二回鳴るまで
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それでは、どうぞお楽しみください。
風が、鞍部の上を斜めに切った。
ルシアスの両手から放たれた空気は、煙を正面から押し返さなかった。
窪みの縁に沿って南東へ流れ、入口の上へ沈みかけていた白い層だけを持ち上げる。
砂と枯れ葉が低く跳ねた。
担架の前を持つアステラが顔を伏せ、後ろのカシアは足を止めない。
レイナは負傷者の右脚へ身体を寄せ、厚布と添え木が風でずれないよう両腕で押さえた。
「入口、見えた!」
窪みの下からノエラの声が返る。
「底にはまだ入ってない。白布までの道も見える!」
ルシアスは風を広げすぎなかった。
入口の右にいるローディの盾、その先を走る1体、南側でエリオットと向き合うもう1体。
その間だけに風の筋を置いている。
俺の頬を通る風は強くない。だが、窪みの縁の草だけが同じ向きへ倒れていた。
「上の1体、進路が変わる。右から南へ」
俺が位置を伝える。
リッジハウンドは風へ鼻先を向けたあと、先行6人の真上を離れた。
匂いを追えなくなったのか、耳を伏せて乾いた草の外側へ下りる。
「担架、あと2歩」
カシアが数えた。
先頭の2人はすでに砂利の筋へ入っている。
担架は入口の手前で一度止まり、前側を低くした。
平らな鞍部から傾斜へ移る時に、負傷者の右脚が持ち上がらないようにするためだ。
「頭側、半歩」
レイナが言う。
「足側は待って。今」
4人の高さがずれずに下がる。負傷者は歯を食いしばったが、息は止めなかった。
「揺れは?」
「少し。でも大丈夫」
「大丈夫かどうかは私が見る。痛みが増えたかだけ答えて」
「増えてない」
レイナは頷き、包帯の赤い広がりを見た。
さっき締め直した位置から外へは出ていない。
入口の右で、ローディの盾が鳴った。
一回。
乾いた音ではない。
風を避けて戻ってきたリッジハウンドの肩が、盾の外側へぶつかった音だ。
ルシアスは風を止めない。止める合図は二回だ。
ローディは盾の左に残した幅を狭めず、右足をさらに土へ沈めた。
魔物を押し返すのではなく、窪みの外側へ向く角度を保っている。
「一回! まだ続けろ!」
声が届く前から、ルシアスの風は同じ方向に出ていた。
担架の前側が砂利へ入った。アステラの靴の下で小石が動く。
彼女は足を置き直さず、後ろのカシアへ言った。
「右の砂利が動く。次は中央を踏む」
「分かった。後ろ2人、アステラの足跡へ合わせて」
カシアが自分で確かめて伝える。俺からは担架の傾きしか見えない。
砂利の深さまでは分からなかった。
「南の1体、エリオットまで5歩」
俺は見える位置だけを続ける。
エリオットは剣の腹を正面へ向けたまま、入口へ近づかなかった。
剣先で魔物の顔を追えば、その後ろにいる人の道まで狭くなる。
左足を軸にして、南へ抜ける線だけを塞いでいる。
リッジハウンドが低く跳んだ。
エリオットは斬らず、剣の鍔に近い部分で前脚を受けた。
腕だけで止めず、身体を半歩下げて勢いを流す。
魔物の爪が土を削り、火床の石囲いの手前へ着いた。
「僕の右は空けてる! 歩ける人は入口へ!」
残っていた生徒が2人、エリオットの背後を通った。片方は息が速い。
もう片方が腕を引かず、背中へ手を当てて歩幅を合わせている。
カシアが振り返った。
「走らなくていい。前の担架を越えないで」
2人は砂利の手前で間隔を空けた。
風に持ち上げられた煙の向こうで、赤い光が一度だけ見えた。
火だ。
第1退路の黄色い杭より右。乾いた草の根元を低く進んでいる。
大きな炎ではないが、風を受けた先の草が順に倒れ、その隙間へ赤い線が伸びた。
「火の端が見えた。黄色い杭の右、鞍部から18歩くらい」
俺が言うと、アステラは担架を持ったまま顔を上げた。
「風の先?」
「少し左。今は重なってない。でも、草が倒れた先へ移れば重なる」
ルシアスには火が見えていない。
前にローディの盾があり、その外を魔物が動いている。
「ルシアス、火は風の先より左!」
「方向を変える?」
聞き返した声が揺れた。魔力が足りないのではない。
見えない場所を自分だけで変えてよいか確かめている。
アステラは答えを決めなかった。
「ローディ、入口はあと何人?」
「担架の後ろに2人。こっちは4人残る!」
俺、エリオット、ルシアス、ローディ。
「カシア、担架は?」
「止めずに下ろせる。底まで12歩!」
「レイナ、負傷者は?」
「今の速さなら続けられる!」
アステラは4つの返事を聞いた。
「方向は変えない。担架と2人が入口を越えるまで続ける。火が草の倒れた線へ移ったら、盾の音を待たず私が止める」
