01-19.ウンコの炭は使えない!?
賑やかな夕食が終わり、夜の礼拝を済ませると、トルスノフ家の長い一日がようやく幕を閉じる。
日中に容赦なく降り注いだ太陽の熱はどこへやら、泥レンガの家の中は、夜になると驚くほど急速に冷え込んでいった。
「うう、まだ夜はやっぱり寒いな……」
僕は床に敷かれた厚手の綿キルト布団に潜り込んだ。
隣からは、すでに夢の中へと旅立った双子の弟たち――ハッサンとフサンの規則正しい寝息が聞こえてくる。
中庭の家畜小屋からも、ロバの足音がたまに小さく響くだけで、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
(……それにしても、あの泥水はやっぱりどうにかしないと、いつか本当にお腹を壊して死んじゃうよな……)
昼間に見た、黄色く濁った生水の光景が脳裏をよぎる。
もともと普通に飲んでいたとはいえ、おじさんの衛生観念が入り込んでしまった僕は、あの泥水をそのまま受け入れることを徐々に拒否しはじめていた。
なんとかして、家族みんなが安全に飲める綺麗な水を手に入れなければならない。
そんな切実な決意を胸にぎゅっと目を閉じると、僕の意識は現実の冷たい空気から切り離されるように、深く、深く沈んでいった――。
◇。
「うおっと。……相変わらず、ここは目がチカチカするくらい真っ白だなあ」
次に目を覚ましたとき、僕は輪郭すら曖昧な純白の空間に立っていた。
上も下も、壁も床もない。
精神だけの部屋。
『よお、待ってたぜ、トッシュ』
空間の真ん中で、腕を組んであぐらをかいていた前世のおじさんが、にやっと笑って手を挙げた。
家具一つないこの奇妙な精神世界で、おじさんは我が家のようにくつろいでいる。
「おじさん! 待っててくれたんだね。あのさ、さっそく相談なんだけど――」
『わかってる、わかってるさ。さっきの夕食のスープだろ? お前が現実世界でどれだけ絶望してたか、俺にもビンビン伝わってきたからな』
おじさんは立ち上がると、白い空間の空中を指先でピッとなぞった。
すると、何もない空間に、おじさんの知識から引き出された、綺麗な濾過器の透視図が青い光の線で浮かび上がる。
『生水をそのまま飲むのは、ここじゃ自殺行為だ。お湯を沸かす薪だって貴重なんだろ? だからこそ、まずは現代の知恵――「ろ過」の出番ってわけだ』
「ろ過……? それでお水が綺麗になるの?」
『原理は簡単。汚い水を上から注ぐと、容器の中に敷き詰めた色んな材料の隙間を通り抜けるうちに、泥やゴミが引っかかって、底からは澄んだ水だけが出てくるっていう仕組みだ。定番のサバイバルテクニックなんだよ』
「砂や石で、お水が綺麗になるなんて不思議だね」
『本当ならここに「木炭」とかを入れたいところなんだがな。炭は水の臭みや細かい汚れを取ってくれるらしいんだ。だが……この乾燥地帯じゃ、まともな炭なんて高級品で手に入らないだろ?』
おじさんが困ったように頭を掻く。
炭、か。
僕はおじさんじゃなくて、自分の記憶の引き出しを必死にひっくり返した。
この過酷な農村の家庭で、毎日大量に使われている「あの炭」の存在が、パッと頭に浮かび上がる。
「ねえ、おじさん! 炭なら、我が家に山ほどあるよ!」
『おっ、マジか!? こんな平民の農家なのに炭を常備してるのか?』
「うん! お母さんが毎日、中庭の壁に羊やロバのフンをペタペタ貼り付けて乾かしてるじゃない。あの「糞炭」なら、物置の裏に積んであるよ!もちろん数には限りはあるんだけど」
僕が満面の笑みで提案した瞬間、おじさんの顔がみるみる引き攣った。
『絶対にやめろ!!このウンコ野郎!』
白い空間に、おじさんのドスの効いたツッコミが響き渡る。
「ええっ!? だって、あれもみんな「炭」って呼んでるし、立派な燃料の炭だよ?ウンコ野郎ってなに?ひどいなあ」
『名前は炭でも、中身はただの「乾燥したウンコ」だろ!! いいかトッシュ、俺が言ってるのは木を蒸し焼きにして作った木炭だ! そんなもの水に入れたらどうなると思う!?』
