残っていた明日
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それでは、どうぞお楽しみください。
治療室の窓から、南門の上だけが見えた。
救護馬車で着いてから、外の明るさは半分ほどになっている。
校外実習へ出た時より空は赤く、南東に残っていた煙も、窓からはもう見えなかった。
俺の右足首には厚い布と薄い板が巻かれている。
膝の外側には冷やした布が置かれ、寝台の横には水と、咳の回数を書く紙があった。
治療担当の教員は、俺の足先を押してから言った。
「骨折も、靱帯の完全断裂もない。右膝は強い打撲。右足首は外側の靱帯を一部傷めている。軽い捻挫ではない」
「何日で走れますか」
「通常なら、走るまで数週間を見る」
「数週間」
「今夜の回復次第で変わる。だが、早く治ることと、途中で使ってよいことは別だ。今夜は固定し、明日の朝に腫れと可動域を再確認する」
レイナと同じ答えだった。
「煙を吸った影響もある。今夜は右脚へ体重をかけない。階段は使わない。咳が増える、胸が痛む、息が浅くなる。そのどれかがあればすぐ呼ぶこと」
「分かりました」
教員は固定を巻く前に、足首へ両手を添えた。
淡い光と熱が、腫れの奥へゆっくり入る。
「治癒魔法は損傷を消すためではなく、今夜の修復を助けるために使う。痛みが減っても、靱帯へ体重をかけないこと」
「分かりました」
「分かった者は、固定を外そうとしない」
教員は俺の右手を見た。
留め具へ触れる前だった。
俺は手を膝の上へ戻した。
向かいの寝台には、右脛を負傷した生徒がいる。
治癒魔法で出血は止まり、固定も終わっていたが、今夜は治療室に残ることになった。
眠ってはいない。天井を見ながら、ときどき足先を動かしている。
「ほかの15人は?」
俺は聞いた。
「点呼と初回報告を終えた。負傷者は2人。欠員なし。火は教員と外部の消火班が処理中。リッジハウンドは1体を区画外へ追い、もう1体は所在確認を継続している」
「未確認なら、最後に見た位置と――」
「報告は受け取っている」
教員は咳の紙へ時刻を書いた。
「未確認を残したことも含めて、教員側の仕事になった。君がここから追加する必要はない」
必要がない。
その言葉は、実習中に答えを呼ばれなかった時と同じ形をしていた。
俺がいなくても、入口は維持された。左道は確かめられ、15人は水場まで出た。
未確認の魔物と火は教員へ渡り、報告も終わっている。
俺が治療室にいる間も、紙は進んだ。
「夕食はここで取りますか」
「歩行は禁止だが、食堂への移動は許可できる。補助員が車椅子を押す。食後は寮の1階に用意した部屋で休むこと。明朝、また治療室へ来なさい」
「自分で動かせます」
「腕で車輪を回せることと、咳を増やさず移動できることは別だ」
教員は扉の外を見た。
「それに、もう迎えが来ている」
扉が開く。
エリオットが車椅子の後ろに立っていた。
「遅い」
「今、確認が終わった」
「僕たちはもっと前に終わった」
「なら先に食べればよかった」
「その話は食堂で聞く」
エリオットは寝台の横へ車椅子を寄せた。補助員も一緒にいる。
俺が左脚だけで移ろうとすると、補助員が右脚の板を支え、エリオットが背もたれを押さえた。
「腕は使わなくていい」
「座る時くらい使える」
「使えるのは見れば分かる。でも、今は俺が押さえる」
エリオットは、今日の剣を使った時より短く言った。
車椅子へ移る。右脚は前へ伸ばしたまま、足置きの上に固定された。
補助員が咳の紙と水袋を背の袋へ入れる。
エリオットの左手には、俺の予定帳があった。
表紙の下側が濡れ、角へ乾いた泥がついている。
「どこにあった」
「搬送布を畳んだら、下から出てきた。落としただろ」
受け取って開く。何枚かは水分を含んで波打ち、煙と土の匂いが残っていた。
文字は滲んでいない。
最後に書いたのは、郊外実習へ出る前の持ち物と集合時刻だった。
その次の頁は空いている。
「乾かそうとしたけど、勝手に開くと怒るかと思って、そのままにした」
「開いていい。濡れた頁は重ねない方がいい」
「じゃあ、食堂で立てる」
エリオットは帳面を俺の膝へ置き、車椅子を押した。
廊下を曲がる時、俺は右の車輪へ手を伸ばした。
「曲がる方向は見えている」
「知ってる」
「なら、俺が――」
「押す役を取るなよ」
手を戻す。
エリオットはいつもの速さではなく、床の継ぎ目ごとに車輪を少し斜めへ入れた。
右脚へ振動が伝わらない。
治療室から食堂までは、東棟の渡り廊下を通れば階段がない。