「分かった」
ルシアスが答えた。
止める者を一人増やしたのではない。
ローディが見ている入口と、アステラが見ている火を分けた。
俺は赤い線を追った。
煙で消えるたび、最後に見えた場所と風に倒れた草を頭の中でつなぐ。
戦域把握で分かるのは、見た位置と動きの続きだけだ。
土の陰の火までは見えない。
「火、まだ左。見えない場所が3歩分ある」
分からない範囲も一緒に伝える。
「レオン、上の1体は?」
ローディが聞いた。
「盾の右後ろ6歩。縁へ上がり直す」
「左は通せるか?」
「今は通せる。次に走れば分からない」
ローディは盾を前へ出さなかった。
「なら、後ろの2人を先に通す!」
砂利の手前にいた2人が、盾の左を抜ける。
先頭は中央の踏み跡へ靴を置き、後ろの生徒も同じ場所へ続いた。
リッジハウンドが縁から飛び下りた。
ローディの盾ではなく、通り過ぎた2人の背中へ頭を向ける。
俺が水を出せば、前脚の着く位置はずらせる。だが、水を避けた先が入口になる。
「エリオット、右の1体が列を見る!」
「僕が行く!」
エリオットは南の1体へ剣を残したまま動かなかった。
「いや、行けばこっちが空く。ローディ!」
「見えてる!」
ローディは盾を振らず、上端を少しだけ右へ倒した。
飛び下りた魔物の視界に広い面が入り、2人の背中が隠れる。
魔物は着地の直前に前脚をひねった。
爪が盾の表面を滑り、上端と金具へ続けて当たる。
一回目。
二回目。
ローディは声を出さなかった。
ルシアスが両手を閉じた。
風が途切れる。
倒れていた草が起き上がり、持ち上げられていた煙が形を失った。
白い層はすぐには落ちず、鞍部の上で薄く広がる。
「止めた!」
ルシアスは1歩下がった。腕を下ろしたまま、呼吸を2回整える。
「もう同じ量は出せない。小さい風なら出せる」
出せないことを隠さなかった。
「大きいのは終わりでいい」
アステラが答えた。
「今の風で担架と2人は入った。次は残った4人を動かす」
担架は窪みの中腹まで下りている。
前側のアステラと隣の生徒が中央の砂利を踏み、後ろのカシアたちも同じ線を通っていた。
レイナは右脚を支えながら、呼吸と包帯を交互に見ている。
ノエラが下から声を上げた。
「白布の先に補助員がいる! 先行6人を北西へ動かすって!」
「底の煙は?」
「まだない。でも上が白くなった!」
風を止めたあと、煙は第2退路の上へ戻り始めている。
「先行を止めないで。白布まで進める」
カシアが判断した。
「担架はその後ろ。歩ける人は担架を越えない。残る4人は?」
俺は入口の左右を見た。
ローディの盾の右に1体。エリオットの前に1体。
ルシアスは大きな風のあとで、すぐには走れない。
俺が最後に残れば、3人の位置と煙を見られる。
そう考えた時、エリオットが先に言った。
「ルシアスが先。レオンも一緒に入って」
「俺は最後で――」
「最後から見えるのは後ろだけだ」
エリオットは魔物から目を外さない。
「窪みに入った人と煙をつなぐなら、上からじゃなく途中にいてくれ」
ローディも盾越しに続けた。
「最後は俺とエリオットで閉じる。入口を通す順番は俺が見る」
俺なら、最後まで鞍部へ残る配置を考えていた。
2体の位置を最も長く見られるからだ。
だが、窪みの底へ煙が入ったかどうかは、鞍部からではノエラの声に頼る。
担架の前後と先行6人の間も見えなくなる。
俺が見られる範囲を広くすることと、全員に必要な場所へいることは同じではない。
「分かった。ルシアスと入る」
「入口を越えたら右へ寄るな」
ローディが言う。
「砂利が動いてる。中央から左だ」
判断理由も一緒に渡された。
ルシアスが先に動く。俺はその半歩後ろにつき、入口を通りながら窪みの底を見た。
先行6人は白布へ向かい、担架は中腹。歩ける生徒たちは間隔を空けて続いている。
白い煙はまだ頭上にある。
「底は使える。担架の先、8歩空いてる」
俺は下へ伝えた。
「ノエラ、先行の最後は白布まで何歩?」
「5歩! 補助員が受け取れる!」
「カシア、担架の前は8歩。後ろの2人まで詰まってない」
「確認した。そのまま下ろす」
俺の答えを待たず、カシアは担架の速さを決めた。
背後で剣と爪が触れた。
振り返ると、エリオットが入口へ下がりながら南の1体を剣の外側へ流していた。
ローディは盾を斜めにし、もう1体の頭を窪みと反対へ向けている。
2人の間の幅はもう人1人分もない。
「エリオット、先に入れ!」
ローディが言った。
「盾が下がったら僕が入る!」
「同時だと狭い!」
「だから先に剣を引く!」
エリオットは自分の右側へ短く踏み込み、リッジハウンドの鼻先へ剣の腹を見せた。
