第8話 一人で直す者
井戸から引き上げた名札を洗っている最中、地面の下で低い振動が途切れた。
ホーコンは顔を上げた。
いつもなら靴底へ伝わっているはずの規則的な脈動がない。
「主ポンプが止まった」
ルグエが立ち上がるより先に、ホーコンは工具袋を肩へ掛けた。
「見てきます」
「待て。さっき井戸で暦圧が出たばかりだ」
「だから先に確認するんです。原因が配管なら、停止時間が長いほど地下へ戻す油が減る」
ルグエが何か言い返す前に、ホーコンは階段へ向かった。
誰かを連れていけば説明が要る。
歩調も合わせなければならない。
自分一人なら、測って、原因を見つけて、直して戻るだけだ。
*
主ポンプ室は地下二層にあった。
照明石の半分が消え、巨大な回転軸は沈黙している。
ホーコンは床へ測量棒を当てた。
井戸側から延びる返油管が、基準線から指二本分ずれていた。
「やはり、さっきの圧か」
管そのものは破断していない。
だが、ずれた管に押されて逆止弁の点検蓋が開かなくなっている。
現在の設備だけで直すなら、管を一度切り離す必要がある。
時間がかかる。
ホーコンは地下制御室へ続く補助盤を見た。
この区画は昨日、自分で測っている。
事故前の点検記録には、現在より半歩西に旧排油弁があった。
それを短時間だけ呼び出し、圧を逃がせばいい。
ホーコンは境界杭を四本打った。
「一間だけ。十秒で解除する」
誰に聞かせるでもなく呟き、補助盤の針を十二年前へ合わせる。
黒い油が計量管を落ちた。
空気が軋む。
壁際に、錆びる前の旧排油弁が浮かび上がった。
位置は合っている。
ホーコンは弁へ手を伸ばした。
床が沈んだ。
「っ……」
現在の返油管が、召喚された旧管へ引かれた。
金属同士が触れてはいない。
それでも二つの時代が同じ空間を奪い合い、黒い筋が床を走る。
暦圧。
ホーコンは解除盤へ手を伸ばした。
届かない。
右足が動かなかった。
床と靴の輪郭が黒く滲み、膝から下が重い泥へ沈んだように固定されている。
「測量値は、合っていたはずだ」
返油管がもう一度たわんだ。
水圧ではない。
主ポンプ停止で油の流れが止まり、管内に残った圧が偏っている。
静止した位置だけを見ていた。
昨日と同じだ。
ホーコンは歯を食いしばり、測量棒を解除レバーへ伸ばした。
あと指三本。
届かない。
黒い筋が腿へ上がる。
*
「ホーコン!」
上階から声が落ちてきた。
アズだった。
「ここです! 境界内へ入るな!」
「それくらい見れば分かる!」
続いて階段を駆け下りたクリストエインが、整備工具を腰に巻いたまま足を止める。
「旧排油弁を呼んだの?」
「解除盤に届かない」
「どうして一人でやったの」
「今は説教より解除を」
「同感」
クリストエインは即答した。
工具袋から細い鎖を抜き、レンチを結ぶ。
「アズ、あの赤いレバー見える?」
「見える」
「私が鎖を掛ける。引く合図で一気に」
「あなたは境界へ入れるの?」
「工具を持ってる間なら動ける。ただし長居はしない」
クリストエインが黒い境界へ踏み込んだ。
輪郭が一瞬だけ透ける。
彼女は歯を食いしばり、レンチを解除レバーへ投げた。
一度外れた。
二度目で引っ掛かる。
「今!」
アズが鎖を引いた。
レバーが落ちる。
旧排油弁が消えた。
床の黒い筋が縮み、ホーコンの右足が抜ける。
その場へ膝をついた瞬間、アズに襟をつかまれた。
「歩ける?」
「問題ありません」
「その答えは信用しない。クリストエイン、見て」
「足首を捻ってる。歩けるけど走らせない方がいい」
「問題ありますね」
「どうして、ここだと分かった」
ホーコンが尋ねると、アズは呆れたように息を吐いた。
「主ポンプが止まった。あなたが消えた。それなのに誰にも行き先を言ってない。地下を探す以外に何があるの」
「……効率は悪い」
「あなたが言う?」
ホーコンは黙った。
*
地上へ戻ると、ルグエが腕を組んで待っていた。
「主ポンプは?」
「まだ止まっています」
「お前を拾いに二人使ったからな」
「俺が閉じ込められなければ、すぐ直せました」
「そこだ」
ルグエの声が低くなる。
「助けを呼ばない者は、助ける側の予定まで壊す」
ホーコンは眉を寄せた。
「危険を負ったのは俺です」
「違う。アズは避難所の水配りを止めた。クリストエインは北弁の修理を止めた。俺は主ポンプの復旧を後回しにした。三人の予定を、お前が勝手に変えた」
言い返そうとして、言葉が止まる。
広場では住民が空の水桶を並べていた。
主ポンプの停止が続けば、黒い油の循環も戻らない。ルグエが示した予備槽の油面は、地下へ降りる前より目盛り一つ下がっていた。止まった主ポンプの代わりに、小型の返送ポンプだけで地下への逆送を維持した分だ。
もし最初に一言伝えていれば、アズは水配りの代役を決められた。クリストエインも北弁を放り出さずに済んだ。少なくとも、誰も「ホーコンがどこで倒れているか」を探す必要はなかった。
自分一人で済ませるつもりだった故障が、四つの仕事を止めていた。
「……次は、降りる前に伝えます」
「次は、では足りない」
アズが木板を持ってきた。
「地下で声が届かない場所もある。合図を決める」
短く一回は作業開始。
二回は応援要請。
三回連続は全員退避。
配管を叩く場合も同じ回数にする。
ホーコンは板を見た。
「一回目から誰かを呼ぶ必要はない」
「呼ばなくていい。あなたがどこにいるか分かればいい」
クリストエインが言う。
「勝手に消えられる方が困る」
ホーコンは少し迷ってから、木板へ自分の字で書き足した。
――返答がなければ、二回を三回として扱う。
「これでいい」
ルグエが頷いた。
その後、四人で主ポンプ室へ戻った。
ホーコンが位置を測る。
クリストエインが管を支える。
ルグエが弁を開く。
アズが地上との連絡を取る。
夕方、止まっていた振動が再び床を打ち始めた。
どん。
どん。
ホーコンはその音を聞きながら、壁の配管を金槌で二回叩いた。
少し間を置いて、地上から二回、返事が返ってきた。




