死にたくない
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それでは、どうぞお楽しみください。
魔物が地面を蹴った。
後脚で土を抉り、黒い巨体が一気に迫ってくる。
速い。
正面から受けるのは無理だ。
俺は剣を身体の前に残したまま、右斜め後ろへ跳んだ。
魔物の頭が左脇を通過する。
額の角。
あれを正面から受けたら終わる。
避けた。
そう思った瞬間、視界の端で黒いものが動いた。
「ぐっ!」
後脚だった。
俺の横を通り過ぎながら、魔物が身体を捻っている。その勢いで跳ね上がった左後脚が脇腹に当たった。
身体が横へ飛ぶ。
二メートルほど先の木に背中からぶつかった。
「かっ……!」
肺から空気が抜ける。
剣を落としそうになる。
駄目だ。
握れ。
両脚を地面につける。
魔物はすでに方向を変えていた。
黒い毛。
額から伸びる一本の角。
太い四本の脚。
体長は二メートルを超えている。
肩の高さだけでも俺の胸くらいある。
速さも。
力も。
俺より遥かに上。
勝てない。
頭に浮かんだ。
違う。
考えろ。
勝てないなら、勝つことを考えるな。
まず生き残れ。
◇
魔物はすぐには来なかった。
十メートルほど先で、ゆっくり俺の左側へ回っている。
俺も木を背にしたまま向きを変える。
背後を取らせない。
剣を両手で握る。
観察する。
右前脚。
左前脚。
視線。
肩。
呼吸。
分からない。
人間と違う。
ゼノなら肩や腰を見れば攻撃の前兆が分かる。
ゴブリンも腕を振り上げれば、何をしてくるかある程度読めた。
でも四足獣は違う。
全身が一度に動く。
何を見ればいい。
魔物が止まった。
次の瞬間。
加速。
「っ!」
今度は早めに動く。
さっき右へ避けた。
だから左へ。
二歩踏み込み、魔物の進路から外れる。
魔物の右前脚が伸びた。
爪が胸の前を通過する。
避けた。
違う。
首がこちらへ向いた。
突進の勢いを残したまま、頭だけを振ってくる。
牙。
「っ!」
上体を後ろへ反らす。
顎が目の前で閉じた。
ガチン、と歯がぶつかる音がした。
近い。
今なら首がある。
俺は反らした身体を戻し、その勢いで右上から剣を振り下ろした。
刃が首筋に当たる。
浅い。
硬い毛を裂き、その下の皮を少し切っただけ。
「グルァァッ!」
魔物が頭を振った。
離れろ。
俺が一歩下がる。
遅かった。
左前脚が横から薙がれた。
剣を振り切った直後で、右側へ重心が寄っている。
避けられない。
左腕を引く。
間に合わない。
三本の爪が前腕を掠めた。
「ぁっ!」
熱い。
次の瞬間、血が流れた。
深くはない。
腕は動く。
剣も握れる。
俺は後ろへ三歩下がった。
魔物も追ってこない。
互いに距離を取る。
駄目だ。
今の攻撃で分かった。
こいつは突進だけじゃない。
前脚。
牙。
角。
さらに通り過ぎれば後脚。
一度近づかれただけで、攻撃が何個も続く。
俺の剣は一回。
向こうはその間に何回も攻撃できる。
まともに付き合ったら削られる。
俺の一撃は浅い。
向こうの一撃は、まともに受ければ致命傷になる。
違いすぎる。
怖い。
逃げたい。
でも、背中を向ければ追いつかれる。
なら。
攻撃の始まりを読むしかない。
◇
魔物が再び俺の周囲を回る。
今度は追わない。
足だけで向きを変える。
見る。
頭じゃない。
脚だけでもない。
身体全体。
さっきの二回を思い出す。
突進する前。
何が動いた。
魔物が止まる。
頭が少し下がった。
違う。
その前。
腰。
後脚。
「……沈んだ」
後脚を曲げ、腰が僅かに落ちる。
そこから地面を蹴っていた。
来る。
魔物が飛び出すより先に、俺は右斜め前へ一歩踏み出した。
真正面から横へ逃げるんじゃない。
すれ違う。
魔物の左前脚が伸びる。
俺はさらに半歩右へ。
爪が左肩の外を通る。
次。
噛みつき。
分かっている。
通り過ぎながら首がこちらへ向く。
俺は後ろへ逃げなかった。
逆に魔物の頭へ半歩踏み込む。
牙が届くより内側。
剣を両手で持ち直す。
振る時間はない。
突く。
狙うのは目。
だが、魔物も頭を振った。
外れた。
剣先が右頬に刺さる。
「ギャァッ!」
