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神影の暦術師  作者: 乾為天女


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第7話 枯れた井戸の昨日

 共同井戸の底は、乾いていた。


 ホーコンが桶を引き上げると、底板に薄い泥が貼りついているだけだった。


 「いつから?」


 アズが炊事班の女へ聞く。


 「夕方までは出てた。粥を作った後、急に」


 百二十人。

 一晩なら持参した水筒でしのげる者もいる。だが、朝までに飲み水を確保できなければ、居住区そのものを捨てるしかない。


 ホーコンは井戸の縁へ測量棒を渡した。


 「深さ十一・四。水面なし。西へ傾斜」


 「壊れた?」


 クリストエインが覗き込む。


 「枯れた可能性が高い。十二年前の図面では、地下水路から補水していたはずです」


 「その水路、今は?」


 「途中で崩落しています」


 アズが聞いた。


 「昨日の井戸は呼べる?」


 ホーコンは答える前に、周囲を見た。


 井戸と地下水路だけなら、給水塔より範囲は小さい。黒い油の消費も抑えられる。

 しかも西居住区は、すでに自分で測ってある。


 「呼べます」


 「危険は?」


 「現在の井戸と過去の井戸を完全に重ねれば暦圧が出る。だから、井戸底と旧水路だけに境界を切ります」


 クリストエインが眉を寄せた。


 「地下配管は?」


 「図面上では旧水路の南を通っています」


 「図面上では、ね」


 ホーコンは答えず、杭を持った。


     *


 四十分後。


 井戸を中心に六本の境界杭が打たれた。


 ホーコンは井戸底へ測定針を下ろし、地中の金属反応も確かめた。南側に一本、現在の鉄管がある。旧水路との最短距離は一・二歩。


 重ならない。


 「住民を井戸から二十歩離してください」


 アズはすぐ動いた。


 「炊事班、火を消して東へ。子供から先。桶は置いて。持って走らない」


 人が移動する。


 ホーコンは万年カレンダーの針を五月二日へ合わせた。


 同じ日を開くほど記録が摩耗する。

 クリストエインのことを考えれば、本当は別の日を使いたい。


 だが事故前で、井戸の状態を確実に知っている日付は五月二日しかない。


 「起動します」


 レバーを倒した。


 井戸の底で、水音がした。


 乾いた石壁へ十二年前の石組みが重なり、その奥から澄んだ水が湧き上がる。


 「出た」


 アズが呟いた。


 水面が一歩、二歩と上がる。


 ホーコンは油量計と境界を交互に見る。


 想定通りだ。


 その瞬間、地面が鳴った。


 ごん。


 井戸の南側が黒く沈む。


 「全員、下がって!」


 アズの声が飛んだ。


 次の衝撃で、石畳が一本の線に沿って持ち上がった。


 ホーコンは膝をつき、測量棒を地面へ当てる。


 「鉄管の位置が動いてる?」


 「違う!」


 クリストエインが井戸脇へ駆けた。


 「水圧で現在の管がたわんだんだ! 過去の水路へ寄ってる!」


 位置は測れていた。


 だが、水が流れ始めた後の管の変形までは、静止した測量値には出ない。


 地面の裂け目から、黒い筋がにじんだ。


 暦圧。


 現在の鉄管と、召喚した旧水路が同じ位置へ押し込まれ始めている。


 「解除します」


 ホーコンが地下制御室へ向こうとした。


 「待って。今いきなり消したら、水路の上にいる圧が全部いまの管へ戻る」


 「ではどうする」


 「流れを逃がす」


 クリストエインは井戸脇の点検蓋を開けた。


 「十二年前は西の洗浄管へ逃がせた。今、その先は残ってる?」


 ホーコンは頭の中の測量図を開く。


 「西へ八歩。途中で切断。ただし排水溝まで三歩です」


 「十分」


 彼女が工具一式から細身のレンチを抜く。


 「ホーコン、境界の西端を三歩だけ広げて。旧洗浄管の弁を呼ぶ」


 「測っていない範囲は――」


 「昨日あなたが宿舎を測った線の内側!」


 その通りだった。


 ホーコンは杭を一本打ち直す。


 同時にアズが叫ぶ。


 「西側も空ける! 全員、東の積荷広場まで!」


 「二十歩で十分です!」


 「何が噴くか分からないなら、四十歩取る!」


 反論する暇はなかった。


 クリストエインが召喚された弁へレンチを掛ける。


 「開けるよ!」


 金属が悲鳴を上げた。


 井戸の水が西へ引かれる。

 現在の鉄管が震え、地面の黒い裂け目が広がりかけ――止まった。


 「今!」


 ホーコンは地下制御室へ走り、召喚範囲を強制解除した。


     *


 井戸は再び乾いた。


 だが事故は起きなかった。


 百二十人にも怪我はない。


 ホーコンは地面へ膝をつき、現在の鉄管の位置を測り直していた。


 「最初は一・二歩離れていた」


 「流せば動く管もある」


 クリストエインが言う。


 「位置が正しくても、設備がどう動くかは別」


 「次は変形量まで見ます」


 「そういう話じゃないんだけど」


 アズが横から言った。


 「退避もあなた一人じゃできない」


 「退避距離は俺が出しました」


 「二十歩って言った」


 「結果として二十歩でも――」


 「四十歩取って困った?」


 ホーコンは黙った。


 測量値は間違っていなかった。

 それでも、事故を止めたのは自分の数字だけではない。


 認めるには、少し腹が立った。


 炊事班の女が、恐る恐る井戸へ近づいた。


 「で、水は?」


 「別の取り方を考えます」


 ホーコンが答えたとき、井戸の底で何かが光った。


 さっきの水が一瞬だけ押し上げた泥の中に、細い鎖が引っかかっている。


 測量棒で引き上げる。


 鎖の先には、小さな金属札があった。


 油と泥を拭う。


 表に職員番号。

 裏には、一人の名前。


 クリストエインの顔から、表情が消えた。


 「これ……十二年前の作業員名札」


 ホーコンは札を掌に置いた。


 五月二日の井戸水が運んできたのではない。

 召喚が消えた後も、名札は残っている。


 つまり、これは十二年前からずっと、現在の井戸底に沈んでいた。


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