遠回りになるが、エリオットは近い方角を見なかった。
「食事は残っているのか」
「ある」
「この時間なら片づけが始まってる」
「だから残した」
それ以上は説明しなかった。
食堂の窓際には、5つの席があった。
4人用の卓へ足した椅子は、脚の下に折った紙片が挟まったままだ。
誰も座っていない。
俺の席だった。
卓にはエリオット、ルシアス、ローディ、アステラがいる。
4人とも食事を半分ほど終えていた。
俺の席の前には伏せた椀が置かれ、その横に布をかけた皿がある。
「来た」
ルシアスが言った。
「咳は?」
「治療室を出てからは出ていない」
「なら、温かい方でいいね」
ルシアスは伏せていた椀を起こした。中には湯気の残るスープがある。
冷えないよう、大きな椀へ湯を張り、その中に食事用の椀を置いていた。
ローディが皿の布を外す。パンと、薄く切った肉と、火を通した根菜だった。
「硬い方のパンはエリオットが食った」
「喉に引っかかるかもしれないからだよ」
「俺はどちらでも食べられる」
「今日はこっち」
エリオットは車椅子を脚の高さが違う椅子の横へ入れた。
椅子はどけず、背へ俺の上着を掛ける。
いつもの席は空けたまま、その前へ俺が入った。
アステラの横には、実習の共有票が広げられている。
四隅を小さな杯で押さえ、濡れた面を上へ向けて乾かしていた。
表と裏を分けるため、途中から2枚に切られている。
「紙は残ったのか」
俺は聞いた。
「全部ではないわ」
アステラが杯を1つ動かした。
「煙の中で濡れた部分は、ノエラと読めるうちに別紙へ写した。これは原本。現在の欄と、裏の未確認を分けて乾かしている」
「誰が持って帰った」
「私。途中は補助員。水場からはノエラ」
「左道の記録は?」
「エリオットが地面を確かめた方法、ノエラが古い言葉と分けた範囲、ローディが音で残した位置まで書いた。レイナの状態確認とカシアの人数もある」
「ルシアスの風は?」
「使った場所と、使わなかった場所を分けたよ」
ルシアスが答える。
「大きい風の後に右腕が震えたことも書いた。僕が書く前にレイナが追加したけど」
「レオンの負傷後は、見えた事実だけ」
アステラが紙の端を示した。
『レオン――右脚負傷後、全体位置は未確認。次の一歩、煙、地面、見えた範囲を共有』
俺が全体をつなげられなかった時間が、空欄ではなく残っている。
その下には、ほかの名前が続いていた。
「報告は終わったのに、なぜここへ持ってきた」
「明日、事件記録を作るから」
「教員が作るんじゃないのか」
「教員は教員の記録を作る。私たちは実習記録を提出する」
アステラは紙の横へ、新しい紙を置いた。
上には『明日』とある。
1行目は、朝の治療室。レオン、荷重と呼吸の再確認。
2行目は、午前の記録室。アステラ、ノエラ、カシア、レイナ。
共有票と負傷記録の照合。
3行目は、昼前の教室。エリオット、ルシアス、ローディ。
剣、風、盾の使用箇所と停止条件の確認。
4行目には、全員と書かれていた。
『確認できた事実、判断、結果、未確認を分けて提出』
「俺は治療室だけか」
「朝の確認が終わるまで、それだけ」
アステラが答える。
「治療担当が移動を許可したら記録室。許可しなければ、私たちがここか寮へ聞きに行く」
「全体の記録は、俺がいた方が早い」
「いた方が増える事実はあるわ」
「でも、いなくても作れる」
俺が言うと、4人はすぐには返さなかった。
食堂の片づけを知らせる小さな鐘が鳴る。
別の卓から生徒が立ち、盆を返却口へ運び始めた。
ローディは残っていたパンを半分に割った。
「作れる」
片方を自分の皿へ置き、もう片方を俺の前へ置く。
「今日の最初の報告も作った。お前が治療室にいる間に、紙も乾かした。明日の分担も決めた」
「なら――」
「でも、お前が見たところは俺たちには書けない」
エリオットが言った。
「魔物が何歩先だったかだけじゃない。全体が分からなくなった時、何を分からないって言ったかもだ」
「それがなくても、提出はできる」
「提出できるかどうかの話じゃないよ」
ルシアスは空になった水杯を回した。
「明日の記録に、レオンの欄がある。それだけ」
役割が足りないから呼ばれるのではない。
俺にしかできない答えが必要だからでもない。
全員の欄の中に、俺の欄が残っている。
アステラは明日の紙を俺へ寄せた。
「予定に変更はある?」
いつもなら、記録室へ行く前に共有票の順番を決める。
先に全員の証言を集め、時間と位置を並べ、衝突した箇所を確認する。
