01-11.????視点1
……トッシュが起きている間、俺の意識は彼の脳の片隅にある『雲』の中に沈んでいる。
こうして誰もいない真っ白な空間で一人、あいつの視覚や聴覚を通して外の世界を眺めているか、あるいは俺自身もぼんやりと眠っているかのどちらかだ。
あいつが眠りに落ちたときにだけ、俺はこの空間に彼を呼び込み、直接言葉を交わすことができるらしい。
今は、あいつは起きていて、お母さんにもらったお湯を飲んでから中庭や家の中をうろうろしているところだ。
お母さんと交渉しているあいつの健気な姿を裏側で見守りながら、俺は深い溜め息をひとつついた。
「はぁ……本当に、俺は死んで、あの子の中に混ざっちゃったんだな……」
真っ白な空間で、自分のスーツ姿を見下ろしながらポツリと呟く。
実のところ、自分が死んだときの記憶はひどくうろ覚えだ。
日本の住んでいたマンションで倒れたような気がする……という程度で、死因もまったく覚えていない。
もっと言えば、俺は自分自身の名前すら思い出せないのだ。
三十代の会社員だっただろうということくらいはなんとか覚えているが、具体的な仕事内容もぼんやりとしている。
自分に関することは覚えていないが、日本のことも文明も、知識や経験は残っている感じがする。
よくある転生もののお決りのような、だけどお決りじゃないような。
俺が知っている転生ものだったら、あのトッシュが死にそうになって、その人格を俺が奪いとって俺がトッシュとして生きる、なんて話になるんだろうけど、それとも違う。
……この感覚はとても不思議なものだ。
さて、自分の名前がわからないからトッシュにも名乗れず、結果としてずっと『おじさん』呼ばわりされているのが、なんとも情けなくて悲しい。
良くも悪くも、俺たちはもう一蓮托生の相棒だ。
恐らく、あいつが死ねば俺も消えるだろう。
だからこそ、俺はこの世界の正体を少しでも掴んでおかなくてはならなかった。
俺は目を閉じ、トッシュの記憶から得た日々の生活や、あいつが当たり前だと思っている周囲の環境を客観的に分析してみる。
毎朝、あいつが水を汲みに行く『貯水池』。
そこに繋がる、山からの『地下水路』。
村の子供たちが通う『初等学校』での勉学。
どれもこれも俺の知っている世界とは縁がないものだ。
初等学校で学ぶ内容も、もっぱら宗教の聖典や大典を先生が読み上げ、子供たちがそれを延々と復唱して丸暗記するというものばかりだ。
その本も配られたりはしていない。
恐らく、本や紙は貴重なものなのだろう。
そして、生活を向上させたり豊かにするための算数や生活の知恵など、実践的なことはほとんど教わらないことにも驚かされた。
そして、毎朝の食事のたびに、家族全員が頭を地面に近づけて深くお辞儀をする、熱心で厳格なお祈りの習慣。
「この文明や生活環境からすると……間違いない。砂漠とか乾燥地帯の文化圏だ」
科学なんてものはまだ影も形もない。
人々の生活水準や衣服、泥レンガの家を見るに、おそらく……西暦でいうと…どうだろう、幅が広いんだけど、千年代から千八百年代くらいだろうか。
詳しくは全然わからないけどそれくらいだろうということにしておこう。
場所も……恐らく中央アジアとかシルクロードのどこかだろう。
まいったな、海外旅行はそれなりに行っていたけど、中央アジアのことなんてほとんど知らないぞ……多分だけど。
さらに言えば、あいつらが熱心に信じている宗教の形や、毎食ごとのお祈りの作法、聖典や大典と呼ばれるものの雰囲気も、地球の歴史に存在していた宗教にも似ている気がする。
ただ、――決定的な違いがひとつだけあった。
「…あいつ、今朝の食卓で『魔法』がどうこうって言ってたんだよな……」
自分は水属性を神から賜った、とトッシュは家族に報告していた。
周りの大人たちも、それを特別なことではなく「この地域にはよくある、当たり前のこと」として受け入れていた。
――魔法。
そんなものは、俺が生きていた地球の歴史には、どの時代、どの場所を探しても絶対に存在しなかったゲームとか小説のなかのファンタジーの産物だ。
「ってことは、やっぱり地球の過去の歴史そのものじゃない。歴史や文化のベースは酷似しているけれど、決定的に法則が違う……ここは間違いなく、地続きではない『異世界』なんだ」
頭を抱えたくなった。
ただでさえ水にばい菌がウジャウジャいるような世界なのに、そこに魔法という未知の要素まで加わっている。
前途多難なんてレベルじゃない。
転生ものと言えばのチートはどこいったんだ。
生まれ変わった(?)時にも、神様に会った記憶はない……。
だけど、絶望してばかりもいられなかった。
あいつはまだ、たったの七歳の子供だ。
それなのに、俺が伝えた水の恐怖を真っ直ぐに受け止め、大切な家族を守るために、幼い頭をフル回転させて必死に交渉していた。
燃料が足りないという壁にぶつかりながらも、お湯の回数を少し増やすという妥協案をもぎ取ってみせた。
「あいつ、七歳にしてはなかなかしっかりしてるよな……いや、この時代の子はそれくらいしっかりしていないと生きていられないのか…?それに長男だからかな」
大人のくせに線が細くて頼りない、なんてあいつには思われてしまったけれど、あいつのあの真っ直ぐな決意を見てしまったら、俺だって名前も忘れたただのおじさんとして燻っているわけにはいかない。
幸い、俺の記憶?俺の魂?はあいつの中で『雲』として保管されている。
俺自身は科学の専門家でも何でもないただの男だし、多分文系だっただろう。
頭の中に理系の知識はさっぱり無さそうだ。
ただ、現代日本で生きてきた常識や、サバイバル番組で見た知識、学校の授業の記憶くらいならなんとか揃っている。
拳銃の作り方?現代知識でチート生活?なんだそれ?普通の人間がそんなことできるはずはないんだ。
俺は俺ができることをやろう。
「よし……あいつがいつでも必要な知恵を取り出せるように、俺の記憶を整理しておくか。まずは、火を使わずに水を綺麗にする方法……「ろ過」あたりだな」
俺は白い空間に座り込み、トッシュの頭上の雲を整えるように、自分の記憶の引き出しを開け始めた。
幼き相棒が、この過酷な世界を生き抜くための、最高の武器になれるように。




