01-29.オモ視点1
祖父のオモ視点です。
春の夜は、乾いた昼間の暑さが嘘のように、心地よい涼しさに包まれる。
冬の間、部屋の中央で暖めてくれていた木製のコタツは、暖かくなるとともに部屋の隅へと片付けられた。
広くなった寝室の床には、中厚手の 敷布団が直接敷き詰められ、その上で横になると、ひんやりとした日干しレンガの感触が体へと伝わってくる。
ワシは、朝晩の少し肌寒い空気から身を守るように、中綿の入った 掛け布団を胸まで引き上げ、天井の梁を見つめていた。
隣に敷かれた布団からは、今日一日の放牧を終えて疲れて眠る嫁、グルスランの静かな寝息が聞こえている……と思ったが、彼女はまだ起きていたようだ。
「オモ。さっきから何度も寝返りを打って、何か悩み事でもあるのかい?」
しわがれてはいるが、声にはまだまだ張りがある嫁のグルスランの声が暗闇に響いた。
「いや、悩みというほどではない。今日の午後、トッシュを連れて 万屋のニヨズのところへ行ってきてな」
「あの偏屈者のところへ? あんたも物好きねぇ。何をしに行ったんだい?」
「これのためじゃ」
ワシは体を起こし、枕元に置いておいた小さな素焼きの器を手にとった。
中には、今日の夕方にトッシュが何度も泥と砂を循環させて作り上げた、あの澄んだ水が入っている。
「ちょっと飲んでみておくれ」
グルスランは怪訝そうな顔をしながらも、布団から木綿の服に包まれた体を起こし、器を受け取った。
山岳遊牧民の出身である彼女は、かつて故郷の山岳地帯で、冷たくて生命力に満ちた、天然の美しい山の水を飲んだ経験がある。
何が混ざっているかも分からない貯水池の水ばかりのこの土地で、ただ泥を取り除いただけではない、自然な水の美味しさを知っているのは彼女だった。
器に口をつけ、少しだけ水を喉に流し込んだ彼女は、一瞬だけ目を見開いた。
「……あら。本当に、じゃりじゃりしないさね」
「そうじゃろう。トリーブ先生——導師様から聞きかじった知恵だと言ってな。トッシュがあの小さな手を泥だらけにしながら、一生懸命に石や砂を重ねて作った水じゃ」
「トッシュが? あの子がこんなものを……」
「ただ、導師様から聞いたというのはおそらく嘘じゃろう。慣れないことをしているからか目が完全に泳いでおったわ。ほっほっほっ」
グルスランは器の中の水を愛おしそうに見つめ、それからフッと優しく目元を緩めた。
「それでもお前さんは信じて助けてやろうって思ってるんだろう。まぁあの子のために一肌脱ぎたくなるのも分かるさね。いつもあんな泥水を飲まされているんだ、こんなに滑らかな水、放っておけるはずがないよ」
「うむ。あやつは普段、聞き分けが良すぎてな。もちろん七歳の子供じゃ。無邪気に遊んでいる姿も見る。だが、優等生すぎた。確かにそれは頼もしいことだが、ワシは少し心配しておったんじゃ。しかしな、今日物置で見たあの姿は違った。自分の手で泥まみれになりながら、ワシがいることに気付かずに夢中になってこれを作っておった。ワシに嘘をついてまであんな風に、何か一つのことにやり遂げようというあやつを見るのは、初めてかもしれん」
子供というものは、おままごとでも何でも、時間を忘れて何かに熱中している姿が一番愛おしい。
普段のトッシュは、七歳にしてはどこか大人の顔色を窺うようなところがあったような気がした。
だからこそ、あの熱意が、ワシにはたまらなく嬉しかったのだ。
「父親のプラートは生真面目な男じゃからな。あやつがあんな怪しげなことをしていて、しかも導師様の名前を語ったとなれば、生真面目さゆえに叱ってあの壺を叩き割ってしまうかもしれん。だから、ワシが間に入って盾になってやろうと思ってな」
「ふふ、相変わらずプラートには厳しいおじいさんだねぇ。でも、あの子らの楽しそうな顔を守ってやるのは、ワシら年寄りの役目さね」
「まぁ、あやつがいくら大きくなって畑を任されるようになっても、ワシらにとっては未だに子どもだからな。……だがだ、この水をもっと良くするためには、ニヨズの窯で骨を焼いてもらう必要があるらしい。その代わりにニヨズには『獣の骨』を持ってこいと言われてな。さすがに我が家の羊を今すぐ潰すわけにはいかん」
「骨、ねぇ……」
グルスランは腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。
その目は、草原で何十頭もの羊を狼から守り抜いてきた、誇り高き山岳の狩人のそれだった。
「それなら、野生の獣を捕まえるしかないさね。お前さん、近いうちにトッシュを連れて荒野へ出る用意をしておきな」
「おお、やってくれるか」
「ふん、孫のためなら仕方ないさね。私の弓の出番だねぇ」
頼もしい嫁の言葉に、ワシは深く息を吐き出し、敷布団へと背中を戻した。
トッシュがあれほど必死に何かを成し遂げようとしているのだ。
その小さな一歩を、ただの泥水の中へと埋もれさせるわけにはいかない。
狩りの計画を頭の中で描きながら、ワシは心地よい春の風を感じつつ、静かに目を閉じるのだった。




