01-44.真剣な眼差し
物置の中で予備のろ過器と糞炭を抱え、一刻も早く駆け出そうとした僕の頭の中に、おじさんの引き留める声が響いた。
『待て、トッシュ! そのまま一人で行く気か?』
(え? うん、急がないとアディルの妹が……!)
『焦る気持ちは分かるが、少し冷静になれ。お前が一人で駆け込んだところで、向こうの父親が七歳の子供の戯言を素直に信じると思うか? 正体不明の古壺を持ってきた子供の言うことなんて、大人はまともに取り合わないぞ』
おじさんの冷静な指摘に、僕はハッと足を止めた。
(う……たしかに……)
『何かを変えたいなら、自分ひとりで抱え込むな。人に任せたり、関わる人を増やせ。一人でできることなんてたかが知れてるんだ。……いいか、今のお前が一番頼れる人、動かせる人間は誰だ?』
おじさんの問いかけに、僕は胸に手を当てて考えた。
自分の声に耳を傾けてくれて、味方になってくれる人――。
(……僕のことを信じてくれている、家族だ!)
『そうだ。こういうときは遠慮なく頼っていい。特にお前はまだ七歳の子供なんだからな。大人の威厳も信用も、使えるものは全部使え』
(おじさん……うん! ありがとう!)
おじさんの言葉で視野が一気に開けた僕は、ろ過器を抱えたまま、お父さんのもとへ走った。
「お父さん! 一緒にアディルの家へ来てほしいんだ。 僕一人だと、たぶん…アディルのお父さんには信じてもらえないと思うんだ!」
僕の必死の懇願に、お父さんは腕を組み、静かに首を振った。
「トッシュ、お前が一人で行かないと判断したのは賢い。だが、トルスノフ家の当主はワシではなく、おじいちゃんだ。こういう他家への重要な申し入れや提案の場には、我が家の長であるおじいちゃんに一緒に行ってもらうのが筋というものだ。おやじ殿に相談してみなさい」
お父さんの言葉の意図は、すぐに理解できた。
この社会において、家の「長」の存在感と信用は絶対的なものなのだ。
僕はすぐさま、おじいちゃんのもとへ駆け寄った。
「おじいちゃん! お願いです、僕と一緒にアディルの家へ来てほしいんだ……ほしいです!」
おじいちゃんは紫煙をゆるやかに吐き出すと、頼もしい笑みを浮かべ、ポンと僕の頭を叩いた。
「ほう、ワシにお鉢が回ってきたか。もちろんだとも、トッシュ。孫が大切な友達を助けようと必死になっているんだ、ワシが一緒に行かずして誰が行く。よし、行くとしよう」
「おじいちゃん……! ありがとう!!」
こうして、トルスノフ家の当主であるおじいちゃんの心強い同行を得て、僕たちは予備のろ過器である古い壺と、貴重な糞炭を詰めた袋を抱え、アディルの家へと向かった。
◆ ◆ ◆
日差しが照りつける村の通りは静まり返っており、重苦しい空気が漂っている。
貯水池の生臭いにおいが鼻を突き、おじさんが脳内で苦しそうに顔を歪めているのが分かった。
アディルの家の前に到着し、おじいちゃんが木枠の扉をトントンと強く叩く。
「アディルの父君、ワシだ。トルスノフ家のオモだ。急ぎの話があって来た」
しばらくして、重々しい音を立てて扉が開いた。
現れたアディルの父親は、目元に濃い隈を作っていた。
その奥から、泣き疲れたようなアディルが顔を覗かせる。
「オモさん……それにトッシュか。すまんが、今は家の中がこんな状態だ。客をもてなす余裕も――」
「挨拶はいい。妹さんの具合はどうだ」
おじいちゃんの問いかけに、アディルの父親は痛ましそうに首を振った。
「もう……熱も下がらず、あついあつい、水が飲みたいとばかりだ。神の試練とあれば、我らはただ耐えるしか……」
奥の部屋から、幼い女の子の弱々しい呻き声が聞こえてくる。
(やっぱり……! 水分を補給させようとして、あの汚染された水を飲ませ続けているんだ……!)
