第4話 明日もまた会えるかな?
ホーコンは、工具箱の銘板をもう一度読んだ。
『クリストエイン』
ルグエは何も言わない。
「知っている人ですね」
「……ああ」
「十二年前の作業員ですか」
「技師だ」
「生きていますか」
そこで、ルグエは口を閉ざした。
否定もしない。肯定もしない。
ホーコンは工具箱を抱え、地下制御室へ戻った。
万年カレンダーの前には、昨夜動かした針が五月二日を指したまま残っている。
日の出で召喚は消えた。なら、同じ日をもう一度開けば何が起きるのか。
「また油を使うぞ」
「分かっています」
「分かっていてやるのか」
「十三日間の記録を消した理由を知る人間が、あの日にいた可能性があります」
ホーコンは昨日の消費量を書き留めた紙を見た。
二度、三度と無意味に試せる量ではない。
だからこそ、試すなら目的を決める。
「給水塔と制御室だけに範囲を絞ります。昨日より消費は減るはずです」
「人が出てくる保証はない」
「出なければ、それも結果です」
日没を待ち、ホーコンは境界杭を打ち直した。
現在の給水塔跡、地下制御室、その間の保守路だけを閉じた線で囲む。
最後の杭を沈めると、万年カレンダーの表示窓に六つの番号が灯った。
ホーコンは五月二日の針を固定し、起動レバーを倒した。
*
空気が重なった。
崩れた床へ白いタイルが浮かび、錆びた配管の隣に十二年前の銀色の管が現れる。
給水塔の影が地上へ立ち上がった。
そして、制御盤の前に人がいた。
女だった。
灰色の作業服。後ろで束ねた暗い髪。腰には工具袋。片手で圧力計を押さえながら、もう片方の手で弁の調整ねじを回している。
「三番、また脈動してる。ルグエ、補助弁――」
女が振り返った。
ホーコンを見た瞬間、動きが止まる。
「誰?」
短い問いだった。
「ホーコンです」
「それは名前。何の人?」
「測量士です」
「ここに測量士を入れる予定は聞いてない」
女は腰のレンチへ手を掛けた。
警戒しているが、怯えてはいない。
「あなたがクリストエインですか」
「そうだけど」
ホーコンは工具箱を見せた。
彼女の眉が上がる。
「それ、私の」
「床下から見つけました」
「何で床下にあるの」
「十二年後だからです」
クリストエインは黙った。
驚くより先に、周囲を見る。
現在の錆びた配管と、十二年前の配管。崩れた壁と、そこへ重なる白いタイル。手元の圧力計だけが二つの数値を示している。
「……説明して」
「長くなります」
「じゃあ要点だけ」
ホーコンは十三日分の欠落と、万年カレンダー、日の出までしか過去の施設が残らないことを話した。
クリストエインは最後まで遮らなかった。
「つまり、私は五月二日の勤務中」
「はい」
「あなたは十二年後」
「はい」
「で、私を呼んだ」
「結果としては」
「分かった」
返事が早かった。
「信じるんですか」
「目の前で配管が二重になってる。信じない方が面倒」
彼女は工具箱を受け取り、中を確かめる。
「保存状態いい。私、物を大事にするから」
朴訥に言ってから、ふと地上を見た。
「でも、十二年後なら、ここはどうなったの?」
答える前に、照明が一つ消えた。
黒い欠落が、保守路の壁を伝ってきた。
「話は後です」
ホーコンは方位盤を開いた。
クリストエインは影を一度見ただけで、制御盤へ向き直った。
「昨日、水で止めた?」
「正確には、油の流れを変えました」
「なら同じ方法は効率が悪い。防火水を全部捨てる必要ない」
彼女は三つの弁を続けて閉じた。
「何を?」
「還流圧を上げる。影が油に沿うなら、入口へ押し返す」
「圧力上限を超えます」
「六番管を逃がせば超えない」
「六番管は現在では崩落しています」
クリストエインの手が止まった。
「十二年後、そういうの先に言って」
ホーコンは地上図を広げた。
「代わりに四番排水路が残っています。距離は十九歩、落差一・八」
「使える」
二人は同時に動いた。
ホーコンが黒い境界の広がりを測り、安全な位置を指示する。
クリストエインが弁を切り替え、ポンプの回転を調整する。
影が文字を食う。
壁の『圧力』から『力』が消え、次に『圧』が薄れた。
「あと四歩!」
「三十秒ちょうだい」
「二十五秒です」
「細かい」
「測量士なので」
クリストエインが笑った。
二十五秒後、床下で重い衝撃が響いた。
還流した黒い油が地下へ押し戻される。
黒い欠落の縁が揺れ、壁から剥がれるように後退した。
「成功」
クリストエインはそれだけ言い、額の汗を袖で拭った。
ホーコンは返事をしなかった。
彼女の指先が透けていた。
地上を見る。
東の空が白み始めている。
「日の出です」
「そう」
クリストエインは自分の手を見た。
驚いてはいる。だが、取り乱さない。
「戻るの?」
「おそらく五月二日へ」
「次に呼べる?」
「油がある限りは」
「じゃあ呼んで」
身体の輪郭が薄くなる。
「まだ確認したいことがある。あの配管も直したい。十二年後の機械も見たい」
「私も聞きたいことがあります」
「なら決まり」
クリストエインは少し考え、それからホーコンを見た。
「明日もまた会えるかな?」
ホーコンは頷いた。
「同じ日を開きます」
「それ、明日って言うのかな」
彼女の姿が、朝日にほどけた。
*
その日の夕方まで、ホーコンは給水塔周辺を測り直した。
油の残量も計算した。
昨夜の会話は一行ずつ記録した。
そして日が沈むと、再び五月二日を開いた。
白いタイルが戻る。
銀色の配管が現れる。
制御盤の前に、クリストエインが立っていた。
彼女はホーコンを見た。
昨日と同じように眉を寄せ、腰のレンチへ手を掛ける。
「誰?」
ホーコンの手の中で、昨日の記録紙だけが音を立てた。




