01-33.おばあちゃんの「魔法」
ゴツゴツとした赤茶けた岩の隙間から、僕はおじいちゃんと一緒に身を低くして、前方の平原を見つめていた。
砂混じりの風が、僕の頬を容赦なく撫でて通り過ぎていく。
十数メートルほど先の開けた場所で、一本のねじれた角を持つ美しい獣──サイガが、耳をぴくぴくと動かしながら乾いた草を食んでいた。
その佇まいは一見して優雅だけれど、全身の筋肉はまるで引き絞られた弓の弦のように張り詰めている。
「トッシュ、よう見ておくのじゃぞ」
おじいちゃんが、僕の耳元でかすれるほどの低い声で囁いた。
「あのサイガというのはな、この荒野に住むあらゆる生き物の中でも、頭一つ抜けて足が速い。それだけではない。どこまでも走り続けられる恐るべき持久力を持っておる。一度でも走らせてしまえば、馬であっても、絶対に追いつくことはできんのじゃ」
「そんなに凄いの……?」
「うむ。だからこそ、狩りは一発勝負。動かれる前に、奴の視界の外から、反応すらさせずに急所を撃ち抜くしかない」
おじいちゃんの緊迫した言葉に、僕の喉がゴクリと鳴った。
(走らせたら、絶対に追いつけない……。だからこそ、おばあちゃんの一撃にかかっているんだね)
『なるほどな。時速うん十キロメートルというレベルの俊足と、それを維持するスタミナか。さすが野生動物だな。チーターみたいなものか。だが、それならおばあさんはどうやって……』
脳内のおじさんが固唾を呑んで見守る中、おばあちゃんは音もなく家伝の強弓を構えた。
おばあちゃんは静かに目を閉じ、風の音に紛れ込ませるようにして、|大典の祈りの言葉を小さく口ずさんだ。
「──大気を行く見えざる風よ、我が強弓の友となりて、鋭き一撃を導き給え──」
おばあちゃんが静かに息を吸い込んだ、その瞬間。
周囲の乾いた風のうねりが、一瞬だけピタリと止まったような錯覚に陥った。
いや、錯覚ではない。
おばあちゃんが引く矢の先に向けて、目に見えない大気の流れが、ゆらめく陽炎のように渦巻いて集まっていくのだ。
(……おばあちゃんの体から、ものすごい勢いで風が集まっていっている……!)
『おいおいおい、なんだあれは!? おばあさんの持ってる矢の周りに、目に見えて風がぐるぐると渦巻いてないか!?おい! 矢の先端がブレて見えるぞ……!』
おじさんが脳内で大混乱の声をあげるのと同時に、おばあちゃんの鋭い眼光がサイガを捉えた。
ヒュッ、と短い呼気。
放たれた矢は、風を切り裂く鋭い音さえ置き去りにするほどの恐るべき速度で、荒野を一直線に駆け抜けた。
あまりの剛速に、僕の目にはただ一筋の透明な風の刃が走ったようにしか見えなかった。
サイガが異変を察知し、その強靭な肢で地面を蹴り上げようとした、まさにその一瞬。
逃げる予備動作に入るよりも早く、おばあちゃんの放った極速の矢は、サイガの首筋の急所へ正確無比に吸い込まれた。
どう、と大きな砂煙を上げて、サイガの巨体が横倒しに崩れ落ちる。
一歩も走らせることなく、完璧な一撃のもとに仕留めてみせたのだ。
「見事じゃ、グルスラン!」
おじいちゃんが静かにそう言って立ち上がり、おばあちゃんもまた、弓を静かに下ろして安堵の息を漏らした。
「ふぅ……。風の機嫌が良くて助かったさね。トッシュ、行くよ」
おばあちゃんを先頭に、僕たちは倒れたサイガのもとへと駆け寄った。
近づくと、サイガはまだかすかに胸を上下させ、細い呼吸を漏らしながら肢を痙攣させていた。
生々しい獣の匂いと、傷口から流れる赤い血が、乾いた砂地をじわじわと赤黒く染めていく。
おばあちゃんはサイガの傍らにひざまずくと、目を閉じて、その首筋に静かに手を当てた。
「神に感謝を。我が家族の血肉となり、命を繋いでくれる尊き命に、感謝を捧げます」
一言、厳かに祈りの言葉を唱えると、おばあちゃんは腰から鋭く磨き上げられたナイフを抜き、泥臭い荒野の風の中で、迷いのない手つきでサイガの喉元を切り裂いて止めを刺した。
溢れ出た大量の血が砂に吸い込まれ、やがて、サイガの大きな体から完全に力が抜けていく。
僕は息をすることすら忘れて、その光景をただじっと見つめていた。
(おばあちゃん……。本当に、すごいな……)
脳内のおじさんもまた、しばらくの間は言葉を失っていたが、やがて、深く感心したようなため息を漏らした。
『……凄まじいな。綺麗にパック詰めされた肉しか見たことがなかった俺にとって、これは衝撃的だ。あのおばあさんの弓も、止めを刺す手つきも、生き抜くための強さと命への敬意に満ち溢れている。トッシュ、俺たちも甘っちょろいことは言ってられないな』
(うん。僕、おばあちゃんの背中が、これまでよりもずっと大きく見えるよ)
おじいちゃんが「よし、ソディルのところに戻るとしよう。
これだけ大きいのが一匹狩れれば、今日は十分すぎる大戦果じゃ」と、満足そうに笑った。
「そうさね。これ以上の深追いはケモノの群れを刺激するだけさ」
おばあちゃんが僕の肩を優しく抱き寄せ、僕たちは急いでソディルにいさんの待つ放牧地へと引き返すことにした。
荒野を吹き抜ける風は冷たかったけれど、仕留められたサイガの温かい血の匂いと、僕の胸の中に宿る決意は、どこまでも熱く脈打っていた。