魔物が一瞬止まった間に、剣先を下げて入口へ身体を滑らせる。
ローディは盾を正面へ残した。
エリオットが砂利へ入ったのを見てから、左足を後ろへ引く。
魔物が盾を押した。
ローディの靴が土を削り、踵が入口の縁へかかる。
盾を捨てれば先に下りられる。だが、捨てた盾は砂利の筋を塞ぐ。
「盾の下、石が1つ!」
俺から見えたのは、左下端に挟まった拳ほどの石だった。
ローディ自身からは盾で見えない。
「左下。半歩外へ出せる!」
「押すな!」
ローディの答えが返る。
俺は水を出さなかった。
ローディは右腕を縮め、盾の上端を魔物へ預けたまま、下端だけを左へ滑らせる。
石が外れ、砂利の筋へ落ちる前にエリオットが足で横へ弾いた。
「下がれる!」
盾の角度が変わり、リッジハウンドの力が窪みの外へ抜けた。
ローディは盾を身体の横へ立て、入口へ後ろ向きに入る。
エリオットが剣で魔物との間を残す。
倒しに戻らず、ローディの足が砂利へ乗るまで待った。
「今!」
2人が同時に下がる。
リッジハウンドは入口の縁まで来たが、崩れた砂利へ前脚を置かずに止まった。
もう1体も隣へ並ばない。
狭い場所へ身体を重ねず、左右へ分かれて上からこちらを見ている。
「全員、入口を越えた!」
俺は下へ声を送った。
カシアが人数を数える。
「先行6人、担架と後続、残り4人。15人いる!」
ノエラも白布側から返した。
「先行6人、補助員へ渡した! 北西の道は歩ける!」
鞍部の上で、笛が2回鳴った。
カレンの合図だった。短く2回。全員の位置を維持し、教員へ情報を渡す合図。
煙の向こうからカレンの声が届く。
「南側の4人は別の教員が確保しました! こちらの2体は追いません。そのまま北西へ移動してください!」
分からなかった4人の状態が、初めて確認できた。
アステラは担架を持ったまま、胸元の紙を出せない。
代わりに言葉で現在を更新した。
「南側4人は教員が確保。こちら15人は全員、第2退路内。先行6人は白布。担架は中腹。魔物2体は入口上。北西へ移動」
「未確認は?」
ノエラが聞く。
「火の広がりと、煙が底へ入る時刻」
「分かった。白布の先で記録する」
現在と未確認が、紙を開けない間も分かれた。
俺たちは北西へ進み始めた。先行6人が白布を越え、補助員のいる平らな道へ出る。
担架は砂利の底へ着き、カシアたちが一度だけ高さを揃え直した。
ルシアスは俺の隣で両腕を下げたまま歩いている。
息は速いが、足取りは崩れていない。
「大きい風、途中で止めてよかった?」
「担架も2人も通った。火へは重ならなかった」
俺が答えると、ルシアスは首を横へ振った。
「結果じゃなくて、方向を僕が決めたこと」
俺は鞍部を見上げた。
煙で入口の輪郭が薄くなり、ローディとエリオットが最後に下りた場所も見えにくい。
「俺なら、もっと火の端が見えるまで待った」
「待ったら担架が入口で止まった」
「うん」
完全には分からないまま、ルシアスが方向を決めた。
ローディが入口を見て止め、アステラが火を見て別の停止を持った。
俺は位置を伝えたが、風の向きも止める時も決めていない。
それでも、15人は入口を越えた。
「よかった」
口にすると、ルシアスが短く息を吐いた。
「次も同じ向きにはしないよ」
「条件が違うから?」
「僕がもう同じ量を出せないから」
できた方法を、そのまま次の答えにはしなかった。
窪みの底を冷たい空気が流れた。
さっきの風の残りではない。
北西から入る弱い風が、白布の方から鞍部へ向かっている。
頭上の煙が一度持ち上がり、次に低く沈んだ。
「煙、下がる!」
ノエラの声が白布側から届く。
白い筋が窪みの縁を越え、底の石へ触れた。
第2退路を使わないと決めた条件が、全員が入ったあとで満たされた。
「前は白布を越えてる。担架は底。最後尾は入口から7歩」
俺は見える位置をつないだ。
煙は1か所ではない。
鞍部側から下りる白い層とは別に、窪みの右の草の間から細い灰色が入っている。
火の位置が、さっき見た線から変わっていた。
「右からも煙が入る」
アステラが担架の前で足を止めずに言う。
「戻れない。前へ出る」
カシアは人数を数え直した。
「歩ける人を白布の先へ。担架の前を空ける。最後尾4人は間隔を詰めすぎない」
レイナが負傷者の顔へ手を当てた。
「息はできる?」
「できる。でも、煙の匂いがする」
俺も吸い込んだ空気の奥に、乾いた苦さを感じた。
入口を通すための判断は終わった。
だが、退路の中へ入った全員を、煙より先に白布の外へ出す判断が残っていた。
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