僕は抱えていた壺をしっかりと抱え直し、アディルの父親の前に一歩踏み出した。
「おじさん! これを使ってください!」
「……なんだい、この壺は……?」
アディルの父親が怪訝そうな顔で眉をひそめる。
「これは、トリーブ先生の知恵をお借りして作った、水をきれいにするための特別な試作品なんです! 中には水の悪いものを除去してくれて、泥や嫌なにおいも濾し取ってくれるんです!」
僕はお父さんから言われた通り、トリーブ先生の名を借りて説明した。
だが、アディルの父親は困惑したように首を捻るだけだった。
「トリーブ先生の……? だが、そんな壺で水を通したからといって、この夏病みが治るわけが――」
「ただの壺じゃありません! おじさん、お願いです、僕の言うことを信じてください!」
僕はアディルの父親の目をごまかさず、まっすぐに見つめ返した。
「あと、この壺でろ過した水を、そのまま飲ませちゃダメなんです! 必ず一度お湯が沸騰するまでグラグラとしっかり火にかけて、熱いお湯にしてください! それを妹さんに飲ませてあげてほしいんです!燃料が足りないなら、少しだけですが、糞炭を持ってきたので使ってください!」
ろ過と、熱湯による消毒――それが、目に見えないばい菌を更に減らすことができる、数少ない今できる方法だ。
「お湯にだと……? 飲み水を毎回沸かすなんて、そんな燃料の無駄遣いを……それに、冷たい生水の方が熱冷ましになるだろう」
「違います! 生水をそのまま飲むから、お腹の中の悪いものが暴れちゃうんです! お湯にして火を通した水じゃないと、身体が受け付けてくれないんです! 熱いお湯だと飲めないのであれば、一度沸騰させたあと、冷ました水でも大丈夫です。お願いです、一回だけでもいいから試してください!」
僕の必死の訴えに、アディルの父親は呆気にとられていた。
子供が突然訪ねてきて、妙な壺を差し出し、生水を飲むなと熱弁しているのだ。
信じられないのも無理はない。
『トッシュ、熱意を伝えるんだ! 押せ! 友達の家族を救うのは、理屈じゃなく熱い想いだ!』
脳内のおじさんが叫ぶ。
僕はおじいちゃんから教わった言葉を胸に、さらに強く訴えかけた。
「僕たちの家では、酷暑になってからもこれを使った水を沸騰させて飲んでいるから、家族の誰も腹を壊していません! アディルは僕の大切な友達です! だから、妹さんにも絶対死んでほしくないんです……っ!」
僕の真剣な眼差しと、必死の叫びに、アディルの父親の目がわずかに揺れた。
その時、後ろに立っていたアディルが、ボロボロと涙をこぼしながら父親の服の裾を強く掴んだ。
「……父ちゃん! トッシュの言うことを聞いてくれよ!」
「アディル……?」
「トッシュは嘘をつかない! こいつはやさしい奴なんだ! このまま死んじゃうくらいなら、トッシュの言うことを試してみようよ! お願いだよ、父ちゃん……っ!」
アディルは声を上げて泣きじゃくりながら、父親にすがりついた。
自分たちのために、ここまで真剣に頼み込んでくれる僕の姿を見て、アディルも心を動かされたのだ。
おじいちゃんも静かに踏み出し、アディルの父親の肩に手を置いた。
「アディルの父君。孫のトッシュは、本気でそっちの娘さんを助けたくてここへ来た。ワシからも頼む。藁にもすがる思いでいい、この壺を試してみてはくれんか。ワシらを信じれなくても、トリーブ先生のことなら信じられるだろう?」
アディルの父親は、僕とアディル、そしておじいちゃんの顔を交互に見つめた。
――やがて、大きくひとつ息を吐き出すと、ゆっくりとうなずいた。
「……分かった。トッシュくん、君のその真面目な熱意と、アディルの言葉を信じよう。その壺と燃料、ありがたく使わせてもらう」
「ありがとうございます……!」
僕たちは壺と燃料を家の中に運び込み、設置と使い方、消毒のための「必ず沸騰させてお湯にして与える。
熱いのが飲めないならそのお茶を冷まして飲ませる」というルールを何度も念押しして伝えた。
アディルの家を辞し、帰り道を歩きながら、僕は心の中で祈りを捧げた。
(どうか……間に合ってくれ……!)




