01-07.病み上がりのわがまま
横になってしばらくじっとしていたら、体の中に少しずつ元気が満ちてくるのが分かった。
頭痛も完全に治まっている。
これならもう、ずっと布団の中にいる必要はなさそうだ。
僕は絨毯の上から起き上がり、土の階段を下りていった。
一階に降りて中庭に出ると、太陽の光が優しく降り注いでいた。
その中庭の高床式縁台 で熱心に針を動かしている人の姿が見える。
「お母さん」
「あら、トッシュ。眠れなかったかしら?」
母のムフバットが、針を持った手を止めて優しく微笑んだ。
お母さんはとても働き者で、村でも裁縫美人と評判だ。
お母さんが膝の上に広げているのは、我が家で長く使っている大きな絨毯だった。
少し端のほうがほつれてしまったらしく、太い糸で丁寧に縫い合わせている。
我が家の中にある絨毯や、部屋を仕切る美しい布の多くは、ほとんどがお母さんが手ずから縫い上げたものだ。
この地域では、家の中にたくさんの布を飾る。
夜寝るときに体に掛けるふんわりとした厚手の布もそうだし、僕が今着ている上着の襟元にも、お母さんが縫ってくれた独特の幾何学模様の刺繍がある。
それは、病気や悪いものから身を守るための『おまじない』の刺繍だ。
おじさんの記憶にあるような、機械で大量に作られた服とは違う、手縫いの温かさがそこにはあった。
家族を大切に想うお母さんの気持ちが、一針ごとに込められているのが伝わってくる。
「うん、もうすっかり元気だよ。……あれ? おばあちゃんは?」
いつもなら厨房か中庭にいるはずの、グルスランおばあちゃんの姿が見当たらない。
僕が尋ねると、お母さんは楽しそうにクスクスと笑った。
「おばあちゃんなら、羊たちの世話へ行ったわよ。今朝の食事のとき、ハッサンとフサンが『人数が少ないから放牧は疲れる』なんて文句を言っていたでしょう? それを聞いたおばあちゃんが、じゃあ私がやってやるよって、羊の世話を買って出たのよ。ブロンを連れて、意気揚々と馬に乗って出かけていったわ」
おばあちゃんが馬を乗りこなして放牧に向かう姿を想像して、思わず僕も笑ってしまった。
おばあちゃんは昔から肝が据わっていて、男の人顔負けに馬を操るのが上手なのだ。
それに、我が家には頼もしい味方がもう一匹いる。
お母さんの口から出た『ブロン』は、うちで飼っている大きな牧羊犬だ。
ブロンは本当に頭が良い犬だった。
おじさんの世界でいう『お座り』や『待て』なんて芸はしないけれど、放牧のときは羊たちの動きをじっと見守り、群れから離れそうになる羊がいると、鋭く吠えてあっという間に中に追い立ててしまう。
夜になれば、家畜を狙う狼や泥棒を警戒する、絶対に油断しない優秀な番犬にもなる。
おばあちゃんがブロンを連れて行ったのなら、ハッサンたちも大分助かっているはずだ。
「そっか。おばあちゃん、かっこいいな」
「ふふ、本当ね。……それでどうしたの?」
お母さんの言葉に、僕は思い出した。
そうだ、大事な目的を忘れるところだった。
おじさんと考えた、あの作戦を切り出さなければならない。
僕は少し緊張しながら、お母さんの顔を見上げた。
「あのね、お母さん。お願いがあるんだ。……お湯を、飲みたいんだ」
「お湯?」
お母さんは不思議そうな顔をして針を動かす手を止めた。
「喉が渇いたのよね? そう、水瓶の水じゃなくて、わざわざ温かいお湯がいいの? 寒かったりするかしら?」
心配そうに僕の額に手を当てようとするお母さんを見て、僕は内心で冷や汗をかいた。
(ここで正直に『水の中には目に見えない悪い生き物がいるから』なんて言っても、お母さんを混乱させるだけだ。)
頭の中の雲から、おじさんの焦るような気配がうっすらと伝わってくる。
ここは、子供らしい理由で誤魔化すしかない。
僕は精一杯、体調がまだ万全ではないふりをして、小さく頷いた。
「あ、いや……あ、うん。そうなんだ。まだ少し、朝の空気がひんやりして寒い気がするから……冷たいお水じゃなくて、あったかいお湯が飲みたいなって、思って」
お母さんは僕の言葉を聞くと、なるほどね、と納得したように表情を和らげた。
丸一日も熱を出して寝込んでいたのだから、冷たい水よりも温かいお湯を欲しがるのは、子供の体としておかしなことではないと思ってくれたみたいだ。
「分かったわ。まだ病み上がりだものね。ちょっと待ってね、朝ごはんに使った竈の火種が、まだ残っているはずだわ」
お母さんは膝の上の絨毯を丁寧に畳んで椅子の上に置くと、手際よく立ち上がって厨房へと向かった。
お母さんの背中を見送りながら、僕は小さく息を吐き出した。
ひとまずは、最初の関門を突破できたみたいだ。
お腹の奥の方で、おじさんもホッとしたように胸をなでおろす感覚がした。
高床式縁台・タプチャンというのは、今でもウズベキスタンやキルギス、ウイグルなどの古い住宅で見る、木製のベッドやウッドデッキみたいなものです。
中庭にこのタプチャンを置いて、上に絨毯を引いて、そこで食事をとったり、お茶を飲んだり、近所の方と世間話をしたり・・・と現地の家族・人々の憩いの場になります。現代の洋風の家でいうリビング的存在ですね。
雨があまり降らないので、このあたりの地域では、そういったコミュニケーションは中庭で主に行われます。