朝の治療室を最短で終える方法も考えられる。
だが、荷重と呼吸を決めるのは治療担当だ。記録室へ行けるかは、その後に決まる。
「治療室の結果が出るまでは、ない」
「分かった」
アステラは書き足さなかった。
食堂の入口から、カシア、ノエラ、レイナが来た。3人とも食事は終えている。
ノエラは写し終えた紙束を胸へ抱え、レイナは治療室と同じ咳の記録紙を持っていた。
「食べられてる?」
レイナが俺の椀を見る。
「半分。咳は出ていない」
「胸の痛みは?」
「ない」
「深く吸う確認は食後。今は普通に食べて」
「分かった」
ノエラは乾かしている共有票の裏へ、自分の紙を重ねず並べた。
「古い地図にあった左道の名前、学園の資料室でも確認することになった。明日じゃなくて、実習記録を出した後」
「俺も行く」
「脚の確認が終わってからね」
「資料を見るのに脚は使わない」
「資料室まで行くのに使う」
カシアが俺の予定帳を開き、濡れた頁の間へ乾いた紙片を挟んだ。
「これは今夜、机に立てておく。閉じたら乾かない」
「自分でできる」
「できるね」
カシアは手を止めなかった。
「でも、私が拾ったから、乾かすところまでやる」
「拾ったのはエリオットじゃないのか」
「見つけたのが私。持ってきたのがエリオット」
2人の役割が分かれていた。
帳面の最後の頁まで紙片を挟むと、カシアは俺の前へ戻した。
「明日の予定、書かないの?」
「もう紙にある」
「自分の帳面には?」
空いていた頁を開く。
今朝までなら、走る距離、剣の回数、魔力操作、観察項目を書いた。
その後に授業と、確認する未採用案を並べる。
明日は走らない。右脚を使えるかも、まだ俺の判断では決められない。
俺は最初の行へ『治療室――荷重、呼吸の確認』と書いた。
次の行で手が止まる。
アステラの紙では、記録室と教室に担当が分かれている。
全員が揃う時間は、確認の結果で変わる。
「記録は、俺が行ける場合と行けない場合を――」
「分けなくていい」
ローディが言った。
「来られたら来る。来られなければ聞きに行く。それで決まってる」
「時間は?」
「昼前。俺たちの確認が終わった後」
「場所は?」
「食堂か、寮の1階。レイナが決める」
俺の予定帳へ先に置ける答えは少なかった。
『昼前――記録を合わせる。場所は身体の確認後』
そう書いた。
名前も足す。
エリオット。ルシアス。ローディ。アステラ。カシア。ノエラ。レイナ。
俺を含めて8人だった。
「明日の朝食は?」
俺は聞いた。
「いつもの時間」
エリオットが答える。
「治療室が先なら、戻ってからになる」
「その場合、先に食べていい」
「うん」
エリオットは頷いた。
「でも、お前の分は残す」
理由を聞こうとして、やめた。
必要な人数は、俺がいなくても揃う。
紙も進む。道も決まる。食事も始められる。
それでも、椅子はどけられていなかった。
食事は冷えないように残り、濡れた帳面は拾われ、明日の紙には俺の欄があった。
俺が役に立てない時間と、俺がいなくてよいことは、同じではなかった。
スープを飲む。
煙で傷んだ喉に少し熱かった。咳は出ない。
「明日、俺が記録室へ行けなかったら」
俺は言った。
「見た事実をここで話す」
「聞きに来る」
アステラが答えた。
「右脚は使わない」
レイナ。
「帳面は閉じない」
カシア。
「朝食は残す」
エリオット。
ルシアスが共有票の端へ新しい杯を置き、ローディが濡れた裏面を返す。
明日の紙は、卓の中央に残った。
俺は予定帳を閉じず、その横へ置いた。
食事は残さなかった。水も、治療担当から決められた量を飲んだ。
寮の1階へ戻ってからも、固定具には触れない。
魔力操作も、座ったままできる上半身の訓練もしなかった。
何もしない時間を、以前なら失った訓練時間として数えた。
今は違う。
治療を受ける。食べる。水を飲む。眠る。傷ついた場所を使わない。
治すために必要なものを揃えることも、俺が続ける努力だ。
寝台へ身体を預けると、腫れた足首の奥がゆっくり熱を持った。
さっきまでの痛みとは違う。
傷ついた場所へ、食べたものと休息が集まっていくような熱だった。
超回復が働いている。
この能力は、動き続けるためのものではない。
休み、治療を受け、身体が修復する時に、その効率を上げる。
だからこそ、動かさない。
治り始めたものを、自分で壊し直さないために、俺は目を閉じた。
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