手に抵抗。
深くない。
すぐ抜く。
魔物が頭を激しく振る。
俺は剣を引きながら後ろへ跳んだ。
前脚が地面を掻く。
届かない。
今度は離れられた。
「はっ……はっ……」
呼吸が速い。
でも。
分かった。
最初より見える。
腰が沈む。
後脚で蹴る。
前脚。
首。
牙。
通り過ぎた後の後脚。
一つの突進じゃない。
動きが繋がっている。
《観察の習熟度が上昇しました》
魔物が低く唸る。
今度はすぐに飛び込んでこない。
右頬から血が垂れている。
俺を見ながら距離を取った。
初めて。
ほんの少しだけ。
俺を獲物ではなく、傷をつけてくる敵として見た。
◇
そこから戦い方を変えた。
倒そうとしない。
まず避ける。
腰が沈む。
右へ。
前脚をかわす。
首が動く。
牙を避ける。
剣を一度だけ振る。
すぐ離れる。
次。
腰が沈む。
今度は左。
だが、同じじゃない。
「っ!」
魔物が突進の途中で前脚を地面に突き立てた。
急停止。
そのまま身体を横へ振る。
読んでいない動き。
肩がぶつかった。
俺は地面を転がる。
立て。
すぐ立つ。
追撃。
牙。
剣を横にして口の前へ差し込む。
牙が刃に当たる。
衝撃で手が痺れる。
蹴る。
鼻先。
効かない。
でも一瞬だけ頭が離れた。
その隙に横へ転がる。
立つ。
距離を取る。
また来る。
何度避けたか分からなくなった。
五回。
十回。
もっとかもしれない。
全部は避けられない。
爪が右肩を掠める。
次は牙が服を裂く。
急停止からの体当たりで左脚を打つ。
俺も少しずつ学ぶ。
木を背負わない。
突進の直線上に太い木が来るように移動する。
俺が避ければ、魔物は木を避けるために進路を変えなければならない。
その瞬間だけ速度が落ちる。
そこを斬る。
前脚。
浅い。
次。
首。
浅い。
次は頬の同じ傷。
剣が入る。
魔物が吠える。
倒せない。
でも傷は増えている。
問題は。
俺の方が先に限界になることだった。
「はっ……はっ……」
息が苦しい。
右手が痺れている。
左腕から流れた血が指先まで伝っている。
左脚も痛い。
魔物の動きも最初より鈍い。
でも。
まだ走れる。
俺はもう長く走れない。
次で決める。
そう思ったのが間違いだった。
焦った。
◇
魔物が低く構えた。
腰が沈む。
来る。
分かる。
いつもと同じ。
俺は右へ避けようとした。
脚が動かない。
疲労で、一歩目が遅れた。
「……っ!」
魔物の右前脚が迫る。
避けられない。
剣を両手で斜めに構える。
爪を刃で受ける。
ガンッ、と腕全体に衝撃が走った。
力が違いすぎる。
剣が手から弾け飛ぶ。
右手が開く。
まずい。
身体が後ろへ倒れる。
その瞬間、魔物が前脚を地面についた。
止まる。
逃げろ。
起きろ。
肘をついて身体を起こす。
遅い。
黒い巨体が覆いかぶさった。
「ぐっ!」
背中が地面に叩きつけられる。
右前脚が胸の上に乗った。
重い。
両手で押す。
動かない。
爪が服を貫き、胸の皮膚に食い込む。
顔の前。
大きな口が開く。
喉を狙っている。
牙。
死ぬ。
そう思った。
父さん。
母さん。
ミア。
カイル。
顔が浮かんだ。
またか。
また何もできないのか。
違う。
今回は俺だ。
俺が死ぬ。
怖い。
「……嫌だ」
声が出た。
魔物の頭が下がる。
「死にたくない」
初めてだった。
強くなりたい。
守れるようになりたい。
ずっとそう思っていた。
でも今は違う。
そんな立派な理由じゃない。
ただ。
生きたい。
「死にたく……ない!」
左腕を喉の前へ差し込んだ。
直後。
噛まれた。
「ぁあああっ!」
牙が前腕に食い込む。
痛い。
熱い。
腕の中まで牙が入ってくる。
それでも引かない。
左腕を横向きに噛ませる。
こいつが腕を噛んでいる間だけ、喉には牙が届かない。
右手。
動かせ。
魔物の前脚は胸。
右腕は自由。
腰。
短剣。
右手を腰へ伸ばす。
柄を掴む。
抜く。
近すぎて大きく振れない。
なら。
下から。
肘を曲げたまま、短剣を逆手に持つ。
魔物の顔。
右目。
「ぁぁっ!」
突き上げる。
刃が目に入った。
「ギャァァァァッ!」
魔物が頭を振り上げた。
左腕が牙から抜ける。
皮膚が裂ける。
