01-08.燃料の壁
お母さんが厨房から戻ってきた。
その手には、我が家でいつも使っている、茶色い素焼き土器の茶碗が握られている。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」
「ありがとう、お母さん」
受け取った茶碗の中には、なみなみとお湯が注がれていた。
よく見ると、湯気の中に小さな黒い塵のようなものがいくつかプカプカと浮かんでいるのが見える。
その瞬間、僕の脳裏におじさんの『うっ』『塵が浮いてる』という嫌悪感の断片がよぎった。
だけど、ここで躊躇したら絶対にお母さんに変に思われるし、せっかく沸かしてくれたお母さんにも悪い。
僕は目を瞑り、温かいお湯を一気に喉へと流し込んだ。
少しぬるめではあったけれど、喉を通り抜けていく感覚は、ただの水よりもずっと優しくて安心できる気がした。
お腹の奥がじんわりと温かくなっていく。
「あらあら、そんなに喉が渇いていたのかしら? 朝の火種がもう小さくなっていたから、それくらいしか沸かせなかったのよね」
空になった茶碗を受け取りながら、お母さんが目を丸くした。
僕はふうと息を吐き出すと、お母さんの服の裾をそっと引っ張って、本題の再提案を切り出した。
「あのね、お母さん、もう一つお願いがあるんだ。今日だけじゃなくて、明日から毎日……僕だけじゃなくて家族みんな、飲む水を水じゃなくて、全部お湯かお茶にしてほしいんだ」
「え?」
お母さんは驚いたように眉をひそめ、僕の顔をじっと見つめた。
「うーん……食事のときであれば、普段からお茶を沸かしているからいいんだけど……毎日毎回ってことよね? トッシュ、急にどうしたの? お水をそのまま飲みたくない理由でもあるの?」
「ええと……なんとなく、お水だとちょっと濁っていそうな気がして……」
僕が口ごもりながらそう言うと、お母さんは困ったように笑って、僕の頭を優しく撫でた。
「トッシュも変なことを言うのね。お水でもお湯でも、元は同じでしょう? うちの水瓶に入っているのは、毎朝貯水池から汲んできた綺麗なお水よ。流れているお水は清らかなんだから。いつもはあなたが率先して汲んできてくれているでしょう?」
お母さんの言う通りだった。
この村では、山から地下水道を通って流れてくる水は清らかで安全なものだと信じられている。
だからみんな、水瓶の上澄みをそのまま飲むことに何の疑問も持っていないのだ。
あからさまに怪しまれている僕の頭の奥から、おじさんのあきらめと納得が混ざったような、うっすらとしたため息の気配が伝わってきた。
(『沸騰』『滅菌』『そんな概念ない』『説明しても伝わらない』……)
言葉にはならなくても、おじさんが「この世界の人に科学の理屈を理解してもらうのは無理だ」と痛感しているのがよく分かった。
お母さんはさらに言葉を続ける。
「それに、この時期のお水は冷たくてとても綺麗よ。夏になって暑くなった時期は、確かにちょっと嫌な匂いがして、お腹を下したり体を崩したりする人もいるけれど……今は大丈夫よ」
お母さんのその言葉に、僕はハッとした。
夏になると水が臭くなって人が倒れる。
それはやっぱり、水の中にいる悪いモノが原因だったんだ。
おじさんの知識の正しさが、お母さんの言葉によって皮肉にも証明されてしまった。
家族をそんな目に遭わせたくない。
僕は諦めずに、もう一度お母さんの目を真っ直ぐに見つめた。
「わかった、お母さん。自分でもよくわからないことを言っているとは思うんだけど……でも、どうしてもお願いしたいんだ。お湯かお茶がいいんだ」
子供の僕がそこまで必死に食い下がるのは珍しかったからだろう。
お母さんは「うーん……」と顎に手を当てて、少し困ったように考え込んでしまった。
「そうねぇ……。お水を飲むたびに毎回沸かすとなると、その都度火を起こさないといけないでしょう? 火を起こすには燃料が必要だけど、薪はもちろん、家畜の糞炭だってうちには必要な分しかストックがないのよ。お茶を沸かす回数を少し増やすくらいならできるかもしれないけれど、毎日毎回お湯を用意するのは、うちの燃料じゃ難しいわ」
やっぱり、燃料の壁が立ち塞がった。
この乾燥した土地では、火を維持すること自体がもの凄くお金のかかる贅沢なのだ。
毎回お湯を沸かすなんて、我が家の経済力では到底許されないことだった。
だけど、少しなら増やせる。
その言葉だけで、今の僕には十分な大収穫だった。
「ありがとう! 全部じゃなくても、少し回数が増えるだけでもいいんだ。お母さん、ほんとにありがとう!」
「なんか変ねぇ。本当におかしな子」
僕が飛び上がって喜ぶと、お母さんは呆れたように、でも愛おしそうにクスクスと笑った。
ひとまずは、お茶の回数を増やすという小さな勝利を勝ち取ることができた。
だけど、僕の頭の奥では、おじさんの強い懸念のイメージが波のようにざわめいていた。
(『全然足りない』『生水を飲む回数が減るだけ』『夏が来たらアウト』『別の方法』……)
分かっている。
火を起こして沸騰させるだけじゃ、燃料が足りなくて家族全員を毎日守ることはできない。
ただの気休めにしかならないんだ。
(別の策を考えないと……火に頼らずに、あの泥水を綺麗にする別の方法を)
僕は中庭の乾いた土を踏みしめながら、頭の上の『雲』にある知識をどう使えばいいか、次なる知恵の戦いへと思いを巡らせ始めるのだった。




