01-18.バショ姉さんの来訪、響く笑い声
西の地平線が完全に夜の帳に包まれる頃、我が家の中庭は、昼間の静けさが嘘のように賑やかな活気に満ちあふれていた。
「ちょっとソディル! 鍬の片付けくらいさっさと終わらせて、トッシュの顔を見てきなさいって言ったでしょう! 本当にあんたは動きがのんびりなんだから!」
中庭の厨房から響いてきたのは、実家に帰ってくるなり凄まじい存在感を放っている長姉バショ姉さんの声だった。
「ははは、すまないバショーラ。トッシュならちゃんと一緒に帰ってきたよ。ほら、もう元気そうだ」
ソディル義兄さんが大きな体を小さく丸めるようにして、おっとりと笑いながら鍬を壁に立てかけている。
バショ姉さんは今年で十七歳。
気が強くてテキパキとした性格の美人だけど、二十一歳のソディル義兄さんを完全に尻に敷いていた。
「トッシュ!」
厨房から飛び出してきたバショ姉さんは、僕の姿を見るなり泥のついたエプロン姿のまま駆け寄ってきた。
そして、僕の前に膝をつくと、小さな僕の肩をがっしりと掴んで顔を至近距離で覗き込んでくる。
「あんた、本当に大丈夫なの…倒れたって聞いたときは、生きた心地がしなかったんだから。 神様からせっかく授かった恵みでも、あんたの小さな体が壊れちゃったら何にもならないんだから!」
「あはは……大丈夫だよ、バショ姉さん。心配かけてごめんね。もうお昼から父さんと一緒に畑仕事ができるくらい元気だよ」
僕が苦笑いしながら答えると、姉さんはふう、と大きなため息をついて、ようやく掴んでいた手を離してくれた。
その大きな瞳には、本当に僕を心配してくれていたのだろう、うっすらと涙が浮かんでいた。
「キャハハッ! あうー!」
そのとき、バショ姉さんの背後から、元気いっぱいの可愛らしい泣き声と笑い声が混ざったような声が聞こえてきた。
お母さんの腕に抱かれているのは、バショ姉さんの愛娘で、僕にとっては初めての姪っ子にあたるディロロムだ。
ディロロムは、まだ一歳になったばかり。
バショ姉さんが子育ての相談や手助けのために、よくこうして実家に連れてきている。
今は僕たちのやり取りが面白いのか、短い手足をバタバタとさせて喜んでいた。
中庭の高床式縁台には、すでに家族全員が集まっていた。
祖父のオモを筆頭に、祖母のグルスラン、父さん、お母さん、そして双子のハッサンとフサン、まだ幼い四男のナスル。
さらに長女夫婦とディロロムが加わり、総勢十一人の大所帯が絨毯の上に並んでいる。
夜の帳が下りたオアシスの空気は、昼間の猛暑が嘘のように急激に冷え込んでいく。
けれど、食卓の中央に置かれた大きな鉄鍋から立ち上る湯気と、家族全員の熱気が、中庭を信じられないほど温かく包み込んでいた。
お母さんとバショ姉さんが手際よく大皿を運んでくる。
硬くて冷たいお馴染みのノンの横に、今夜のごちそうであるスープが並べられた。
ソディル義兄さんが持ってきてくれた羊の干し肉がたっぷり入ったスープからは、濃厚な脂の香ばしい匂いが漂い、それだけで喉が鳴る。
習慣となっている神様へのお祈りを全員で手短に済ませると、すぐに待ちに待った夕食が始まった。
「うわあ! 肉だ肉だ! やっぱりバショーラ姉ちゃんが来るとご飯が豪華になるから嬉しいなぁ!」
フサンが待ってましたとばかりにノンをちぎり、スープの濃厚な汁に浸して口へと放り込む。
ディロロムがそれを見て「あうー!」と絨毯の上を這い回ろうとするのを、バショ姉さんが「こら、危ないでしょ」と大慌てで捕まえていた。
一歳児の破壊力は凄まじく、大人の誰かが常に付きっきりで面倒を見ないと、とてもじゃないけれどゆっくり食事なんてできない。
ソディル義兄さんもバショ姉さんと交代しながら、嬉しそうに娘をあやしている。
