第3話 昨日の給水塔
巨大な金属円盤は、暗い地下制御室の壁をほとんど塞いでいた。
十二の月名。その内側に一から三十一までの数字。中央には三本の針があり、最も長い一本だけが現在の日付を指している。
ホーコンは作業灯を近づけた。
「王国暦接続・万年式……記録装置ですか」
「触るな」
ルグエの声が鋭くなった。
だが、その警告と同時に、頭上から低い軋みが響いた。
黒い欠落が地下まで降りてきている。
天井の配管に刻まれていた番号が一文字ずつ消えた。次に、鉄管そのものの縁が黒く薄れ始める。
「出口は?」
「今ので塞がれた」
ルグエは制御盤の横にある非常扉を引いた。びくともしない。扉の向こう側からは、何の音も返らなかった。
ホーコンは恐怖より先に距離を測った。
階段口から円盤まで十一歩。円盤から西壁まで六歩。黒い欠落は一分で約半歩ずつ広がっている。
このままなら、十分も持たない。
「これは何をする装置です」
「知らん方がいい」
「では、死ぬまで八分ほど黙っていてください」
ルグエがホーコンを睨んだ。
「……過去を開く」
「どの範囲を?」
「昔は施設単位だった。今は分からん」
「指定方法は」
「日付と境界だ」
ホーコンは円盤から制御盤へ目を移した。
真鍮板に、見覚えのある記号が刻まれている。測量杭を示す四角と、閉じた線を表す環。
「境界杭……」
夕方、自分が管理棟周辺へ打った六本の仮杭。その番号が、小さな表示窓に並んでいた。
装置が拾っている。
「今日、私が打った杭を認識しています」
「だから触るなと言った」
「十二年前の事故前、ここに給水塔はありましたか」
ルグエの顔が険しくなる。
「東側に一基。事故で脚が折れた」
「水路は?」
「塔から管理棟の防火槽まで通っていた」
ホーコンは地上で取った測量値を頭の中に置き直した。
六本の杭が囲む範囲には、給水塔跡と古い水路の大半が入っている。
黒い欠落は油管を伝ってくる。なら、大量の水で流れを変えられる可能性がある。
「十二年前の、事故より前の日付を教えてください」
「やめろ」
「ほかに出口があるなら、そちらにします」
沈黙の間にも、天井のボルトが一つ消えた。
ルグエが歯を食いしばる。
「五月二日だ」
ホーコンは円盤へ手を伸ばした。
長い針は現在の月日を示している。横の固定具を外すと、金属の重みが腕へ伝わった。
「戻した後は?」
「境界指定。起動レバー。あとは知らん」
「十分です」
針を十二年前の五月二日へ合わせる。
その瞬間、地下のどこかで巨大な歯車が噛み合った。
*
最初に聞こえたのは、水の音だった。
ごう、と頭上を何かが走る。
制御室の壁にひび割れた白いタイルが重なり、錆びた配管の横へ真新しい銀色の管が現れた。
「重なってる……」
ルグエが呟いた。
現在の廃墟が消えたわけではない。
十二年前の施設が、薄い膜のように同じ場所へ重なっている。
ホーコンが起動レバーを倒す。
地上で轟音がした。
続いて、地下配管を大量の水が駆け抜ける。
二人は非常扉を押した。
今度は開いた。
扉の向こうには、崩落していたはずの通路がまっすぐ伸びていた。
「走ります」
地上へ出た瞬間、ホーコンは足を止めた。
夜空の下に、給水塔が立っている。
夕方には折れた鉄脚と瓦礫しかなかった場所に、十二年前の塔が半透明の輪郭をまとってそびえていた。
その一方で、現在の錆びた柵も草も残っている。
二つの時間が同時に存在していた。
黒い欠落が管理棟から広がる。
「水を出せ!」
ルグエが塔の弁へ走った。
ホーコンは水路を確認する。十二年前の防火水路が、夕方に打った杭の内側だけ復元されている。
「第三弁です! そこを開けば欠落の正面へ流れる!」
「分かっている!」
ルグエが鉄棒を差し込む。
弁が開いた。
轟音とともに、防火水路から水が噴き上がった。
水は黒い欠落へぶつかった。
蒸気のような白い霧が立つ。
影が、退いた。
消えていた管理棟の輪郭が戻るわけではない。だが、広がりは止まり、黒い境界が油混じりの水に押されるように後退していく。
「水が効くんじゃない」
ホーコンは流れを見た。
「油を薄めて地下へ戻している。あれは油の流れに沿って出てきた」
ルグエは答えなかった。
その沈黙が肯定に近いことを、ホーコンはもう知っていた。
*
空が青白くなり始めたころ、給水塔が透けた。
「何もしていないぞ」
「日の出です」
塔の鉄脚が光の粒のようにほどける。
水路も、真新しい配管も、十二年前の壁も消えていった。
最後の一滴が落ちたとき、そこには再び現在の廃墟だけが残った。
ホーコンはすぐ地下へ戻り、油量計を見た。
針は昨夜より大きく下がっている。
「召喚に使った?」
ルグエはしばらく黙っていたが、否定しなかった。
「これを何度も使えば、地下へ戻す油がなくなる」
「だから触るなと言った」
ホーコンは数字を書き留めた。
助かった。だが、無制限には使えない。
地上へ戻ると、昨夜の放水で給水塔跡の瓦礫が大きく崩れていた。
割れた床板の下に、布巻きの細長い箱が見える。
ホーコンは瓦礫をどけた。
「これは?」
中には、小型の圧力計、細身のレンチ、絶縁柄のねじ回し、折り畳み式の測定針が揃っていた。
十二年も埋まっていたとは思えないほど、油紙で丁寧に包まれている。
昨夜の給水塔と違い、朝日を浴びても消えない。
「召喚物じゃない」
「そいつは元からそこにあった」
ルグエの声が低くなる。
ホーコンは工具箱の内蓋に付いた真鍮の銘板を拭った。
女性用の細い工具一式。その持ち主の名前が、一行だけ刻まれていた。
『クリストエイン』
ルグエが、初めて明確に目を逸らした。




