01-50.トリーブ視点2
聖堂の奥にある執務室で、私は一人、素焼きの湯呑みに注がれた温かい茶を静かに口へ運んだ。
湯気とともに立ち上る香りが、静寂に包まれた部屋にゆっくりと広がっていく。
窓の外に広がるオイアクス村は、かつての重苦しい静けさが嘘のように、穏やかで平穏な夜を迎えていた。
猛威を振るっていた恐ろしい「夏病み」はすっかり収束し、人々は日常を取り戻した。
村のあちこちから、毎日お湯を沸かす煙が上り、人々が健康を保っている。
「……ふう」
息をひとつ吐き出し、私は机の上に置かれた古い聖典の写本に視線を落とした。
この平穏をもたらした最大の功労者は、私でも、村長でもない。
トルスノフ家のわずか七歳のトッシュくんだった。
私は、あの日初等学校の教室で、トッシュくんが一人私のもとへ歩み寄ってきた時のことを思い出していた。
恐る恐る頭を下げ、震える声で語り始めた彼の告白。
『拝受の儀』で倒れた際に、自分の中に異世界の死者の魂が入り込み、その声から知恵を得たということ。
そして、砂や骨炭を使った『ろ過器』の技術を学び、それを広めるために私の名前を騙ってしまったということ――。
(……ああ、そういうことだったのか)
その告白を聞いた瞬間、私の脳裏には、春に執り行われたあの拝受の儀の光景が色鮮やかに蘇っていた。
あの日、あの子の身体に神の光が吸い込まれる最後の一瞬、不自然に歪んだ光と、足元に現れた「大人の男」の二重の影。
気絶したトッシュくんを抱き起こしながら抱いた懸念の理由が、すべてひとつの線となって繋がったのだ。
都市の高等教育で学んだ歴史の片隅に、死者の魂が他者に宿ると信じた古い土着信仰があった。
だが、今の教義のもとではそれらはすべて『悪魔信仰』として淘汰された過去がある。
もし彼がその告白を他の村人に漏らせば、「悪魔憑き」や「異端の芽」として排斥されかねない。
だからこそ、私は即座にトッシュくんの口を塞ぎ、彼を庇うための狂言を打ったのだ。
『ろ過器の仕組みは、私がトッシュくんに伝えた試作品である』と。
◆ ◆ ◆
トッシュくんの家でろ過器を検分し、その確かな効果を確認したその日の夕刻。
私はすぐさま、我が村の長であり、村長を務めるイスカル殿のもとへ足を運んでいた。
村一番の長老であるイスカル殿は、みごとな白い長髭を撫でながら、私が持ち込んだ試出しのろ過水と、ろ過器の現物について神妙な面持ちで耳を傾けてくれた。
「……なるほど、導師様。トルスノフの家で試していたその壺で水を越し、さらに火にかけてお湯や茶にして飲むことで、あの夏病みが防げるかもしれぬと……」
「ええ、イスカル殿。一刻も早く村中の全世帯へこのろ過器を行き渡らせねばなりませぬ。……だが、村の全戸に配るとなれば、予備も含めて八十個ほどは必要になりますな」
イスカル殿は白髭をしごきながら、うーむと深く唸った。
「八十個の特別な壺に、中に詰める砂や小石、そして骨炭……。個人で作れる規模ではござらん。導師様、どう進めたものでしょうか」
「まず壺そのものは、村の北端にいる万屋のニヨズさんの工房に任せるのが筋でしょう。底に穴を開けた専用の素焼き壺を増産してもらうのです。費用は村の共有蓄えから出し、窯焚きや粘土運びの手伝いとして、マハッラの若者を何人か作業員に出してはどうでしょうか」
「ふむ。そんなところでしょうな! ニヨズも人手があれば助かるでしょう。……しかし、問題は中に詰める『骨炭』ですぞ。家畜の骨など、そう易々と八十個分も集まるかどうか」
「それについては、村中の屠殺で出る骨を一箇所に集めるルールを全戸に徹底させましょう。そして、足りない分は村主導で集めるのです。弓や槍の扱いが得意な村の狩人や警備隊の男たちを招集し、狩猟隊として荒野へ出動させてはどうでしょう。そうすればまとまった骨が手に入るはずです」
イスカル殿は目を見張り、膝をポンと叩いた。
「おおっ! 警備隊や狩人を総動員して村ぐるみで骨を集めるとな! それならば十分な骨を運び込めますな。……ですが導師様、もうひとつ大きな壁がございますぞ」
イスカル殿は身を乗り出し、眉間にシワを寄せた。
「ろ過した水を毎日沸かして飲ませるための『燃料』です。この酷暑の中、ただでさえ貴重な糞炭や薪を燃やすなど、生活に余裕のない貧しい家では『そんな無駄遣いはできん』と拒む者が出かねません」
「そうですね……そこは村内の助け合いと知恵で乗り越えましょう。例えば、比較的余裕のある農家から神への奉仕として余剰の糞炭を少しずつ寄付してもらい、困っている家に分配するのはいかがでしょう。あるいは、近所数戸でまとまって大きな鍋でお湯を沸かし、分け合う『共同火元』を作るという手もございます」
「なるほど……! 余裕のある家からの燃料拠出と、近所同士での共同お湯沸かしですな。それならば燃料の消費も抑えられ、貧しい家も無理なく続けらるかもしれませぬ。」
イスカル殿の顔に、感心と安堵の笑みが浮かんだ。
「素晴らしい算段でございます、導師様。では、次のお触れと動員の段取りを決めましょう。次の信仰の日の礼拝にて、導師様から『神の授けし知恵』として、ろ過とお湯を沸かしお茶として飲むこと徹底、助け合いの意義を皆様にお話しくだされ」
「承知いたしました。そして講話の直後、イスカル殿が村の長として、壺の受け取り手順や狩猟隊の編制、共同火元のグループ分けといった具体的な実務命令を発令してください」
「任せられよ! 導師様の教えとして広めて頂ければ、村人は一致団結して動きましょう。明日から直ちに手筈を整えますぞ!」
白髭の長老と宗教指導者。
膝を突き合わせた二人の対話によって、村全体を救うための具体的で力強い計画が練り上げられたのだった。
◆ ◆ ◆
「神よ……どうか、あの賢く温かな心を持つ少年に、豊かならんことを」
私は胸の前で静かに両手を交差し、神への祈りを捧げた。
トッシュくんの純粋な知恵と、大人たちが膝を突き合わせて練り上げた泥臭い組織動員が噛み合ったからこそ、この村は救われたのだ。
あの子の背後にある大いなる運命に潰されてしまわないよう、大人として、導師として、これからも見守り支えていかねばならない。
(私がこのオイアクス村の導師である限り……トッシュくん、あなたの盾となり、知恵の芽吹きを陰ながら見守り続けましょう)
温かい茶を飲み干すと、私は心の中に静かで力強い決意を秘めながら、再び聖典のページを静かにめくったのだった。




