第5話 同じ朝を生きる方法
「誰?」
昨日と同じ問いだった。
ホーコンは答える前に、記録紙を差し出した。
「まず、これを読んでください」
クリストエインは警戒したまま受け取った。
『日没後、五月二日を再召喚。
十八時四十二分、魔導機関技師クリストエイン出現。
十九時十一分、黒い欠落を確認。
十九時二十七分、第四排水路を利用して黒い油を逆送。
日の出直前、召喚解除。
最後の会話――「明日もまた会えるかな?」』
彼女の視線が最後の一行で止まった。
「私、こんなこと言ったの?」
「言いました」
「あなたが書いたなら、作れる」
「そうですね」
ホーコンはもう一枚置いた。
前日に彼女が調整した弁の位置、圧力値、工具の使い方。技師特有の略記もそのまま写してある。
クリストエインは制御盤と見比べた。
「……これ、私の癖だ。六番が使えないなら四番へ逃がす」
記録紙の裏面には、別の筆跡があった。
『次の私へ。
疑うこと。確認すること。納得できないまま従わないこと。
それでも、この測量士はたぶん嘘をつくのが下手。』
クリストエインはホーコンを見た。
「私の字」
「昨日、最後に書いてもらいました」
「そこまでした?」
「明日も会えるかと聞かれたので」
しばらくして、彼女は息を吐いた。
「分かった。昨日の私はあなたを信用したらしい」
ホーコンは万年カレンダーの余白へ新しい時刻を書き込む。
ホーコンは円盤の脇に刻まれた細い余白を指でなぞった。そこには昨夜、自分が刻んだ短い記録が残っている。紙だけでは紛失する。だから、カレンダーそのものにも同じ内容を残すことにした。
「毎回ここへも書きます。次のあなたが、私の紙を疑っても確認できるように」
「いいね。私も追記する」
「毎回ここへ残します。会話、作業、変更点、約束。あなたにも確認してもらう」
「同じ朝を何度もやるなら、その方がいい」
クリストエインは円盤を見上げた。
「それで私は何なの?」
「十二年前の五月二日に残った記録です。死亡とも生存とも確定していない。王国暦で言えば、未閉鎖記録です。普通の召喚物ではありません」
「死んでる?」
「分かりません」
「生きてる?」
「それも」
「使えない答え」
「測れていないことは断定しません」
彼女は少し考え、頷いた。
「じゃあ測ればいい。私が何なのか、どこまで行けるのか、消える条件は何か」
*
最初に試したのは召喚境界だった。
六本の杭。その外へクリストエインが一歩出る。
肩から先が透けた。
「戻って!」
ホーコンが腕をつかみ、境界内へ引く。
輪郭はすぐ戻った。
「境界の外は駄目です」
「今ので死んでない。次」
「死ぬまで試すつもりですか」
「死んでるかどうかも分からないんでしょ」
言い返せなかった。
ホーコンは地上から持ち込んだ工具箱を見た。
「この工具一式を持ってください」
クリストエインは小型圧力計、レンチ、ねじ回し、測定針を工具袋へまとめ、革帯ごと腰へ固定した。
もう一度、杭の外へ出る。
一歩。二歩。十歩。
透けない。
「工具一式を外してみます」
「嫌な予感しかしない」
彼女が革帯を外し、工具一式をホーコンへ渡した瞬間、指先から色が抜け始めた。
「戻して!」
受け取った工具一式をクリストエインの腕へ押し戻す。
輪郭が戻った。
もう一度だけ、境界内で工具一式を外す。そこでは変化しない。境界外へ出た状態で手放したときだけ、彼女の輪郭が崩れる。
「十二年前から現在まで残った、あなた自身の所有物。それが一つの接続点になっている」
「錨みたいなもの?」
「現存錨、と呼びます。今のところ、これが唯一です」
クリストエインは工具一式を腰へ締め直した。
「これを持っていれば外へ出られる」
「少なくとも今は。絶対に手放さないでください」
「了解」
*
二人が初めて境界の外を歩いたのは、その夜だった。
ポンプ場西側の草地に、白いものが舞っていた。
「蝶?」
モンシロチョウだった。
夜だというのに十数匹が低く飛び、同じ方向へ流れている。
ホーコンは方位盤を開く。
「黒い欠落が広がった場所にはいませんでした」
「なら、いる方へ行く」
二人は蝶を追った。
錆びた宿舎群を越えると、蝶は古い居住区の一角へ集まった。
建物は傷んでいるが、文字が消えていない。
扉の番号も、共同井戸の注意書きも残っている。
ホーコンは壁、路地、井戸の縁を順に確かめた。昨日見た黒い欠落特有の、輪郭が途中で断ち切られた箇所がない。少なくとも今夜、この一角は侵食されていない。
「ここ、使える」
クリストエインが窓を覗いた。
「寝台も厨房もある。水路を直せば百人くらい――」
遠くで鐘が鳴った。
一度。二度。三度。
ポンプ場の門からだった。
*
門前の道を、人の列が埋めていた。
荷車、毛布、鍋。
幼い子を抱く女。杖をつく老人。
百人を超えている。
先頭の女がホーコンを見た。
「ここの責任者?」
「違います」
「じゃあ、追い返す権限もない?」
「その理屈にはなりません」
女は一瞬だけ笑った。
「アズ。北の三村から百二十人連れてきた。今夜だけでも中へ入れてほしい」
ホーコンは貯蔵槽を見た。
食料は少ない。
黒い油にも限りがある。
百二十人を守れる保証はない。
断る理由なら、すぐ十個挙げられた。
クリストエインが追いつき、列を見渡す。
「西の居住区、空いてる」
「安全確認が終わっていません」
「蝶はいた」
「それだけでは――」
ホーコンの視線が、列の中央で止まった。
荷車の縁に、一匹のモンシロチョウが止まっている。
白い翅。
その片側だけ、墨を落としたような黒い模様がじわりと広がった。
蝶は羽ばたき、百二十人の列の奥へ消えた。