血が飛ぶ。
魔物が後ろへ跳んだ。
胸の重さが消える。
俺は横へ転がった。
距離を取ろうとする。
立てない。
左腕。
動かない。
血が止まらない。
でも。
魔物も苦しんでいる。
右目に短剣が刺さったまま、前脚で顔を掻いている。
今。
剣。
どこだ。
視線を動かす。
あった。
五メートル。
俺の右後ろ。
這う。
右肘。
右膝。
左腕は使えない。
進む。
魔物が短剣を前脚で弾き飛ばした。
顔を上げる。
残った左目が俺を捉えた。
「グルルル……」
来る。
三メートル。
剣まであと二メートル。
這う。
後ろで土を蹴る音。
振り返らない。
あと一メートル。
指を伸ばす。
届かない。
もう一度、身体を前へ投げ出す。
右手。
柄に触れた。
掴む。
すぐ振り返る。
黒い巨体が迫っていた。
避ける時間はない。
立つ時間もない。
俺は地面に座り込んだまま、剣の柄を腹の横に引いた。
刃先を斜め上へ向ける。
狙う。
胸。
違う。
走ってくる相手の胸は動く。
もっと大きい場所。
首の付け根。
魔物が跳んだ。
俺は剣先をその下へ向ける。
両手は使えない。
右手だけ。
支えきれない。
だったら。
柄尻を地面につけた。
刃を前へ。
槍みたいに固定する。
魔物は止まれない。
「来い……!」
衝突。
刃が首の付け根から入った。
「ぐっ!」
剣の柄が地面から外れる。
右肩に衝撃。
そのまま巨体に押し倒される。
でも剣は抜けていない。
魔物自身の突進で刃が深く入っていく。
まだ。
浅い。
右手で柄を握る。
魔物が暴れる。
爪が地面を掻く。
顔が迫る。
左腕は使えない。
だから右脚を腹の下へ入れた。
蹴る。
押し返す。
同時に剣を捻る。
「ぁぁぁぁっ!」
刃がさらに奥へ入った。
魔物の動きが乱れる。
一度。
大きく身体が跳ねた。
二度。
爪が俺の肩の横の土を抉った。
三度。
弱くなる。
俺は剣を離さない。
十秒。
二十秒。
やがて。
黒い巨体から力が抜けた。
動かなくなった。
◇
重い。
右手と右脚を使って、魔物の身体を少しずつ押す。
一度では動かない。
もう一度。
「……っ!」
ようやく身体の下から抜け出した。
仰向けになる。
空が見えた。
《ホーンウルフを討伐しました》
《大量の経験値を獲得しました》
ホーンウルフ。
そこで初めて、こいつの名前を知った。
文字が浮かぶ。
どうでもいい。
左腕。
血が止まらない。
噛まれた場所から流れ続けている。
まず止血。
前世で知っている程度の知識しかない。
それでも、何もしないよりはいい。
歯で服の裾を噛む。
右手で引き裂く。
細長い布にする。
傷の少し上。
そこへ強く巻く。
片手では結べない。
布の端を歯で押さえ、右手で引く。
何度も失敗する。
ようやく締まった。
それでも血は滲んでくる。
眠い。
駄目だ。
寝たらまずい。
分かっている。
でも。
身体が動かない。
「……ゼノ」
返事はない。
どこにいる。
俺は近くの木まで這い、幹にもたれた。
息をする。
寒い。
さっきまで暑かったのに。
指先が震える。
これ。
まずいやつだ。
前世の知識がそう言っている。
「……死ぬ?」
嫌だ。
まだ。
何もしていない。
強くなっていない。
鉱山のみんなも。
助けられていない。
それ以前に。
もっと生きたい。
町にも行っていない。
この世界の海も知らない。
魔法だって水滴しか出せない。
「……まだ」
右手で木の根を掴む。
右脚を立てる。
左脚も。
身体を持ち上げる。
立った。
一歩。
膝から崩れた。
「……もう一回」
木を掴む。
立つ。
《不屈の習熟度が上昇しました》
二歩。
三歩。
《不屈の習熟度が上昇しました》
四歩。
また倒れる。
《不屈の習熟度が上昇しました》
「そんなの……いいから」
今欲しいのは力だ。
傷を治す力。
立つ力。
生きる力。
でも。
《超越》は何もしてくれない。
当然だ。
あれは俺を助ける能力じゃない。
道を閉ざさないだけ。
歩くのは俺。
だったら。
動け。
右脚を立てる。
木を掴む。
また身体を持ち上げる。
そのとき。
《条件を満たしました》
視界に文字が浮かんだ。
《極度の恐怖状態における行動継続を確認》
