第9話 七日間の居住許可
翌朝、北門の見張り台から鐘が三度鳴った。
神の影――北部教会が「神が世界を記す際に捨てた影」と呼ぶ、文字も名前も奪う黒い欠落――ではない。
街道から馬車が来た時の合図だった。
ホーコンが門へ向かうと、二頭立ての幌馬車が一台、灰色の外套を着た男を乗せて止まっていた。護衛は二人だけ。荷台には帳簿箱と封蝋器具が積まれている。
男は四十前後に見えた。人当たりのよさそうな顔で、門番役の難民にも一人ずつ会釈する。
門をくぐってからも、勝手に建物へ入ろうとはしなかった。炊事場の列、宿舎の人数札、井戸脇の水桶を順に見て、住民へ短く名前を尋ねる。そのたび帳面へ同じ大きさの字で記した。
「王国交易局監督官、ブレントです。エッダ石油ポンプ場の現況確認に来ました」
差し出された身分証をホーコンが確認する。
印章、紙質、番号。偽造の痕跡はない。
「元王国測量院一等測量士、ホーコンです」
「元、ですか。記録では終身閉鎖測量の担当者になっています」
「資格は剥奪されました」
「なるほど。そこから確認した方がよさそうですね」
ブレントは嫌味も笑いもせず、帳面へ書き込んだ。
*
管理棟の食堂に、ホーコン、アズ、ルグエ、ブレントが向かい合って座った。
クリストエインは召喚中だが、現存錨の工具を腰につけ、少し離れた作業台で壊れた圧力計を直している。
ブレントは帳簿を一冊ずつ机へ置いた。
「エッダ石油ポンプ場は王国交易局管理下の国有施設です。閉鎖命令後、居住許可は一件も出ていません」
「ここには百二十人いる」
アズが答えた。
「見れば分かります」
「なら、追い出せばどうなるかも分かるでしょう」
「分かるから困っているんです」
ブレントは眉間を押さえた。
「今ここを居住地として認めれば、閉鎖施設へ無断で入った者に交易局が土地を与えたことになる。次に別の廃鉱や倉庫へ人が入った時、同じ判断を求められます」
「人が死ぬよりましよ」
「その一件だけならそうです。しかし制度を崩せば、明日から誰が水路を使えて、誰が倉庫を借りられて、誰が税を払うのかまで曖昧になる。曖昧なままでは、結局、力のある者が取ります」
アズが口を閉じた。
ブレントは住民を嫌っているわけではない。
むしろ逆だった。壊した後に起きることを恐れている。
「では、七日でいい」
ホーコンが言った。
「何です?」
「恒久的な居住を認めなくていい。七日間だけ、現況調査中の仮居住として扱ってください」
「根拠がありません」
「あります」
ホーコンは測量鞄から紙束を出した。
十二年前の地図。
欠落した十三日。
井戸から見つかった作業員名札。
現在の地形と記録の不一致。
「王国の記録そのものに欠落があります。閉鎖命令が正しい前提も、調べ直す必要がある」
ブレントは一枚ずつ読んだ。
長かった。
最後まで目を通してから、紙束を揃える。
「興味深いです。ですが、採用できません」
アズが椅子を鳴らした。
「これだけ見ても?」
「公文書に存在しない十三日を、私個人の判断で『存在した』とは扱えないんです」
「目の前の証拠より紙を信じるの?」
「違います。私が勝手に紙の外を公的事実にできないと言っています」
ブレントの声は静かだった。
「それを許せば、私が嫌いな商人の権利だけ『記録にない』ことにもできる。逆もできます。だから公務では、手順が必要なんです」
ホーコンは机の上を見た。
欠落した記録を証明するには、欠落していない記録がいる。
視線の先で、クリストエインが圧力計を閉じた。
「それ、直りました」
彼女が持ち上げた計器の裏側に、小さな刻印があった。
――整備担当 クリストエイン。
ホーコンは立ち上がった。
工具箱を机へ置き、内蓋の真鍮板を見せる。交易局の旧式個人工具には、所有者名を刻んだ銘板を付ける規定があった。
「ブレント監督官。現存する物品と、交易局自身の記録が一致した場合は?」
「内容によります」
「ルグエ、十二年前の稼働簿は」
「地下倉庫だ」
*
埃をかぶった木箱から、分厚い稼働簿が出てきた。
王国暦へ送る前の現場控えだった。表紙には交易局の旧印が残っている。
ルグエが事故前の頁を開く。
給水塔第三弁、交換。
北管圧力計、校正。
主ポンプ二号、軸受調整。
担当者欄に同じ名前が並んでいた。
クリストエイン。
ブレントは黙って工具箱の銘板を手に取り、稼働簿の筆跡、旧印、頁番号を確認した。
「この稼働簿は交易局様式です」
「王国暦には彼女がいない」
「はい」
「でも、ここにはいる」
クリストエインが自分を指した。
「そこが一番困りますね」
ブレントは初めて苦笑した。
そして帳面を開き、新しい一枚へ文字を書いた。
「施設返還命令の執行を七日間保留。理由は、交易局旧記録と中央公文書の不一致調査。調査期間中、現に施設内にいる百二十名の退去を求めない」
書き終えると、ブレントは自分の監督官印を押した。恒久許可ではない。それでも、王国の役人が正式な紙に百二十人の滞在を書いた。
アズが念を押す。
「七日間は追い出さない?」
「はい。ただし八日目以降は約束できません」
「十分よ。七日あれば、次の手を作れる」
ブレントは住民名簿も受け取った。
「名前と人数は私の控えにも残します。今後の食料と飲用水の搬入量を計算するためです」
「許可されたのは居住だけでは?」
ホーコンが言う。
「人を七日置いて、食べさせも飲ませもしない方が規則違反でしょう」
ブレントは当然のように答えた。
制度を壊さない。
だが、その中で人が生きられる隙間を探す。
ホーコンには、自分とは違う掘り方に見えた。
その時だった。
外から馬の蹄が激しく響いた。
門番の少年が息を切らして食堂へ飛び込む。
「アズ! 北街道から伝令!」
「何があった?」
「王国軍です。補給隊と工兵を連れて、こっちへ向かってる。街道を封鎖するって!」
ブレントの手が止まった。
彼は机の上の七日間の仮居住許可を見た。
まだ墨も乾いていない。




