01-51.アディル視点1
「お兄ちゃん、見て見て! 可愛い花を見つけたよ!」
我が家の中庭で、四歳になる妹が小さな野の花を手に持って、元気に駆け寄ってきた。
日焼けした丸い頬を膨らませ、満面の笑みを浮かべる妹の姿に、俺は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「おお、綺麗な花だな! 父ちゃんと母ちゃんにも見せてやりな」
俺が頭をワシワシと撫でてやると、妹は「うん!」と嬉しそうにはしゃぎながら、奥の部屋へと走っていった。
その小さく弾む背中を見送りながら、俺は固く拳を握りしめた。
ほんの数週間前まで、この家には地獄のような絶望が広がっていたのだ。
連日の猛暑で村の中から生臭いにおいが漂い、村中が原因不明の「夏病み」におびえていたあの夏。
我が家も、その恐怖から逃れることはできなかった。
最初は妹が酷い腹痛を起こし、それから何度も何度も吐き、激しい下痢におそわれた。
顔はみるみるうちに青ざめ、目元に濃い隈を作った父ちゃんも、祈りを捧げ、自然を仰ぎながら「神の試練とあれば、我らはただ耐えるしか……」と絶望していた。
熱も下がらず、妹は「あついあつい」と弱々しくうわ言を繰り返すばかり。
小さな手を握り締めながら、俺は生きた心地がしなかった。
(妹が死んじまう……! このままじゃ、俺の可愛い妹が死んじゃうんだ……!)
初等学校に行っている場合ではなくなった。
自分には何の力もなく、妹の命の灯が小さくなっていくのをただ、見ているだけしかできなかった。
そんな絶望のどん底にいたあの日。
我が家の木枠の扉をトントンと強く叩く音が響いた。
「アディルの父君、ワシだ。トルスノフ家のオモだ。急ぎの話があって来た」
現れたのは、トルスノフ家の当主であるオモおじいさんと……マクタブでいつも一緒に勉強しているトッシュだった。
ふたりは古い壺と、糞炭を詰めた袋を抱えていた。
「オモさんか。申し訳ないのですが、今は家の中が大変な状態でして、客をもてなす余裕も――」
父ちゃんが力なく断ろうとすると、オモおじいさんは「挨拶はいい。妹さんの具合はどうだ」と尋ねた。
父ちゃんが痛ましそうに首を振ると、抱えていた壺をしっかりと抱え直したトッシュが、一歩前に踏み出してきた。
「おじさん! これを使ってください!」
「……なんだい、この壺は……?」
父ちゃんが怪訝そうな顔で眉をひそめると、トッシュはまっすぐな目で言い放った。
「これは、トリーブ先生の知恵をお借りして作った、水をきれいにするための特別な試作品なんです! 中には水の悪いものを除去してくれて、泥や嫌なにおいも濾し取ってくれるんです!」
父ちゃんは「そんな壺で水を通したからといって、この夏病みが治るわけが――」と首を捻ったが、トッシュは一歩も引かなかった。
大人の目をごまかさず見つめ返し、真剣そのものの声で叫んだんだ。
「ただの壺じゃありません! おじさん、お願いです、僕の言うことを信じてください! あと、この壺でろ過した水を、そのまま飲ませちゃダメなんです! 必ず一度お湯が沸騰するまでグラグラとしっかり火にかけて、熱いお湯にしてください! それを妹さんに飲ませてあげてほしいんです!燃料が足りないなら、少しだけですが、糞炭を持ってきたので使ってください!」
「お湯にだと……? 飲み水を毎回沸かすなんて、そんな燃料の無駄遣いを……それに、冷たい生水の方が熱冷ましになるだろう」
疑う父ちゃんに対して、トッシュは熱い想いを込めて訴え続けた。
「違います! 生水をそのまま飲むから、お腹の中の悪いものが暴れちゃうんです! お湯にして火を通した水じゃないと、身体が受け付けてくれないんです! 熱いお湯だと飲めないのであれば、一度沸騰させたあと、冷ました水でも大丈夫です。お願いです、一回だけでもいいから試してください!」
「僕たちの家では、酷暑になってからもこれを使った水を沸騰させて飲んでいるから、家族の誰も腹を壊していません! アディルは僕の大切な友達です! だから、妹さんにも絶対死んでほしくないんです……っ!」
大人を相手に、胸を張って、友達のために必死で叫ぶトッシュの姿――。
いつもはおとなしくて優等生だと思っていたトッシュが、あんなに熱い目をして俺たちのために必死に頼み込んでくれている。
その瞬間、俺の胸の中で何かが弾けた。
気づいた時には、俺はボロ泣きしながら父ちゃんの服の裾を強く掴んでいた。
「……父ちゃん! トッシュの言うことを聞いてくれよ!」
「アディル……?」
「トッシュは嘘をつかない! こいつはやさしい奴なんだ! このまま死んじゃうくらいなら、トッシュの言うことを試してみようよ! お願いだよ、父ちゃん……っ!」
俺は声を上げて泣きじゃくりながら、父ちゃんにすがりついた。
するとオモおじいさんも静かに踏み出し、父ちゃんの肩に手を置いた。
「アディルの父君。孫のトッシュは、本気でそっちの娘さんを助けたくてここへ来た。ワシからも頼む。藁にもすがる思いでいい、この壺を試してみてはくれんか。ワシらを信じれなくても、トリーブ先生のことなら信じられるだろう?」
父ちゃんは、俺とトッシュ、そしてオモおじいさんの顔を交互に見つめた。
やがて、大きくひとつ息を吐き出すと、ゆっくりとうなずいた。
「……分かった。トッシュくん、君のその真面目な熱意と、アディルの言葉を信じよう。その壺と燃料、ありがたく使わせてもらう」
それからの出来事は、まるで奇跡のようだった。
トッシュに言われた通り、あの壺で通した水を使ってしっかりとお湯を沸かし、熱いお茶にしたり、冷ましたりして妹に飲ませた。
すると、しばらくたってから、あれほど下がらず苦しんでいた熱が下がり、吐くのも収まっていったんだ。
数日後には「お腹すいた」と妹が自分の足で立ち上がり、俺と父ちゃんと母ちゃんは、抱き合って大泣きした。
トッシュの持ってきたあの特別な壺と知恵が、俺のたったひとりの妹を死の淵から引き戻してくれたんだ。
◆ ◆ ◆。
マクタブに復帰した日、俺は真っ先にトッシュのもとへ駆け寄って礼を言った。
トッシュはいつもの穏やかな笑顔で返してくれたけれど、俺は心の中で、自分自身に強く誓いを立てていた。
(トッシュ……お前は、妹の命の恩人だ)
あいつは自分の知恵だとは言わず「トリーブ先生の知恵」だって言っていたけれど、大人相手であそこまで必死に頼み込んでくれたのは、間違いなくトッシュ自身の優しさと熱意だった。
俺は近所のガキどもの中で一番腕っぷしが強くて、すばしっこさなら誰にも負けない自信があった。
いつも威張って先頭を走っていたけれど――。
だけど、トッシュみたいに誰かのために必死になれる奴こそが、最高にカッコいい「本物の男」なんだと知った。
(いつか……いつかトッシュが、自分一人じゃどうしようもないデカいピンチに陥った時は、今度は俺が助ける)
もしもお前に何か困ったことが起きた時は、俺が絶対に助けてやるからな――。




