見えない三歩
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それでは、どうぞお楽しみください。
煙は、歩く速さより少しだけ速かった。
白布の手前まで下りた灰色の筋が、窪みの底の石を順に隠していく。
濃さは膝より下だが、鞍部側から来る白い煙と右の草の間から入る煙が重なれば、足元だけでは済まない。
「先行6人は白布を越えた!」
ノエラの声は近い。それでも姿は煙の向こうで途切れていた。
「補助員が平らな道へ出してる。最後の1人があと3歩!」
俺は見えた位置を頭の中へ置く。
先行6人は白布の先。担架は窪みの底。
担架の前にアステラと隣の班の生徒、後ろにカシアともう1人。
右脚をレイナが支えている。歩ける生徒2人は担架の後ろ。
俺たち4人はさらに後ろだ。
15人。
位置はまだつながっている。
「カシア、担架から白布まで11歩。前は空いてる」
「確認した。持ち手は止めない」
カシアは俺の答えを待たずに歩幅を決めた。
「前2人、中央。後ろ2人は同じ足跡。レイナ、右脚は?」
「固定は動いてない。包帯の外へ血も出てない」
負傷した生徒は担架の上で咳をした。1回。次に2回。
「息を吸いすぎないで。口元を布で覆う」
レイナが水で濡らした布を顔へ当てる。
「苦しくなったら手を2回握って。声が出なくても分かるようにする」
生徒の左手がレイナの指を1回握った。
返事はできている。
俺も袖で口を覆った。煙の匂いはさっきより濃い。
息を浅くすると胸の奥の痛みは減るが、歩きながら周囲を見るたびに呼吸が足りなくなる。
「ルシアス、小さい風は?」
アステラが担架の前から聞いた。
「出せる。でも、前へ送れば白布の先へ煙を運ぶ」
ルシアスは両手を開かない。
「上へ持ち上げるだけなら短くできる。長くは保てない」
「今は使わない。前の道が見えなくなった時に聞く」
出せるから出すのではない。アステラは使う条件だけを残した。
背後で石が鳴った。
エリオットが振り返る。煙に隠れた入口はもう見えない。
リッジハウンドの姿もない。
「上から下りた音?」
「分からない」
俺は最後に見た2体の位置を置き直した。入口の左右。
俺たちが下りたあと、カレンは追わせないと言った。
だが、煙の向こうで止まっているか、窪みの縁を回っているかは見ていない。
「最後に見たのは入口の上。今の位置は未確認」
「なら、後ろを空けすぎない」
エリオットが決めた。
「僕は最後尾。ローディはレオンの前に入って」
「盾は横にすると道を塞ぐ」
ローディは大盾を身体の右へ立てた。
「縦のまま行く。何か来たら止める場所は俺が決める」
2人は俺へ配置を戻さなかった。
「分かった。後ろの音は俺が伝える」
そう答えた時、また石が鳴った。
今度は1つではない。細かな砂利が斜面を落ち、煙の中で乾いた音を続ける。
「右上、砂利。近づいてる」
俺は音の間隔を数えた。
最初の音から2歩分。次は4歩。落ちた石が底へ届くまでが短くなっている。
魔物が斜面を下りているなら、石だけでは終わらない。
「エリオット、右上を――」
言葉の途中で咳が出た。
1回で止めようとして、もう1回続く。
口元を覆った袖の内側に、乾いた苦さが残った。
「レオン、返事」
カシアの声が前から来る。
「できる。右上から砂利。距離は見えない」
「見えないなら見ようと上がらないで。そのまま前へ」
足を止めて斜面へ寄る案を、言う前に外された。
俺たちは担架との間を縮めた。近づきすぎれば、前が止まった時にぶつかる。
離れれば、煙で人の位置が切れる。
「担架の後ろまで6歩」
俺は見える靴を数える。
歩ける生徒2人の背中は見える。
その先の担架は、持ち手の肩だけが煙の上へ出ていた。
白布は見えない。
「ノエラ!」
アステラが呼ぶ。
「いる!」
返事は左前から来た。
「白布の先は?」
「平ら! でも右から煙が横切ってる。補助員が6人をさらに北へ動かした!」