「ええと……?」
『泥水が綺麗になるどころか、ウンコの成分がたっぷり溶け出した最凶の汚水に進化しちまうわ! 濾過器じゃなくてバイオテロ兵器を作ってどうするんだよ!』
「あ……そっか。バイオテロが何かはよくわかんないけど、さすがに僕でもお腹を壊しちゃうね……それにとっても臭そうだね」
おじさんに全力で止められて、僕は頬を掻きながら苦笑いする。
『おうよ、命に関わるからな! ……まあ、俺は文系だから炭がないことでなにがどうなのかはわからんのだけど、完璧じゃなくても一回炭なしでやってみよう。あの茶色い泥や大きなゴミを落とすだけでも、だいぶ違うはずだ』
「それなら、僕でも材料を集められるよ! 小石や綺麗な砂なら、ハッサンたちと水汲みに行く貯水池周辺や、乾いた川床を探せばいくらでも落ちているからね」
『よし、材料はタダで揃うな。問題は、それらの砂や石を詰め込む容器だ。何か細長くて、底に穴を開けても怒られないような都合のいいもの、現地の家にないか?』
おじさんの問いに、僕は夕方に中庭を歩いていたときに見かけた、ある古い道具の姿を思い出した。
「――あるよ! 中庭の物置の隅に、口の部分が大きく欠けて使われなくなった、素焼きの土器の壺が転がっていたんだ。細長くて、ちょうどいい深さがあるよ。口が欠けているなら、むしろ水を注ぎやすいし、底のほうに小さな穴をいくつか開ければ、水は出ていくと思う!」
『完璧だ、トッシュ!!完璧すぎるぞ、トッシュ!! 欠けた壺なら、お前さんがちょっと工作に使っても誰も文句は言わないだろう。中身が漏れないように底へ布の端切れを敷き詰めて、下から「大きな石」「小さな小石」「粗い砂」「細かい砂」の順番で何層も重ねていくんだ。そして最後にまた布を被せて、「布の砂石ハンバーガー」ってところだな!』
ところどころよくわからないことを言うことはいいとして、空間に描かれた青い設計図が、僕の言葉に合わせてみるみる形を変え、素焼きの壺をベースにした濾過器へと姿を変えていく。
僕たちの脳内の知識が、現地の過酷な環境と完全に噛み合った瞬間だった。
『これで俺たちの試作品の完成だ!』
「うん!」
おじさんと僕は、浮かび上がる光の設計図を見つめながら、互いに力強く拳を突き合わせた。
劣悪な環境にただ絶望するだけの時間は終わりだ。
僕の、大切な家族を守るための泥臭いサバイバルが、ここから始まるんだ。
『……で、問題はだ。いつそれを作るか、だな。普段の日は畑仕事や初等学校の授業で、なかなかまとまった時間が取れないだろ?』
「あ、それなら大丈夫だよ。明後日、一週間に一度の「信仰の日」があるんだ。その日の午後ならみんなお休みになって時間が取れるから、そこで試してみるよ」
『なるほど、礼拝後の自由時間か。よし、決まりだ。我がトルスノフ家の中庭で、お腹を壊さないためのプロジェクトを決行する!』
「もう『我がトルスノフ家』なんだね。おじさん、歳なのに慣れるのがはやいね!」
『ゴラァ!歳のことは言うんじゃねぇ!まだお兄さんだ!』
おじさんは歳の話題になると、毎回なぜか本気で感情的になる。面白い。
肩を上下させて激しく息を切らせている様子を眺めながら、僕は苦笑いした。
でも、少ししてようやく落ち着いたようだ。
『はぁはぁ……。さて……話を戻して……じゃあその信仰の日ってやつまでに、水汲みのついでに砂と石をそれとなく集めておけよ。布は端切れ袋から、数枚拝借するんだ』
「分かった。それくらいなら大丈夫だよ。任せて、おじさん」
『頼んだぞ、トッシュ。俺たちの知恵で、あの泥水からお前さんの大好きな家族を、あの可愛いディロロムちゃんを守るんだ』
「うん。絶対に、誰も病気にさせないよ」
満天の星々が広がる中央ユーラシアの夜、白い部屋での長い作戦会議を終えた僕は、おじさんとの固い約束を胸に、静かに意識を現実へと戻していった。
明日からの材料集めに備えて、僕は泥レンガの部屋の温かい布団の中で、深く、心地よい眠りに落ちていくのだった。




