01-35.初めての解体
家に帰り着いた僕たちを待っていたのは、家族全員からのお出迎えだった。
中庭にロバを入れ、荷台から仕留めたサイガとたくさんの野ウサギを下ろすと、麦の種まきから帰ってきていたハッサンとフサンが「すごーーい!」と真っ先に跳びはねて大喜びした。
四男のナスリもその後ろで小さな声で「おっきい……」と小さく喜んでいる。
お父さんも無言ながら、満足そうに何度も頷いているようだ。
だが、狩猟の仕事はここで終わりではない。
「解体」が待っていた。
中庭の一角に敷かれた丈夫なむしろの上へ、仕留めた獲物を並べる。
おじいちゃんとおばあちゃん、そしてソディル義兄さんがその前に静かにひざまずき、目を閉じて両手をお椀のように重ねた。
僕たちもそれに倣う。
ゆっくりと腕を肩の横へ開き、手のひらを下に向けて静かに下ろし、頭を下げる。
「神に感謝を。尊き命を我が糧とし、血肉とすることをお許しください」
声を揃えて厳かな祈りを唱え、深く一礼した。
生き物の命を奪い、それを余すことなくいただくための、この地における神聖な儀式だ。
祈りを終えると、おじいちゃんとソディル義兄さんが袖をまくり、よく研がれたナイフを手にした。
まずは大きなサイガからだ。
ソディル義兄さんが手際よく脚の皮にナイフを入れ、おじいちゃんが力強く皮を剥ぎ取っていく。
赤黒い肉が露出し、中庭には独特の生々しい血の匂いが立ち込めた。
『うう、やっぱり間近で見るとすごい迫力だな……。』
脳内で、おじさんが少し引きつったような声で呟いている。
(おじさん、これも大事な仕事なんだよ。こうやってお肉を切り分けて、皮や骨も全部無駄にしないで使うんだ)
大人たちがテキパキと肉を切り分け、処理が手際よく終わっていく。
そして、最後に小さな野ウサギが一匹だけ残された。
おじいちゃんはふと手を止め、ナイフを握る僕をじっと見つめた。
「トッシュ、最後のこの一匹、お前がやってみるか?」
「えっ……僕がやっていいの?」
まさかの提案に、僕はドキンと胸を跳ねさせた。
大人が解体しているのを見たことはあったけれど、自分でナイフを握って皮を剥いだことは、一度もない。
「うむ。お前はもう七歳じゃ。ロバの世話も立派にこなせる。ならば、命の剥ぎ方を覚えるのも、男として一人前になるための第一歩じゃ。ワシが教えてやるから、恐れずにやってみなさい」
おじいちゃんが優しく微笑みながら、小ぶりのナイフを僕の手に握らせてくれた。
ずっしりとした金属の重みと、冷たい感触が小さな手に伝わってくる。
緊張で手汗がじわりと滲むけれど、不思議と怖いとは思わなかった。
むしろ、いつも大人たちがやっていた大切な仕事を任せてもらえることが、少しだけ大人の階段を登れたようで、誇らしくてたまらない。
「うん、おじいちゃん。僕、やってみる!」
僕が弾んだ声で答えると、それを見ていたハッサンとフサンが羨ましそうに身を乗り出した。
「いいなぁーっ! トッシュにいだけ、またずるいぞ!」
「オレたちもやりたい! おじいちゃん、オレにもナイフを貸してよ!」
フサンがナイフに手を伸ばそうとしたが、隣にいたお父さんがその小さな肩をがっしりと掴んで引き留めた。
「お前たちはまだ早い。トッシュはロバの世話を完璧にこなせるからやらせるのだ。お前たちは、まずは畑の土仕事と、ロバの言うことを聞かせるところから始めなさい」
「もーこの間からそんなんばっかりだよー」
お父さんにピシャリと言われ、双子は揃って頬を膨らませてすねてしまった。
そんな弟たちの姿を微笑ましく思いながら、僕はじっと目の前の小さなウサギを見据えた。
「よし、トッシュ。まずは後ろ脚の関節の皮を少し切り裂き、そこからお腹に向けて、皮だけを薄く切っていくんじゃ。肉まで刃を入れんようにな」
おじいちゃんの穏やかな指示に従って、僕はナイフの刃先を慎重にウサギの皮に当てた。
刃先がスッと皮を切り裂き、指先に柔らかい感触が伝わってくる。
最初は手が少し震えたけれど、ソディル義兄さんが「上手だよ、その調子でゆっくりね」と隣で優しく支えてくれるうちに、どんどんコツを掴んできた。
(凄い……。緊張するけど、やれることが増えていくみたいで、なんだかすごく嬉しい)
自分の手で命を解きほぐしていく感覚に、僕は集中し、思わず楽しくなって笑みが溢れてしまう。
『おいおいトッシュ、緊張するって言っておきながら、めちゃくちゃ楽しそうにやってるじゃないか。お前さん、やっぱり現地のたくましい子供なんだな……。しかし、こうして見ると、ウサギの体の中の構造ってのも、結構生々しくて気持ち悪いもんだな……。う、その筋繊維とか、ちょっと……』
脳内のおじさんが、少し顔を青ざめさせながらも僕の視界を共有して観察している。
「よし、次は首の近くの皮を引っ張って、一気に剥ぎ取るんじゃ。最後に関節の間の肉を切り、そこの太い血管を切り離して、残った血を綺麗に抜く。これが肉を美味しく保つコツじゃな。やってみなさい」
「うん、わかった!」
おじいちゃんに言われた通り、僕はウサギの皮を綺麗に剥ぎ取り、小さな関節の隙間へナイフを滑らせた。
そして、指示された太い血管の集まる部位へ、ナイフの刃をそっと押し当てる。
ぷちり、と小さな手応えがあった。
次の瞬間、傷口からプシュッと、赤い血が小さく飛び散った。
僕の頬や、握りしめたナイフの刃先にも、赤くて温かい飛沫が数滴かかる。
『 ち、血があああぁぁぁぁぁーーっ!!』
脳内で、おじさんがこの世の終わりかと思うほどの絶叫をあげた。
そして──。
ぷつん、と。
それまで騒がしかった脳内が、嘘のように静まり返った。
まるでおじさんの部屋の灯りが、突然全て消えてしまったかのように、気配が綺麗に消え失せてしまったのだ。
(……あれ? おじさん? おーい、おじさん、どうしたの?)
心の中で何度も呼びかけてみるけれど、返事は一切返ってこない。
どうやら、目の前で血が飛び散った衝撃に耐えかねて、本当に気絶してしまったらしい。
(いや……死んで魂だけの存在になっているはずなのに、まさか血を見ただけで気絶するなんて……。どういう仕組みなんだろう……)
僕は呆れを通り越して、少しだけ笑ってしまいそうになった。
「トッシュ、素晴らしい手際じゃ! 初めてにしては、一滴の無駄もなく見事に血抜きまでやってのけたな。これでこのウサギの肉も、格段に美味しくなるぞ」
「ありがとう、おじいちゃん! 僕、頑張ったよ!」
おじいちゃんやお父さんたちに囲まれてたくさん褒められ、僕は頬についた血を袖で拭いながら、誇らしげに胸を張った。
脳内のおじさんは完全に眠ったままで、ちっとも起きてくる気配はないけれど、僕たちの手元には、これからろ過器を進化させてくれるであろう、たくさんの貴重な「骨」が、確かに残されていたのだった。