「担架を通せる幅は?」
「今はある。左へ2歩寄れば煙が薄い!」
古い地図を持つノエラが、道の名前ではなく今見えている幅を返した。
「担架、左へ2歩。急に曲げない」
アステラが判断する。
「前側から半歩ずつ。カシア、後ろは同じ線へ」
「分かった。後ろ右、先に半歩」
担架が左へ向きを変える。レイナは負傷者の右脚と一緒に外側へ回った。
その時、担架の後ろにいた生徒の1人が足を止めた。
「見えない」
声が震えている。
「前の人が見えない。どっちだ」
煙は腰の高さまで上がっていた。2歩先の背中は見えるが、足元は消えている。
俺はその生徒の右肩へ手を置いた。
「前は左へ半歩。地面は平ら。俺の手が離れたら止まって」
「レオン、引かないで」
カシアが言う。
「歩けるなら本人に足を置かせる。方向だけ渡して」
俺は肩を引かず、左側を指で2回叩いた。
生徒が自分で左足を出す。靴底が平らな石へ乗った。
「置けた」
「次は前。1歩」
もう1人が前から声を返した。
「こっちだ。俺の背中に手が届く」
2人の間がつながる。
俺は手を離した。
「進める」
その生徒は自分で言い、前の背中へ触れた。
俺が引かなくても歩いた。
右上の砂利が止んだ。
止まったことは、安全になったことではない。
「音が止まった。位置は未確認」
俺が伝えると、エリオットが剣を抜いた。煙の中で刃を振らず、身体の横へ立てる。
「後ろ3歩まで来たら言って」
「見えない」
「音で分かる範囲は?」
俺は息を止めた。
担架の持ち手の足音。盾の金具。歩ける生徒の咳。窪みの上を風が通る音。
その間に、低く土を掻く音がある。
右後ろ。
近い。
「右後ろ。5歩より近いかもしれない」
確かな数ではない。
「ローディ、右を残せる?」
エリオットが聞く。
「前の2人があと3歩進めば盾を置ける。今は狭い」
「なら、僕は音だけ止める」
エリオットは前へ戻らなかった。
剣の石突きではなく、柄の端で左の岩壁を1回叩く。硬い音が窪みに響いた。
土を掻く音が止まる。
次に、斜面の上へ移った。
「上へ戻った」
「見えた?」
「見えてない。音が上へ動いた」
エリオットは頷き、剣を同じ位置へ残した。
「それでいい」
見えない位置を、見えたことにはしなかった。
前方からノエラの咳が聞こえた。
「白布、ここ! 担架の前が越えた!」
煙の中に白い布の端が浮いた。
地面へ結ばれていたはずの布が風で外れ、ノエラの手に握られている。
「目印が外れたの?」
アステラが聞く。
「右側の結び目だけ。左は残ってる。でも煙で見えないから、私が持つ」
「その位置から動かないで。担架の後ろが越えたら一緒に進む」
ノエラは返事の代わりに白布を2回振った。
担架の前側が平らな道へ上がる。
窪みの底と白布の先には、石1つ分の段差があった。
「前を上げる。足側は待って」
レイナが言う。
アステラと隣の生徒が持ち手を高くする。後ろのカシアたちはまだ底にいる。
担架が斜めになり、負傷者の身体が足側へずれかけた。
「止めて」
レイナの声で4人が止まる。
「右脚が添え木の外へ寄った。戻すまで上げない」
煙は止まらない。
負傷者が強く咳き込んだ。口元の布を押さえた左手が、レイナの指を2回握る。
「息が苦しい?」
もう一度、2回。
「話さなくていい。頭側を少し上げたまま、顔を左へ」
レイナは固定具と呼吸を同時に見ている。進めるかどうかを急がなかった。
「後ろ、詰まる!」
ローディが言う。
担架の後ろにいた2人が止まり、俺たちも止まった。
最後尾のエリオットまで、間隔が1歩ずつしかない。
右上から、また土を掻く音がした。
「魔物が下りる」
「盾を置く場所がない」
ローディは前の生徒と俺の間を見た。
「前2人、白布まで行けるか?」
「行ける」
カシアが答えた。
「担架の右を追い越さず、左から白布へ。ノエラの声を使って」
歩ける2人が動く。
さっき見えないと言った生徒は、前の背中へ触れたまま左へ進んだ。
