2部第5話
笑い死にしそうな蘇芳さんと協力して、なんとか紫苑さんを彼の部屋に運び、ベッドに寝かせた。その後すぐに蘇芳さんは迎えに来た嘉瀬さんに連れられお仕事に行ってしまい、僕は今、紫苑さんの部屋で、彼のベッドに寄り掛かり、体育座りしている。
ふと、部屋を見渡し以前との違いに気付いた。
「あ。写真がない」
部屋一面に僕の写真が貼られていたのだが、それがなかった。一面、白い壁紙になっている。でも、なんか、おかしい?
立ち上がり、壁に近寄ると、どうも壁紙が浮いている。不思議に思って白い壁紙をめくると、そこには以前と同じように僕の写真があった。これ、壁紙になんか意味あるのかな。壁紙の下で、壁がかびそう。
首を傾げていると、携帯電話にメールが入った。いちいちマナーモードにするのが面倒なので、僕の携帯電話は常にマナーモードだ。カバンの中でうごめく携帯電話に気付いて、型の古いその画面を見れば、相手はついさっき出掛けたばかりの蘇芳さんだった。きっと車での移動中だろう。
メールの件名は『指令1』とある。なんだかミッションインポッシブルな気分になった。
『樹へ。本懐を遂げる指令を与える。1から順に実行すべし』
ということは、このメールのあとにも『指令』と名のついたメールが数回送られてくるのか。
蘇芳さんはなんと言っても、経験が豊富だと思われる俳優さんだ。間違ったアドバイスはないだろう。そう信じ、僕はドキドキしながら続きを読んだ。
『紫苑が起きたら、紫苑の腹に跨がれ』
腹を跨ぐ。
えっ プロレス!? もしくはレスリングか。
だけど。年の近い男兄弟がいれば、たいてい経験しているであろう、体を張ったコミュニケーションというものを僕はしたことがない。なにせ、兄は口の重いモアイ像だし、弟は常に眠たそうな三年寝太郎だ。会話さえ怪しいのに、プロレスなんてできるわけがない。やったことはないけど、食卓でありがちらしいおかず横取り、なんてしたところで、兄は横目でちらっと見て終わりだろうし、弟は取られたことさえ気付かないだろう。
蘇芳さんの言う「やる」というのは、もしかして、襲い掛かってダウンを取れ、ということなのだろうか。確かにぐったりした紫苑さんなら触り放題かもだけど、それは本当に究極のチラシプレイ打開になるのだろうか。むしろ嫌われるんじゃないか。というか、やったこともないプロレス技を仕掛けられるのかがまず謎で、見よう見真似のプロレス技で紫苑さんをダウンできるのかが更なる謎だ。
いや、でも蘇芳さんが言うことなのだから間違いはないはず。できるかわからないけど、腕ひしぎ十字固めくらいきめてみよう。いや待て、これは柔道技か。どうしよう。プロレス技なんてバックドロップしか浮かばないよ。よし。要はダウンすればいいんだ。柔道技でもいいよね。
腕ひしぎ十字固めだ。
他になにも浮かばず、頭の中で以前見た、かの技を反芻する。うまくできるだろうか。うーん。失敗すると股間が紫苑さんの腕に当たりそうだ。やってもいないのに、痛みを想像して痛くなってきた。
痛みがなんだ。よし。僕はやるぞ。
そうと決めたら、後は紫苑さんが起きるのを待つのみ。眠たい目を擦りつつ、起きていなければいけないので、カバンからスケッチブックを取り出し、学校で習っているシルバー細工のデザインを描く。紫苑さん、朝まで起きなかったらどうしよう、とちょっと不安になりながら。