《生命危機下における精神抵抗を確認》
《技能【不屈】の習熟度が規定値に到達しました》
《不屈 Lv4 → Lv5》
何も変わらない。
傷は治らない。
血も止まらない。
でも。
頭の中を覆っていた恐怖が、ほんの少しだけ遠ざかった。
消えたわけじゃない。
怖い。
死にたくない。
だから考えられる。
水。
傷を洗う。
布。
圧迫する。
火。
無理。
水なら。
右手を出す。
胸の奥に意識を向ける。
少ない魔力を右肩へ。
肘。
手首。
掌。
「……水」
一滴。
左腕へ落とす。
足りない。
もう一度。
二滴。
もう一度。
何度も繰り返す。
傷全体を洗える量には程遠い。
それでも、血と土で汚れた場所を少しずつ流す。
終わったら布を巻き直す。
今度は傷口へ直接当て、右手で強く押さえる。
少し待つ。
立つ。
一歩。
止まる。
二歩。
呼吸。
三歩。
木を掴む。
次の木まで。
それだけ考える。
◇
どれほど進んだのか分からない。
意識が何度も飛びそうになった。
木々の向こう。
何かが動く。
人影。
身体が勝手に反応した。
腰へ手を伸ばす。
短剣はない。
剣を抜こうとする。
右手に力が入らない。
「レオン!」
ゼノだった。
駆け寄ってくる。
俺の身体を見る。
表情が変わった。
「何があった」
「……狼みたいな魔物」
「額に角があったか?」
頷く。
ゼノの表情がさらに険しくなる。
「ホーンウルフか」
さっき表示された名前と同じだった。
「どこだ」
来た方向を指差す。
ゼノが俺を抱き上げる。
「倒したのか?」
「……うん」
ゼノが黙った。
怒っているように見えた。
「なんで……いなかったの」
聞いた。
ゼノの足が一瞬止まる。
「別の魔物の気配を追った。すぐ戻るつもりだった」
声が低い。
「俺の判断ミスだ」
そうか。
それだけ聞ければよかった。
眠い。
「寝るな」
ゼノが言った。
「……眠い」
「俺を見ろ」
目を開ける。
「お前、俺に一発入れるんじゃなかったのか」
そうだった。
まだ一度も。
「……入れる」
「なら寝るな」
「うん」
必死に目を開けた。
◇
目を覚ますと、小屋だった。
左腕には包帯。
身体中が痛い。
でも。
生きている。
横を見る。
ゼノが椅子で眠っていた。
俺が動くと目を開ける。
「……起きたか」
「うん」
「三日寝てた」
そんなに。
「ホーンウルフは?」
「死んでた」
本当に倒したらしい。
ゼノはしばらく黙っていた。
「悪かった」
初めて聞いた。
ゼノの謝罪。
「俺はお前を鍛えているつもりで、お前の成長速度に慣れすぎた」
「?」
「お前が何度倒れても立つから、忘れてた」
ゼノが俺を見る。
「お前はまだ八歳だ」
何も言わなかった。
自分でも、ときどき忘れる。
記憶は三十年以上ある。
でも身体は八歳。
「しばらく実戦は禁止だ」
「嫌だ」
「決定だ」
「もう治って――」
「三日寝てた奴が何言ってる」
言い返せない。
ゼノが立ち上がる。
「まず飯だ」
「肉?」
「粥」
「……肉」
「粥だ」
残念だ。
ゼノが小屋を出ようとする。
「ゼノ」
「なんだ」
「俺、勝った」
ゼノが止まった。
少しだけ振り返る。
「ああ」
「一人で」
「ああ」
「強くなった?」
少し間があった。
「強くなった」
その言葉が嬉しかった。
でもゼノは続けた。
「そして、弱かった」
「……うん」
その通りだ。
勝った。
でも死にかけた。
最後だって、俺の方が強かったから勝ったわけじゃない。
片腕を犠牲にして喉を守った。
短剣が目に入った。
弾かれた剣が手の届く場所に落ちていた。
魔物が最後まで逃げずに突っ込んできた。
どれか一つ違えば、俺が死んでいた。
勝ったから正しかったわけじゃない。
俺にはまだ足りないものが多すぎる。
もっと強くなる。
それだけじゃない。
もっと考える。
四足の敵との戦い方。
武器を失ったときの動き。
逃げる方法。
傷を治す方法。
生き残る方法。
全部覚える。
次に同じことが起きたとき。
死にかけて勝つんじゃない。
生きて帰る。
それが、本当の勝ちだと思った。
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