「1人、白布を越えた!」
ノエラが数える。
「2人!」
道に3歩分の空きができた。
「ここで止める」
ローディは大盾を右の斜面へ向けた。
底へ置けば道を塞ぐため、下端を石へ当てず、肩と両腕で縦に支える。
「レオンとルシアスは担架へ。エリオットは俺の左」
判断はローディから出た。
俺は前へ進んだ。
担架の後ろ右を持つ生徒の膝が震えている。
ここまで負傷者を運び、煙の中で段差を待っていた。呼吸も速い。
「持ち手を替える?」
俺が聞くと、カシアがその生徒の顔を見た。
「替える。レオン、後ろ右。持てる?」
「持てる」
「ルシアスは持たない。前の煙を短く上げられるように残す」
「分かった」
ルシアスは担架の左前へ進み、ノエラの白布と煙を見る。
俺は生徒の手の下へ腕を入れた。
「3つ数える。1、2、3」
重さが移る。
担架を持つことだけなら難しくない。
負傷者の身体、添え木、厚布を合わせても、俺の腕力なら支えられる。
だが、今は右上の音が見えない。後ろのエリオットとローディも煙に消えた。
前にいるノエラの白布、左のルシアス、担架の傾き、足元の段差を同時に見ると、頭の中の位置が少しずつずれた。
「レオン、持ち手の高さ」
カシアに言われ、俺は右腕を下げた。
担架の後ろが水平へ戻る。
「今のでいい。全体は私が数える」
「分かった」
見える範囲を減らす。
そう決めたのに、背後で盾が鳴ると振り返ってしまった。
1回。
煙の向こうに灰褐色の影が見えた。
ローディの盾の上へ前脚をかけ、身体を横へ向けている。エリオットの剣はその左。
2人の位置は分かる。
もう1体は見えない。
「1体、盾の右。もう1体は――」
咳が言葉を切った。
胸が縮み、担架の持ち手が一瞬下がる。
「高さ!」
カシアの声で腕を戻す。
負傷者の右脚が揺れた。レイナが添え木を押さえる。
「レオン、後ろを見ないで。今は持ち手」
「でも、もう1体が」
「エリオットとローディが見てる」
レイナは俺を見ず、負傷者の足を見たまま言った。
「あなたが見なくても、いなくならない。でも、この持ち手は今あなた」
俺は前を向いた。
担架の段差を越える。
前側が平らな道へ完全に上がった。
「後ろ、次」
レイナの声に合わせ、カシアが左足を出す。
靴底が地面へ着くより先に、その下の土が崩れた。
「カシア!」
後ろ左の持ち手が沈む。
カシアの身体が段差側へ傾き、担架の足側も一緒に落ちた。
固定された負傷者の右脚が、外側の石へ近づく。
持ち手を離せば、俺は崩れた土から退ける。
だが、右側まで離せば、担架の後ろを支える者がいなくなる。
俺は右足を、崩れた斜面へ踏み込んだ。
「前へ引いて!」
両腕で持ち手を押し上げ、右肩をカシアの背へ当てる。
アステラと前の生徒が担架を引いた。
カシアも左手を段差へつき、持ち手を離さなかった。
担架が水平へ戻る。
負傷者の身体は段差の上へ残った。カシアの左足も、平らな石へ戻る。
その瞬間、右足の下で土がもう一度崩れた。
担架とカシアの重さを受けたまま、足首が内側へ折れる。
外くるぶしの前で、何かが強く引き延ばされた。
脚を引こうとしたが、膝の外側が石へぶつかった。
鈍い音が身体の中で鳴る。
痛みは耐えられる。
だが、担架から手を離したあとも、右脚は身体を押し戻さなかった。
担架が白布の先へ移り、別の生徒と補助員が持ち手を受け取る。
俺は空いた両手で段差の縁を掴み、右脚を引き上げた。
足を地面へ置く。外くるぶしの前が鋭く痛んだ。
それでも立とうと体重を移すと、足首は身体の下でまた内側へ崩れた。
「止まって」
レイナが言う。
「担架じゃない。レオン」
「歩ける」
俺は立った。
右足へ体重を乗せると、外くるぶしの前が鋭く痛み、足首が内側へ逃げる。
それでも膝は曲がる。骨が大きく崩れた感覚もない。
「白布を越えれば平らだ。先に負傷者を――」
「担架はもう補助員が受け取った」
カシアが俺の腕を取らず、前を指した。
