金を出すくらいしか僕にはできなかったよ。
そうして古本商を出てしばらく歩いた後、彼女、天使の本が話し出す。
『わたしは五冊の本のうちの一つ、天使の本。わたしの所持者となれば浄化の炎、癒しの力を手にすることができるわ。見たところ貴方は神父ね。おあつらえむきの力だと思うのだけどどうかしら。わたしと契約してわたしの望みを叶えてくれないかしら』
「契約だって? 望みを叶えるとどうなるんだい」
『わたしの望みは五冊全ての本を集め、魔の島の本棚に収まること。それは本の所持者にしかできないことだわ。全て揃え戻した暁には、その力は貴方のものとなるでしょう。どうかしら。そんなに悪い話ではないのだけれど』
浄化の炎。それは死の淵から甦った腐人をもう一度深淵へと送り返す術。火の魔法使いでも限られた極一部の者しか扱えない魔法じゃないか。それに癒しの力だって? それはまさに神の力。癒しの魔法を使えた者はこの世の歴史を見ても数人しかいない。その内の一人になれるんだろうか。
この力が手に入ったら世の人々を少なからず救えるに違いない。
「つまり僕は本を集めて戻せばいいんだね。わかった。その願い叶えます、天使の本。僕の名はシグルド・ニルコラス。これからどうぞよろしくお願いしますよ」
『ありがとうシグルド。やはりわたしの目に狂いはなかっったわ。神父を選んで正解ね』
こうして僕は火の魔法使いとなり、神にも近しい身分を得ることになった。だから、この僕がすることは正しいんだ。なぜなら僕は神に選ばれたのだから。




