01-16.泥土のアリーク(灌漑水路)
お昼前、僕は初等学校での学びを終え、一人で我が家へと歩いて帰った。
四月となると日差しがだんだん強くなってきていて、家に着く頃にはすっかり喉がカラカラだ。
「ただいまー」
中庭に飛び込むと、すでに午前中の手伝いを終えたハッサンとフサンが、泥を落としていた。
「あ、トッシュ兄ちゃんおかえり! 遅かったね」
「トッシュ、学校どうだった? 今日もいっぱい聖典読んできた?」
厨房からお母さんが笑顔で顔を出した。
「おかえりなさい、トッシュ。ちょうど準備ができたわよ。ほら、三人ともしっかり手を洗いなさい」
手を洗うのは、家の近くを流れる灌漑水路の水を汲んだものだ。
山から下りてきた綺麗な水(とは言ってもおじさんに言わせると毒水なんだけど)が流れる地下水路を通って溜まった貯水池の水と違って、町中の土の水路を這っているものだから多少砂っぽいし、色々浮かんでいることもある。
ただ、飲んだり料理に使うわけじゃないものに毎回貯水池の水を使ったりしていたらどれだけ汲んでもすぐ無くなってしまうだろう。
中庭の木の食卓には、朝と同じく硬いノンと、酸味の効いた白いヨーグルトに、恐らく昨日の晩ごはんの残りだろうスープのシュルパだ。
そして、お母さんが約束通り温かいお茶を沸かしてくれていた。
——家の長であるおじいちゃんのオモが、目を閉じて両手を胸の前でクロスさせた。
僕たちもそれに倣う。
「神に感謝を」
「「「神に感謝を」」」
父さんの低い声や、みんなの声に合わせて短い感謝を捧げ、食事を口に運ぶ。
乾いたノンをヨーグルトに浸して柔らかくし、噛みしめる。
口の中に広がる素朴な味が、疲れた体に染み渡っていくようだった。
「お昼にスープを温めるなんて珍しいな」
父さんがお母さんに言う。
「そうなの、トッシュがお茶を飲みたいなんていうからついでに昨日のを温めたの」
「ぷはぁ、やっぱりお母さんの淹れてくれたチャイは最高だね!」
フサンが満足そうに息を吐く。
「そうだね。暑い日でも温かいお茶は美味しいね」
ハッサンも嬉しそうにカップを両手で包み込んでいる。
お湯で淹れてくれたチャイを飲むと、喉の渇きがすうっと癒やされていく。
一気に飲み干すことはできない分、大事に飲もう。
ただの水を飲むときの、あの胃の奥が縮み上がるような不安感がないだけで、食事の時間が何倍も美味しく感じられた。
おじさんも喜んでいるようだ。
食事が終わると、そのまま食後のお祈りだ。
おじいちゃんを先頭に、家族全員が座ったまま両手をお椀の形に重ね、口元へと持ち上げる。
そのまま両腕を肩の横へ開き、手のひらを上に、そして下にと返しながら、頭を下げるとともに腕をゆっくり下ろしていく。
「神に感謝を」
頭を下げたまま、みんなで静かに数秒間、祈りを捧げる。
一日に何度も繰り返される、この短いけれど厳格な儀式。
生活のすべて、人生のすべての中心にこの信仰がガッチリと根付いている。
その様子を僕の目を通じて見ている頭の奥のおじさんからは、圧倒されるような強い実感が伝わってきた。
――日本とは全く違う。
生活のすべてがお祈り基準で回っている、ガチの宗教社会の空気。
けど、今のところ『ごちそうさま』みたいなもんだな。
頭の中からうっすら聞こえる声を聞きながら、僕は泥の匂いのする絨毯に額を預けた。
お祈りをしていると、不思議とおじさんの記憶に振り回されていた僕の心も、長男としての落ち着きを取り戻していくような気がした。
そうだ、僕は長男なんだから頑張らないと。
祈りが終わると少しの休憩のあと、午後の仕事が始まる。
農家の一日は長いのだ。
「よし、今は一番熱い時間帯だ。少し休んだら午後の作業を始めるぞ。俺は先に準備をしてくる」
父のプラートは立ち上がり、日焼けした逞しい腕で背伸びをした。
「ハッサンとフサンは、休憩が終わったらおばあちゃんとブロンが戻ってくる前に、羊小屋の掃除と糞の片付けをしておきなさい。次の肥料にするから、一箇所に綺麗にまとめるんだぞ」
「えーっ! 羊のうんち集めかぁ……匂うから嫌なんだよね」
フサンがこれ以上ないほど露骨に嫌そうな顔をして、口を尖らせた。
「何言ってるんだよフサン。サボったら父さんに怒られるの、お前なんだからな」
「だってさぁ、ハッサン。羊のうんちってコロコロしてて、集めても集めてもキリがないんだもん。そうだ、ハッサンが僕の分も半分やってよ!」
「やるわけないだろ! 」
そんないつもの掛け合いを横目に父さんは僕にも声をかけた。
「トッシュは休憩が終わったら俺と一緒だ。綿花畑の様子を見に行くぞ。水路の泥上げと、土の湿り気を確認する」
「うん、わかった。父さん」
「じゃあ、休憩が終わったら綿花畑に来てくれ」
「いや、もう休憩は大丈夫だよ。僕は午前中に作業をしていたわけじゃないし、それに昨日も丸1日寝ていたから元気だよ」
「そうか。じゃあもう今から行こう」
僕は近くにあった作業用の上着を羽織ると、小さな鍬を肩に担いだ。
家を出て、泥レンガの家々が並ぶ村の小道を抜け、我が家の綿花畑へと歩いていく。
畑の脇には細い灌漑水路が走っており、そこを泥で濁った生ぬるい水がサラサラと流れていた。
時期的に水量はそこそこあるけれど、決して綺麗とは言えない。
「トッシュ、まずはここの水路の底を見てみろ。泥が溜まって流れが悪くなっている場所があるだろう。そこを鍬ですくい上げるんだ」
「こう?」
「そうだ。体全体を使って、泥を土手に上げるんだ。病み上がりだから無理はするなよ」
厳しいけれど、時折僕の体を気遣ってくれる父さんの横顔を見ながら、僕は必死に鍬を動かした。
幼い体に泥の重みがずっしりと響く。
この綿花畑は、僕たちトルスノフ家が汗水流して守っている大切な場所だ。
だけど、この広い畑のすべての作業を、僕たち家族だけでこなしているわけではない。
この土地には、僕たちの畑を手伝ってくれている人たちもいる。
「プラートさん、すみません遅くなりました。もう始めてるんですね。おや、トッシュも病み上がりなのにもう働いているのかい?」
水路の先の方から、聞き覚えのある親しげな声が響いてきた。
鍬を動かす手を止めて顔を上げると、そこには我が家が雇っている小作人であり、同時に僕らの長姉・バショーラの旦那さんである男性が、汗を拭いながらこちらに向かって歩いてくるところだった。




