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神影の暦術師  作者: 乾為天女


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第6話 百二十人を入れるか

 ホーコンは、門を開けなかった。


 鉄柵の向こうに百二十人が立っている。

 老人も、子供もいる。荷車の脇では、さっき黒い模様を広げたモンシロチョウが見えなくなっていた。


 「一週間」


 アズが言った。


 「それだけでいい。北の街道が使えるようになるまで、ここへ置いてほしい」


 「無理です」


 ホーコンは即答した。


 「食料は人数分ない。共同井戸は一本しか使えない。黒い油も減っている。西居住区が安全だという確認も終わっていません」


 「確認には何人いる?」


 「俺が全部見ます」


 「何日かかる?」


 「測ってみないと分かりません」


 アズは門越しに彼を見た。


 「なら、その間、この百二十人は外で寝る?」


 「中へ入れて影に巻き込まれるよりは――」


 「外なら安全なの?」


 言葉が止まった。


 安全ではない。

 だからこそ、軽々しく入れられない。


 ホーコンは門柱の錠へ手を置いたまま、背後の施設を見た。


 石油ポンプ場は広い。だが使える設備は少ない。昨日の給水塔を召喚すれば水は得られるが、その分だけ黒い油を消費する。宿舎を過去から呼び戻せば、さらに油が減る。


 クリストエインが横から言った。


 「西宿舎を十二年前の状態で呼べば、屋根と寝台は足りる」


 「召喚範囲をまだ全部測っていません」


 「じゃあ測る」


 「俺がやります」


 「私、図面を知ってるけど」


 「十二年前の図面と現在の崩落位置は違う」


 「だから二人で――」


 「俺が確認した方が早い」


 クリストエインが口を閉じた。


 アズはため息をつかなかった。ただ、門の外へ振り返った。


 「聞いた? 一週間だけここを借りる。その代わり、働ける人間は働く」


 難民たちがざわめく。


 「掃除ができる者、手を上げて。鍋を使える者。夜番ができる者。大工仕事をしたことがある者」


 次々と手が上がった。


 ホーコンは眉を寄せる。


 「まだ入れるとは言っていません」


 「あなたが決めるまで、誰に何ができるか確認してるだけ」


     *


 門を開けたのは、それから十分後だった。


 受け入れを決めたわけではない。

 門前に百二十人を固めたままにする方が危険だと判断しただけだ。


 ホーコンはそう説明したが、アズは「はいはい」とだけ答えた。


 まず全員を旧積荷広場へ集めた。

 荷物を一か所にまとめ、人員を数える。百二十名。途中で増えても減ってもいない。


 黒い模様の蝶も探したが、見つからなかった。


 「三十分ごとに人数を数えます」


 ホーコンが告げると、アズが頷いた。


 「それは必要。数える役はこっちで二人出す」


 「俺も確認します」


 「確認するなとは言ってない。全部あなたがやる必要がないって言ってる」


 ホーコンは返事をせず、西居住区へ向かった。


 建物は十二棟。

 壁の傾き、床の腐食、井戸までの距離、黒い欠落の有無。一本ずつ測量杭を打ち、縄を張り、帳面へ書く。


 一棟目に二十七分。

 二棟目に三十一分。

 三棟目へ入ったところで、クリストエインが追いついた。


 「まだ三棟?」


 「床下を確認しています」


 「日没まであと三時間ちょっと」


 「分かっています」


 「十二棟全部やる気?」


 「当然です」


 「その間、百二十人は?」


 「待ってもらいます」


 「それが問題なんだけど」


 ホーコンは床板を叩いた。

 音の違う場所へ印をつける。


 「見落としがあれば死人が出る」


 「一人でやって日が暮れても死人が出る」


 クリストエインの声は朴訥だった。


 だから余計に腹が立つ。


 ホーコンは立ち上がった。


 「誰がこの床の安全を判断するんです」


 「床はあなた。壁は私。清掃と寝台は住民」


 「素人に――」


 外から、金槌の音がした。


     *


 宿舎前の草地が、人で埋まっていた。


 アズが勝手に始めていた。


 清掃班が枯れ草と瓦礫を運び出し、炊事班が積荷広場に竈を組む。警戒班は二人一組で外周を歩き、白い蝶と黒い欠落を探している。


 大工経験のある男たちは、建物には入らず、外から窓枠と扉だけを確かめていた。


 「勝手に建物へ入れるなと言いましたよね」


 「入れてない」


 アズが答えた。


 「あなたが安全って印をつけた一号棟と二号棟だけ。三号棟以降は外周の片づけだけ」


 「警戒班は?」


 「黒い蝶を見たら鐘を一回。人が消えたら三回。勝手に追わない」


 「炊事は火気を――」


 「油槽から百歩以上離した」


 ホーコンは言葉を失った。


 アズは胸の前で腕を組んだ。


 「私たちは逃げてきた。でも、何もできない人間の集まりじゃない」


 その言葉の向こうで、クリストエインが十二年前の宿舎配置図を地面へ広げた。


 「ホーコン。全部を召喚する必要もない」


 彼女は四号棟から八号棟までを指で囲んだ。


 「屋根が落ちてる部分だけ十二年前へ戻す。今残ってる壁はそのまま使う。範囲が小さければ油も減りにくい」


 「重なる部分に暦圧が出るかもしれない」


 「だから壁との境界だけ測って」


 「……五棟分?」


 「五棟分」


 アズが言った。


 「その間に私たちは一号、二号を使えるようにする」


 ホーコンは反射的に、全部自分で見直す手順を考えた。


 だが西の空は、もう赤かった。


 百二十人が待っている。


 彼は帳面を閉じた。


 「分かりました」


 自分でも驚くほど、その一言は重かった。


 「床と召喚境界は俺が確認する。クリストエインは壁と配管。アズは清掃、炊事、警戒。判断に迷ったら勝手に進めず呼んでください」


 アズが初めて少し笑った。


 「最初からそう言えばいい」


     *


 日が沈む直前。


 西居住区に灯りがともった。


 一号棟と二号棟は現在の建物を清掃して使用。

 三号棟は床が危険なため封鎖。

 四号棟から八号棟は、崩れた屋根と階段だけを十二年前の状態で召喚した。


 残りは倉庫と警戒所に回す。


 百二十人全員が、少なくとも屋根の下へ入った。


 ホーコンは最後の人数確認を終えた。


 「百二十」


 「変わらないね」


 アズが答える。


 炊事場から薄い粥の匂いが流れてきた。

 子供の笑い声がする。


 クリストエインは工具一式を腰につけたまま、宿舎の壁にもたれていた。


 「一人で十二棟、終わった?」


 「……終わってません」


 「こっちは終わった」


 「見れば分かります」


 「便利でしょ、人」


 ホーコンは答えなかった。


 だが否定もしなかった。


 そのとき、炊事班の女が空の桶を抱えて走ってきた。


 「アズ! 井戸が止まった!」


 ホーコンは共同井戸へ向かった。


 桶を落とす。

 底へ着く音が、すぐ返ってきた。


 水面がない。


 百二十人分の寝床はできた。


 今度は、百二十人分の水がなかった。


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