ヴァルグレンの挨拶
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それでは、どうぞお楽しみください。
翌日の昼前、正門の方角から低い角笛が3回聞こえた。
授業を終えたばかりの教室で、何人かが窓へ寄る。
俺も立ち上がりかけたが、右足へ急に体重を移さないよう机へ手をついた。
校舎前の広場へ、黒と深紅の旗が入ってくる。
旗の中央に描かれているのは、向かい合う2本の斧。
その下を、同じ色の外套を着た生徒たちが歩いていた。
「ヴァルグレン武王国の選手団だ」
セルド先生が廊下へ出る生徒を扉の前で止めた。
「見学は許可する。ただし、到着直後の荷下ろしを囲むな。挨拶は担当教員の指示に従え」
「木剣を持っていってもいいですか?」
エリオットが聞いた。
「なぜ必要になる」
「武王国の挨拶が、剣を合わせる形かもしれないので」
「確認していない文化を、想像で実行するな」
エリオットは鞄へ伸ばしかけた手を戻した。
俺たちは廊下を抜け、広場の端へ向かった。
荷馬車が3台止まり、学府の職員が馬具と封印札を確認している。
ヴァルグレンの生徒たちは、すぐに訓練場へ向かうわけではなかった。
荷物の数を読み上げ、武器箱の封印を引率者と学府職員の両方で照合している。
「もっと、着いたら走るのかと思ってた」
カシアが小声で言う。
「国境を越えて武器を運んできたんだ。先に記録だろ」
俺が答えると、ノエラはすでに荷札の書式を見ていた。
「番号の前に氏族名があります。所有者ではなく、管理責任を示しているのでしょうか」
「今は読める範囲だけにしておけ」
セルド先生に言われ、ノエラは頷いた。
意味の推測は帳面へ書かず、見えた文字だけを残す。
最後の武器箱が運び下ろされると、選手団の前にいた大柄な男がこちらへ顔を向けた。
肩へ届く大きな斧を背負っているが、刃には厚い革覆いが掛けられている。
「カレディアの皆さん。待たせたな」
声は大きいが、武器箱の列を崩さない位置で止まった。
「護衛のハドラン・デインだ。滞在中の安全確認と、武器管理の責任を預かる。競うのは生徒同士だが、事故まで競うつもりはない。決めた線の中で、存分にやってくれ」
その後ろから、4人が前へ出た。最初は、黒に近い青髪の少年だった。
俺たちより少し背が高く、灰色の目が広場と建物の出入口を順に見ている。
「イサーク・ヴァレン。14歳。個人総合戦へ登録する」
言葉は短い。けれどこちらを見下ろす様子も、力を見せようとする動きもなかった。
その隣では、灰褐色の耳を持つ少女が、荷馬車の上に残った袋を気にしていた。
腰の後ろから同じ色の尾が揺れている。
「ミナ・ガルム、13歳。私も総合戦。あと、あの袋は食料だから先に食堂へ運んで」
「自己紹介の途中だぞ」
ハドランが言う。
「途中でもお腹は減るよ」
ミナは答えてから、俺たちへ向き直った。
「走る人がいたら教えて。知らない道を一人で走ると、また引率に止められるから」
「また?」
カシアが反応する。
「国境の宿で1回。今朝、北門の前で1回」
「止められて当然だろ」
後ろから、猫の耳を持つ少年が口を挟んだ。
「フェイ・ルーガ。13歳。逃げる相手を追うのが得意。追われる方はもっと得意。よろしく」
言い終えると、フェイは片手を上げた。
最後の少年は両手を身体の横へ揃え、俺たちへ深く頭を下げた。
「トリス・カーン。14歳です。格闘を学んでいます。良い試合と、良い学びを」
4人とも、同じ武王国の代表だった。
それでも立ち方も、話す長さも、こちらを見る場所も違う。
人間と獣人が多く、近接武技が盛んな国。
昨日まで紙の上にあった説明が、4人の顔へ分かれて目の前へ並んだ。
セルド先生が、こちらからも名前を伝えるよう促した。
アステラから順に所属と希望部門を述べていく。
俺が個人総合戦を希望していると伝えると、イサークの視線が一度だけ右足へ下がった。
杖は持っていない。平地なら普通に歩ける。
ただ、左右の歩幅はまだ完全には同じでなかった。
「今は走れないのか」
イサークが聞く。
「まだ許可が出てない。選考日までに許可が出なければ、総合戦の選考は受けない」
「そうか」
それだけ言って、彼は右足から目を離した。
できないと決めつける言葉も、すぐ治ると励ます言葉もない。
