01-09.ムフバット視点1
別人視点の話です。
トッシュが再び子供部屋へ戻っていった後、私は中庭の椅子に腰掛け、一度止めていた針を動かし始めた。
使い込まれた絨毯の太い糸を引っ張りながら、ふう、と胸の内に溜まっていた息を吐き出す。
「本当に、生きた心地がしなかったわ……」
ぽつりと呟いた言葉は、乾いた中庭の空気に吸い込まれて消えた。
一昨日の昼下がりのことだ。
初等学校の先生が、ぐったりとしたトッシュを背負って、血相を変えて我が家に飛び込んできた。
拝受の儀の途中で、突然叫び声をあげてそのまま気絶してしまったのだという。
先生から大慌てで受け取ったトッシュの体は、驚くほど熱かった。
小さな布団に寝かせ、冷たい水で濡らした布を何度も額に当てながら、私は一晩中、神様に祈り続けた。
このまま目を覚まさなかったらどうしようと、涙が止まらなかった。
神様から魔法を賜る大切な儀式だとはいえ、まだ七歳の小さな子供の頭には、大典の一節は負担が大きすぎたのかもしれない。
丸一日以上が経ち、今朝になってようやく熱が引いて目を覚ましてくれたときは、心の底から救われたと思った。
だけど……。
「なんだか、少し不思議な感じがするのよね」
絨毯のほつれた端に針を刺しながら、私は首を傾げた。
熱が下がって起きてきたトッシュは、確かに私のかわいい長男だった。
私の顔を見て安心したように笑い、お腹が空いたと言ってノンを食べる姿は、いつものトッシュそのものだ。
それなのに、ハッとするほど大人びた目で家の中や私たちを見つめていた様子があった。
まるで、ずっと遠いところから、私たちの生活を客観的に観察しているような、そんな妙に落ち着いた目だ。
ハッサンやフサンが騒いでいるのを、少し困ったように、でもどこか愛おしそうに眺めているときの顔は、まるで父親のプラートのようでもあった。
極めつけは、さっき厨房にわざわざ下りてきて言った、あのおかしなお願いだ。
水ではなく、わざわざ温かいお湯が飲みたいと言い出した。
朝の空気は確かにまだ少し肌寒いけれど、あの子はいつもなら起きてすぐに水瓶の冷たい水を美味しそうに喉に流し込むような子だ。
それだけなら病み上がりの気まぐれだと思えたけれど、あの子は私の服の裾をぎゅっと握りしめて、信じられないことを言い出したのだ。
自分だけじゃなく、家族みんなが飲む水を、毎日、毎回、すべてお湯かお茶に変えてほしい、と。
この辺りでは、カナートから流れてハウズに溜まるお水は、神様がくださった清らかなものだと思っている。
当たり前のことだ。
毎朝、トッシュが率先して水瓶に汲んできてくれる瑞々しい水だ。
それなのに、あの子は「水だと濁っていそうな気がして」なんて、おかしなことを口にした。
あんなに必死な顔で私に食い下がるトッシュを見たのは、初めてだった。
「無理なことは、無理なんだけどね……」
私は手元に視線を落とし、小さく溜め息をついた。
この土地では、乾燥した家畜の糞炭も、綿花の枯れ枝も、冬を越したり毎日の食事を作ったりするための貴重な財産だ。
水を飲むたびにいちいち火を起こして湯を沸かすなんて、そんな贅沢な燃料の使い方は、いくらあの子の頼みでも我が家の経済力では到底許されない。
ダメなものはダメだと、そこは厳しく言うしかない。
だけど、あの子のあの真っ直ぐな目は、何かに取り憑かれたような恐ろしいものでは決してなかった。
むしろ、何か目に見えない恐ろしいものから、私たち家族を必死に守ろうとしているような……そんな、とても優しくて切実な目。
幼いなりに一生懸命頭を悩ませて、家族のことを心配してくれているのが、痛いほど伝わってくる目だった。
トッシュは昔から、本当に優しい子だ。
私が裁縫で夜遅くまで起きていると、そっと隣に座って「そろそろお母さんも寝なよ」と言ってくれるような、まだ落ち着きのない弟たちの面倒もよく見てくれる自慢の長男。
そんなあの子が、あんなに必死にお願いしてきたのだ。
お茶を沸かす回数を少し増やすくらいなら、私のやりくり次第でどうにでもなる。
我が家を支える母親として、それくらいの手間は何でもない。
「おかしな子、なんて言っちゃったけど……」
私は自分の上着の襟元に目をやった。
トッシュの上着にも施した、悪いものを遠ざけるためのおまじないの刺繍。
母親の私が針仕事に込める願いと、あの子がお湯を求めたときの必死な気持ちは、もしかしたらどこか似ているのかもしれない。
ふと、一歳になるまえに亡くしてしまった、あの子の前の、最初の長男のことを思い出してしまった。
今でこそ、このままじゃいけないと気を入れなおしたけれども、あの子を亡くしてしまって数年は、私はひどく人の死に怯えるようになってしまっていた。
だけど、この地域では幼くして子供が亡くなるなんて当たり前のこと。
五歳になるくらいまではいつ亡くなってもおかしくない。
なんだか、そんな必死になっていた自分のことを今では少し気恥ずかしく振り返った。
全部を叶えてあげることはできないけれど、あの子のやりたい通りに、できる限りのことはさせてあげたい。
あの子が何かを守ろうとしているのなら、私はその小さな背中を優しく支えてあげるだけだ。
「よし、今日のお昼や今晩は、少しだけでもいつもより多めにお茶を沸かしておいてあげましょう」
針箱を片付けながら、私は立ち上がった。
あの子が次に下りてきたときに、温かいお茶で驚かせてあげようと考えながら、私は愛おしい我が子たちのために厨房へと足を向けるのだった。
トッシュ(主人公)の母親である、ムフバット視点での話でした。
このあと2話ほど別人視点が続きます。




