01-32.羊の世話
「それじゃあ、トッシュ。少しの間、羊たちのことを頼んだよ」
おばあちゃんは愛馬ジョイの上から、僕に向けて優しく声をかけた。
おじいちゃんとソディル義兄さんもそれぞれのロバを並べ、獲物を求めてさらに荒野の奥へと進む準備を整えている。
「うん、おばあちゃん。任せて! みんなが戻ってくるまで、ちゃんとここで羊たちを見張っておくよ」
僕は自分が乗っているロバの背をポンと叩き、元気に返事をした。
荷物用の二頭のロバも、僕の後ろで大人しく草を食んでいる。
「よし。ブロン、トッシュの言うことをよく聞いて、しっかり群れを守るんだよ」
おばあちゃんが一声かけると、僕のロバの脇に控えていた優秀な牧羊犬ブロンが、短く「ワン!」と賢そうな声で応えた。
三人の乗る馬とロバが、赤茶けた砂埃を小さく舞い上げながら、緩やかな丘の向こうへと消えていく。
静まり返った放牧地に、僕とブロン、そして何十頭もの羊たちだけが残された。
「さて、ブロン。僕たちも仕事を始めようか」
僕はロバの手綱を軽く引き、羊たちの群れの様子を観察する。
七歳の体ではあるけれど、なんどもこなした仕事だ。
この程度の放牧管理は体で覚えている。
羊たちは思い思いに乾いた草を食んでいるが、中には群れから離れて遠くの藪へ進もうとする、お調子者の羊も紛れている。
「ブロン、あそこの羊が離れそうだよ。連れ戻しておくれ」
僕が指を差すと、ブロンは賢く耳を立て、矢のような速さで駆け出した。
群れから外れかけていた羊の前に回り込み、低く吠えて優しく群れの中心へと押し戻す。
その見事な仕事ぶりに、僕は思わず声をあげて感心した。
『いやあ、本当に大したもんだな。俺からすれば、これだけの数の羊を一人で管理するなんて、信じられない大仕事だぜ』
脳内から、おじさんの感心したような声が響いてくる。
(そうだよ、おじさん。家畜は僕たちの家にとって、ものすごく大事な財産なんだから。でもね、一番気を遣うのは水場なんだ。この暑さだと急に羊も熱中症になっちゃうこともあるから、元気そうに見えてもいい水場がどこにあるかは把握しておかないといけないんだ。)
僕は羊たちが集まる小さな水溜まりを見つめながら、心の中でそっと応じた。
『なるほどな。家畜の健康を保つためにも、やっぱり清潔な水は欠かせないわけだ。人間だけじゃない、この過酷な中央ユーラシアで生きるすべての命のために、一刻も早く俺たちの水質改善プロジェクトを成功させないとな』
(うん、絶対に骨を手に入れて、あのニヨズさんの窯で素晴らしい骨炭を作ってもらうんだ)
僕はロバの上で拳を握りしめ、改めて決意を新たにした。
それから一時間ほど、平和な放牧の時間が過ぎた頃だった。
遠くの丘の向こうから、一頭のロバがこちらへ向かって走ってくるのが見えた。
大柄な体を揺らしながら近づいてくるのは、ソディル義兄さんだ。
「おーい、トッシュ!」
ソディルさんはロバを僕の近くに止めると、額の汗を拭いながら優しく微笑んだ。
「羊たちの様子はどうだい? 変わりはないかい?」
「ソディルにいさん! うん、みんな大人しく草を食べているよ。ブロンがすごく頑張ってくれたんだ」
「はは、それは良かった。よし、交代だよ。ここからは僕が羊たちの番をする。トッシュ、せっかくここまで来たんだ。おばあ様たちの狩りを見ておいでよ」
「えっ、僕も行っていいの?」
ソディルさんは嬉しそうに頷く。
「ああ。おばあ様がね、『トッシュに、獲物の命をいただく瞬間を見せるのも教育さね』って言っていたんだ。おじい様も、お前を呼びに戻るようワシに言ってくれた。あそこの小高い丘を越えて、まっすぐ進んだ岩場の陰にお二人がいる。気をつけて行くんだよ」
「ありがとう、ソディルにいさん! ロバたち、よろしくね!」
僕はロバの脇腹を軽く叩き、教えてもらった方向へと進み始めた。
ロバの足並みは力強く、赤茶けた大地をしっかりと踏みしめて進んでいく。
太陽は少しずつ傾き始め、周囲のゆらめく陽炎が、乾いた荒野をどこか幻想的な景色に変えていた。
緩やかな丘を登りきると、視界の先にゴツゴツとした岩場が現れた。
その岩陰に、愛馬ジョイを繋ぎ、身を潜めているおじいちゃんとおばあちゃんの姿を発見した。
僕は嬉しくなって、ロバを急がせる。
「おばあちゃん、おじいちゃん!」
少し声を張り上げながら近づこうとした、その瞬間だった。
「しっ!」
岩陰から振り返ったおばあちゃんが、凍りつくほど鋭い眼光で僕を射抜き、人差し指を口元に当てた。
おじいちゃんもまた、地面に低く伏せながら、厳しい表情で僕を手招きしている。
ただ事ではない緊張感に、僕はハッとして口を塞いだ。
静かにロバから降りると、足音を立てないように、そっと岩陰へと近づき、二人の隣に身を伏せた。
「……よくお聞き」
おばあちゃんが、掠れるほどの小さな声で僕の耳元で囁いた。
その目は、少し離れた荒野の平原をじっと見据えている。
「あそこを見てごらん。群れから離れた、一頭のサイガがいるさね」
おばあちゃんが細い指先で指し示した岩陰の先。
そこには、ねじれた二本の美しい角を持つ、中型の見事な獣──サイガが、警戒を怠らない様子で、時折頭を上げながら乾いた草を食んでいた。
ウサギなどとは比較にならないほど足が速く、非常に警戒心が強い、荒野の難敵だ。
おばあちゃんは、背中に背負っていた頑強な家伝の弓を、音もなくそっと手に取った。
「あれを狩るよ」
その静かな、けれど熱い決意に満ちた言葉に、僕の喉がゴクリと鳴った。
荒野の風が、にわかに冷たく張り詰めていくのを感じていた。