「トッシュも、ほら、この肉の塊を食べなさい。体力をつけないとね」
ソディル義兄さんが僕の器に、よく煮込まれた肉を分けてくれた。
「ありがとう、義兄さん」
スープを一口すする。
羊の凝縮された旨味と、わずかに入っている香辛料の風味が口いっぱいに広がり、冷えた体にじんわりと染み渡っていく。
(……でも、やっぱり少し泥臭いな。お肉の油で誤魔化されているけれど、ベースになっている我が家の水そのものが原因だ)
スープを味わいながらも、僕の味覚はかすかな違和感を捉えていた。
すると、僕の目を通じてそのスープを見ていた頭の奥の『雲』から、おじさんの、激しい拒絶と心配の入り混じった気配が伝わってきた。
――『……ああ、やっぱり加熱してスープにしても、水路の泥の匂いは完全には消えないか。
トッシュ、肉の出汁が出ているからって油断しちゃダメだぞ。
いくら沸騰させて菌を殺したとしても、泥や砂そのものは水に溶け込んだままだからな。
』。
おじさんは必死で、どこか悲痛だった。
前世のニホンでは、ボタン一つで透明で安全な水がいくらでも手に入ったらしい。
おじさんからすれば、このスープを飲むことすら、薄い毒を少しずつ体に盛っているような恐怖があるのだろう。
(分かっているよ、おじさん。僕だって、知ってしまったからにはこの泥水は嫌だ。何とかしなきゃいけないって、本当に思ってる)
心の中でそう答えながらも、僕は賑やかにお喋りをしながらノンをちぎり、スープを分け合う家族の姿をじっと見つめていた。
ハッサンがナスルにノンを小さくちぎって食べさせてあげている。
父さんはぶっきらぼうながらもソディル義兄さんに「いつも畑をよく手伝ってくれている」とねぎらいの言葉をかけ、おばあちゃんは腕の中のディロロムを愛おしそうに揺らしている。
バショ姉さんは相変わらずソディル義兄さんに小言を言っているけれど、その表情はとても幸せそうだ。
その光景を見ていたおじさんが、ふと、深く胸を打たれたように、静かに呟いた。
――『……でも、いいな、これ。
すごく、いい。
俺のいた場所には、こんな風に囲む家族がいなくて、いつも一人だったからさ』。
このハードモードな世界は、衛生環境も最悪で、燃料も足りなくて、生きること自体が泥臭い努力の連続だ。
だけど……ここには、肌がヒリヒリするほど濃厚な「家族の愛」が確かにあった。
(そうでしょ、おじさん。これが僕の、大好きな家族なんだ)
胸の奥が、温かい塊で満たされていくのが分かった。
僕はトルスノフ家の長男だ。
まだ七歳で、体も小さくて力もないけれど、いつか絶対に一人前になって、この温かい家族の笑顔をずっと守り続けてみせる。
そのためには、おじさんが怯えている「目に見えない水の危険」を、どうしても取り除かなければならない。
家族がずっと健康で、誰も欠けずに笑っていられるように。
「トッシュ、どうしたんだい? 手が止まっているよ。まだお腹が痛むのかい?」
お母さんが心配そうに顔を覗き込んできた。
僕は慌てて首を横に振り、満面の笑みを浮かべてスープの器を持ち上げた。
「ううん、何でもないよ、お母さん! すっごく美味しい!」
満天の星々が広がる夜空の下、賑やかな笑い声に包まれながら、僕は心の中で、家族のために生き抜くという絶対の誓いを、より深く、強く刻み込むのだった。
食事が終わり、片付けを終えて自分の寝床に潜り込んだ後も、スープの泥臭さと、おじさんの警告が頭から離れなかった。
(お湯を沸かす燃料が足りないなら、火を使わずに水を綺麗にする方法が必要だ。おじさんなら、その知恵を持っているはず……)
心地よい疲労感に包まれながら、僕は意識の海へと深く沈んでいった。
今夜の夢の中で、あの白い部屋で待つおじさんと、この過酷な「水」を打破するための本当の作戦会議を始めるために。




