01-31.荒野への道行、風を追うロバ
午前中の初等学校での勉強を終えた僕は、急ぎ足で家に帰った。
じりじりと照りつける太陽が真上を過ぎ、中庭の空気はむっとするような熱を帯びている。
「トッシュ、ごめんね。ここ数日、飲む水を全部沸かすのにお茶の葉と燃料を使いすぎちゃって、少なくなってきたの。だから今日のお茶はお休み。お水で我慢してね」
お母さんが申し訳なさそうに、粘土を素焼きにした素朴なカメから、なみなみと注がれた水を差し出してきた。
『げえっ! 生水直接キタアアァ! 俺の胃腸なら一発アウトだな』
脳内で、おじさんが頭を抱えてのたうち回っている。
だけど、我が家の家計において燃料が貴重なのは百も承知だ。
僕はそっと目を閉じ、覚悟を決めてその水を一気に飲み干した。
(……うぐ、やっぱり少し砂っぽいし、生臭い。喉を通り過ぎるたびに、菌の顔が浮かぶみたいでゾッとするよ。せめて今の簡易ろ過器でもいいから通したいね)
『そうだろう、そうだろうとも! やっぱり一刻も早く、あのニヨズの親父に骨を届けて、骨炭のろ過器を完成させなきゃダメだ。本格的な夏が来て水が腐り始める前に、絶対に安全なインフラを整えるぞ!』
おじさんの悲痛な叫びを脳内で聞きながら、僕たちは祈りを捧げ、お椀を置いた。
やはり、僕たちのろ過器プロジェクトは一刻を争う。
昼食の片付けを終え、少しだけ日差しの厳しさが和らいできた頃、中庭では放牧の準備が進められていた。
お父さんにお尻を叩かれながら、畑での麦の種まきに向かう双子が、僕たちの姿を見て羨ましそうな顔をする。
「トッシュにい、ずるいな~!」「オレたちだって、ロバに乗れるのに!」
僕は苦笑いしながら、中庭に繋がれていたおとなしいロバに乗りながら、二人に声をかけた。
「ごめんね、二人とも。お父さんのお手伝い、力を合わせて頑張ってね」
そうは言ってもフサンの羨ましそうな顔は変わらないが、背後からお父さんの「おい、早く支度をせんか!」という声が響き、二人は肩をすくめて畑へと走っていった。
僕は慣れた手つきでロバの背にまたがり、荷物用のもう二頭のロバの手綱をしっかりと握る。
七歳の体ではあるけれど、普段からロバの世話や荷運びはこなしている。
このロバたちはとても温厚で、僕の合図に素直に従ってゆっくりと歩き出してくれた。
おじいちゃんのオモ、愛馬ジョイにまたがったおばあちゃんのグルスラン、そして頼もしいソディル義兄さん。
さらに、トルスノフ家の優秀な放牧犬である牧羊犬のブロンが、僕たちのロバの脇をそっと歩調を合わせて並走する。
「よし、それじゃあ出発しようかねえ」
おばあちゃんの穏やかな声を合図に、僕たちは村の北側に広がる放牧地へと向かった。
村の境界を抜けると、先ほどまでの緑豊かな綿花畑や水路の景色が一変し、視界の先には乾いた風が吹き抜ける赤茶けた大地が広がっていた。
まずは、狩りを行う前に羊たちを安全な放牧地へと送り届けるのが、今日の最初の仕事だ。
目的の放牧圏に到着すると、おばあちゃんはおもむろにジョイを軽く走らせ、羊たちの前に回った。
「ブロン、あっちの群れをまとめおくれ」
おばあちゃんが短く、鋭い口笛を吹く。
すると、それまで大人しく歩いていたブロンの目が一瞬でプロの牧羊犬のそれへと変わり、矢のような速さで羊たちの背後を駆け抜けた。
だが、本当に凄いのはそこからだった。
おばあちゃんは鞭を振るうでもなく、ただジョイの手綱を静かに握っているだけだ。
それなのに、散らばろうとしていた何十頭もの羊たちが、まるでおばあちゃんからの指示をあらかじめ知っているかのように、綺麗に一つの大きな塊となって移動を始めたのだ。
ブロンが吠えて羊を追うよりも早く、羊たちが自発的におばあちゃんの馬の後を追っていく。
その流れるような美しい光景に、僕は思わずロバの上で息を呑んだ。
「いやぁ、さすがですね、おばあ様は」
その様子をロバの上から眺めていたソディルさんが、心底から感心したように深く溜め息をついた。
おじいちゃんの隣にロバを並べ、嬉しそうに語りかける。
「おばあ様のあの手際、何度見ても惚れ惚れしてしまいますよ。なんというか、もう羊たちがおばあ様に従っているように見えるんですよね」
おじいちゃんは白髭を誇らしげになでながら、鼻高々に「ほほっ」と喉を鳴らした。
「そうじゃろう、ソディル。あいつは若い頃から家畜の世話をさせたら、右に出る者はおらんかったからな。ただ羊を放牧するだけではない。動物全体、家畜全体を扱うことにかけては、それこそ天性の才能を持っておるんじゃ」
「ええ、本当に。僕が小作地でヤギを数頭追うだけでも苦労するのに、おばあ様はまるで羊たちの心が全て視えているかのようです」
ソディルさんの言葉に、僕もロバの上で大きく何度も頷いた。
(すごい……。おばあちゃん、本当にかっこいいや。まるでおばあちゃんの周りだけ、風が羊たちを優しく導いているみたいだ)
脳内のおじさんも、その圧倒的な野生のカリスマに興奮を隠せない様子だ。
風をまとい、羊たちを完璧に統率するおばあちゃんの背中を見つめながら、僕はこれから始まる荒野での狩り、そしてその先にある『骨の調達』へ向けて、期待と緊張で胸を熱く弾ませるのだった。




