01-15.ノブレス・オブリージュ
「では、皆の衆。席に着きなさい。今日の勉学を始めます」
トリーブ先生の声が部屋に響くと、それまでガヤガヤと騒いでいた子供たちが一斉に静まり返り、絨毯の上に居住まいを正した。
この初等学校の授業には、おじさんの世界にあるような教科書も黒板もない。
僕たち生徒の手元にも本なんてものは存在しない。
あるのは、先生の手元にある、羊の皮や貴重な厚紙に美しい文字で書かれた、この村に代々伝わる大きな『大典』だ。
先生が読み上げる大典の一節を、僕たち子供たちが声を揃えて復唱し、何度も、何度も繰り返してその音と意味を頭の中に丸暗記していく。
それがいつもの授業のスタイルだ。
「今日は、私たちがこの過酷な大地で生きていくために、最も重要とも言える『共同体の章』から、ある大切な教えを学びます」
トリーブ先生が分厚い大典のページを厳かにめくる。
先生の指先が止まり、深く息を吸い込んだ。
「『持つ者、富める者は、その財を神の道のために差し出せ。渇ける者に清き水を、飢えれる者に糧を、宿なき者に屋根を分け与えるべし。それらは尊き寄付となりて、世代を超え、永遠にこの共同体を潤すであろう……』。さあ、復唱しなさい」
先生の声に合わせ、僕たち生徒全員が声を張り上げる。
「「『持つ者、富める者は、その財を神の道のために差し出せ。渇ける者に清き水を、飢えれる者に糧を、宿なき者に屋根を分け与えるべし。それらは尊き寄付となりて、世代を超え、永遠にこの共同体を潤すであろう……』」」
まだ幼い子供たちの高い声が、日干しレンガの壁に反響する。
何度も繰り返しているうちに、僕の頭の中の『雲』がぴくぴくと反応し始めた。
頭の奥のおじさんが、遠くからこの景色を眺めながら、断片的な言葉をぽつりぽつりと浮かび上がらせてくる。
――『インフラ』『公共事業』『税金がない時代の福祉』『ノブレス・オブリージュ』…。
おじさんが「この世界はそういうシステムで回っているのか」と納得している気配が伝わってきた。
先生が一度大典を閉じ、僕たちの顔を見渡しながら解説を始めた。
「いいですか、皆さん。今読み上げた言葉は、単なる綺麗事ではありません。……あなたたちがいつも水を汲みに行くあの大きな貯水池は、誰が造ったものですか?では…トッシュ」
「ええと……大昔の、村のご先祖さまたち……?」
僕が答えると、トリーブ先生は深く頷いた。
「その通り。確かに作ったのはこの村のご先祖さまたちもいたと思います。ですが、そのハウズに水を運んでくる、山からのカナート(地下水道)は? この小さな村の予算だけで、あんなに深い穴を何キロメートルも掘ることができると思いますか?」
周りの子供たちはみんな一斉に首を横に振った。
農家の子供だからこそ、そんな広大な水路を維持するのがどれほど大変か、感覚的に分かっているからだ。
「できないでしょう。あれらはすべて、何十年も、何百年も前に、大都市の豊かな商人や、この地を治めていた偉い方々が、自分の財産を『寄付』として差し出して造ってくれたものなのです。そして、このマクタブの絨毯も、私がこうして皆さんに勉強を教えるためのわずかな生活費も、すべては誰かの『寄付』によって成り立っています」
先生の言葉に、部屋の中がしん、と静まり返る。
「この乾燥した過酷な土地では、雨も降らず、一人だけの力では絶対に生きていけません。欲張って自分だけが知恵や富を独占すれば、周りの者が死に、やがて巡り文明も滅びるでしょう。だからこそ、聖堂では『富を共同体に還元せよ』と強く命じているのです。財産を持たぬ者であっても、知識を次の世代に教えること、水路を掃除する労働を提供すること、それらすべてが尊き『寄付』なのです。この世界は、誰かの施しと、誰かの優しさの循環で回っているのですよ」
先生の熱のこもった講義を聞きながら、僕の頭の中で、おじさんの知識の『雲』が急速に形を成していく。
おじさん自身は長々と語らないけれど、その記憶の引き出しから「社会のルール」としての意味が僕の脳内にクリアに広がってきたのだ。
(そうか……。おじさんがいうような、国家が税金で水道を整備してくれないこの世界だからこそ、この『寄付の文化』が、水路や学校、みんなの生活を支える最大の大黒柱になってるんだ。だからみんな、この教えをこれほどまでに大切にしているんだな……)
「なんでしたら、私も同じです。私は特に家畜も作物も育てていません。村長のお手伝いはしていますが、それだけでは食べていけません。聖堂で皆さんの相談を聞いたお礼だったり、ここで教師をして皆さんのご家族の寄付を頂いたりして、私は生きることができているのです。だから、教師だなんて偉そうにしていますが、私はあなたたちにも感謝をしなければならないのですよ」
子供たちは、トリーブ先生の偉そうにしないその態度や言葉にとても感心して聞いている。
だからトリーブ先生は、大人たちにも、子供にも人気なのだ。
なかには感謝していると言われ、自分のことのように誇らしげな顔をしている子もいる。
「こら、アディル。感謝しているとはいえ、寄付を頂いているのはあなたのお父様からですよ。あなたではないのです。あなたはお父様に感謝しなさい。」
先生が優しく諭すように怒ると部屋中で笑い声が聞こえた。
同じ世代のなかでもやんちゃでガキ大将なアディルが少し顔を赤くした。
トリーブ先生がかつて高等学校を途中で辞めて実務の道へ進み、やがて村に戻ってきたという話も、なんだか他人事には思えなかった。
僕は先生の言葉の重みをしっかりと胸に刻み込みながら、再び始まった大典の朗誦に合わせて、誰よりも大きな声でその尊い一節を復唱し続けるのだった。