煙の向こうで、担架は北へ進んでいる。レイナもその右についていると思っていた。
だが、目の前にレイナがいた。
俺の右膝を見ている。
位置を1つ、間違えた。
「右脚。どこを打った?」
「膝の外。足首は外くるぶしの前。カシアと担架は?」
「戻った。負傷者の固定も変わってない」
カシアが自分の左足で立ち、担架が進んでいる方を示した。
「私を支えたの?」
「担架が落ちる位置にいた。カシアもいた。だから両方」
「もう持ち手は替わったよ。次はレオンの脚」
「立てる」
「痛みは?」
「体重をかけるとある。動かさなければ弱い」
「痺れは?」
「ない」
レイナが俺の靴と膝へ触れる前に、背後で盾が2回鳴った。
続けてエリオットの声。
「ローディ、下がる! 左は空いてる!」
俺は立ち上がろうとした。
右脚に力が入らず、段差へ膝をつく。
「後ろ2人まで何歩?」
聞いたのに、返事がすぐには頭へ入らなかった。
ローディの声。ノエラの声。カシアが数える声。負傷者の咳。
煙の中で全部が近く聞こえる。
「レオン」
カシアが正面から呼んだ。
「私を見て。ここにいるのは誰?」
「カシア。レイナ。後ろにエリオットとローディ。ルシアスは白布の――」
白布の左にいたはずだ。
だが、煙の中からルシアスが俺の右へ出てきた。
「ここ」
短い声と一緒に、弱い風が足元を通った。
煙が膝の高さだけ持ち上がる。白布の左端、段差、カシアの靴、俺の右足が見えた。
「大きい風じゃない。ここだけ」
ルシアスは息を切らしながら言う。
「方向は僕が見た。止める時も僕が止める」
俺は頷こうとして、咳き込んだ。
1回では止まらない。吸うたびに胸の奥が狭くなり、次の咳が出る。
見えている4人の位置が、咳のたびに途切れた。
「レオンは歩けない?」
ノエラの声がした。
「まだ決めない」
レイナが答える。
「呼吸と脚を確認する。後ろの2人は?」
「エリオットが先に白布へ来る。ローディは盾で下がってる」
ノエラが見えている範囲を返した。
「魔物は1体。もう1体は未確認」
俺が言おうとした時、カシアが先に伝えた。
「エリオット、見えているのは?」
「盾の前に1体! もう1体は音もない!」
同じ情報が、俺を通らずに届いた。
ローディの盾が煙の中から現れる。
エリオットはその左へ剣を残し、白布の手前まで下がっていた。
俺は2人と、前へ進んだ担架と、右の煙を頭の中でつなごうとした。
担架まで何歩か。
先行6人はどこで止まったか。
補助員は担架を受け取ったあと、誰を前へ送ったか。
1つずつなら聞こえている。
全部を同じ位置へ置こうとすると、咳で途切れた間が埋まらない。
「先行6人は――」
「私が数えた。全員、平らな道の北側」
カシアが言う。
「担架は?」
「ノエラが見てる」
「煙は?」
「ルシアスとアステラ」
「後ろは?」
「エリオットとローディ」
答えが別々の場所から返ってくる。
それでも俺は立とうとした。
右足へ体重を移した瞬間、足首がまた内側へ崩れた。痛みは耐えられる。
それでも、右脚は支えとして働かない。
「立てる。右脚を使わなければ、3歩なら――」
3歩先に何があるのか、見えなかった。
白布の外までか。平らな道までか。担架までか。
俺が数えられる3歩と、今必要な3歩が同じ場所にない。
カシアが俺の前へしゃがんだ。
「今はつながなくていい」
「でも、全員の位置を」
「もう分けた」
煙の向こうで、エリオットがローディへ下がる合図を出した。
ノエラが担架の位置を呼び、アステラが前の道を選び、ルシアスが足元の風を止める。
レイナは俺の右足へ手を添えた。
誰も、俺の次の指示を待っていない。
俺はもう一度、15人を頭の中へ置こうとした。
最初の6人。
担架と後続。
最後の4人。
数は合っている。
だが、誰がどこにいるかを同時には保てなかった。
煙で見えない3歩が、頭の中にも残った。
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