今の条件を聞き、今の答えとして置いたようだった。
全員の紹介が終わると、ハドランが右手を胸の前へ上げた。
ヴァルグレンの4人も同じ動きをする。
拳は握らず、掌を斜め前へ向ける。
次に手首を返し、空の手を見せた。
「ヴァルグレンでは、武を交える相手へこう挨拶する」
ハドランが説明した。
「隠した刃はない。次に会うときも、互いに立っていよう。その意味だ」
イサークが俺たちの前へ一歩出た。
「隠す刃なく、次も立つ」
静かな声だった。エリオットが息を呑む。
「次に会うときって、試合で?」
「試合でも、練習でもいい」
「武器を持って返す挨拶は?」
「ある」
イサークは頷いた。
「やっぱり」
エリオットは踵を返し、校舎へ走ろうとした。
「どこへ行く」
セルド先生が呼び止める。
「木剣を取ってきます。持って返す形もあるなら」
「今の挨拶は空の手で返せ」
「でも、武器を持つ形も――」
「正式な立合いを申し込む形だ」
ハドランが笑いを堪えるように口元を押さえた。
「抜いた武器を互いの間へ立て、日時と条件を述べる。今ここでやれば、到着挨拶への返礼ではなく、決闘の申し込みになる」
エリオットの足が止まった。
「決闘」
「訓練試合として受けてもいい」
トリスが真面目に答える。
「いや、待って。今は申し込んでない」
「木剣を取りに行くって言ったじゃない」
ミナが楽しそうに耳を動かした。
「意味を知らなかったんだ」
「知らないまま申し込もうとしたんだね」
「だから、申し込んでないって」
広場に笑いが起きた。
エリオットは少し赤くなりながらも、今度は空の右手を胸の前へ上げた。
「隠す刃なく、次も立つ」
手首を返し、何も持っていない掌を見せる。俺たちも同じ動きを続けた。
角度が合っているか気にしたローディの手を、フェイが隣から少しだけ上へ直す。
「それでいい。低すぎると、食事をください、に近い」
「そんな挨拶もあるの?」
「今作った」
ローディが困った顔をすると、フェイは笑った。
「ごめん。ヴァルグレンにも、そうやってすぐ信じる人はいるから安心して」
何を安心すればいいのかは分からない。
挨拶が終わると、選手団は宿舎へ移動を始めた。
イサークとトリスは自分の荷物を持ち、フェイは2つ持って1つをミナへ渡す。
ミナは食料袋を抱えたまま、俺の前で止まった。
「さっき、走れないって言ってたよね」
「今は」
「じゃあ、走れるようになったら朝はどこで練習する?」
「東の外周走路。許可が出るまでは歩行と魔力操作だけだ」
「何時?」
俺は答える前に、昨日回した紙を思い出した。空いている時間。試したいこと。
一緒に確かめたい相手。相手の予定を聞かず、こちらの練習へ組み込まない。
「俺は朝鐘の1つ前から。ただ、ミナは何を試したい?」
ミナの耳がこちらへ向いた。
「あなたが走るときの足音。歩くときも同じか知りたい。それと、走れるようになったら一度追いかけたい」
「足音の確認なら、今でもできる。追う方は許可が出てからだ」
「じゃあ明日の朝、足音から」
ミナは即座に決め、食料袋の上へ置かれていた紙片へ時間を書いた。
「私が起きてたら行く」
「起きていなかったら?」
「食堂で反省する」
「それは朝食を食べるだけじゃない?」
カシアが言うと、ミナは真剣な顔で首を振った。
「反省には食事が必要だから」
そう言って、宿舎へ走りかける。
「ミナ」
ハドランの声が飛ぶ。
「構内経路の確認前だ。歩け」
ミナは片足を前へ出した姿勢で止まり、ゆっくり戻した。
「……今のは走ってない」
「走り始める前だったな」
「なら、止まれたから合格」
誰が決めた合格か分からないまま、ミナは今度こそ歩いていった。
黒と深紅の旗が宿舎の方へ遠ざかる。知らない国から来た強い選手。
昨日までは、それだけでひとつの大きな相手に見えていた。
けれど実際には、静かに条件を見る者がいて、走る前に止められる者がいて、冗談を真顔で混ぜる者がいて、礼を崩さない者がいる。
俺はミナの書いた時間を自分の予定へ写した。明朝。歩行時の足音を確認。
走行と追走は、許可後。最初に交わしたのは勝負の約束ではない。
互いに空の手を見せ、次も立って会うための約束だった。
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