第2話 十二年間の管理人
石油ポンプは、錆びた馬の首のように上下していた。
ぎい。
がこん。
ホーコンは三脚を畳み、音のする方へ歩いた。
閉鎖施設で機械が動いているなら、確認しないという選択肢はない。
油で黒くなった排水溝の蓋を測量棒で確かめながら、貯蔵槽の陰を回った。
動いているのは採油塔ではなかった。
地上へ油を汲み上げるはずの主管から、逆向きに低い振動が伝わっている。
「戻している?」
ホーコンが配管の矢印を確認した瞬間、背後で金属音がした。
「そこを踏むな」
低い声だった。
振り向くと、作業灯を下げた老人が立っていた。
厚い外套の袖は油で黒く、白髪は短く刈られている。片手には長い鉄棒。杖ではない。手動弁を回すためのものだ。
「三歩右だ。左は蓋が抜ける」
ホーコンは足元を見た。
老人の言う通り、左側の鉄板は中央だけわずかに沈んでいた。
「管理人ですか」
「だった」
「今は?」
「今も同じことをしている」
老人はそれだけ言い、ホーコンの横を通り過ぎた。
ポンプ脇の弁へ鉄棒を差し込み、体重をかける。
きしむ音とともに圧力計の針が少し下がった。
「ルグエだ」
名乗るまでに、弁を三つ調整した。
「ホーコンです。王国測量院から――」
「札を見た」
ホーコンは胸元を見た。
資格を剥奪されたため、一等測量士章はない。あるのは閉鎖測量命令書を入れた革筒だけだ。
「何の札を?」
「門の新しい封印札だ。昨日までなかった」
なるほど、とホーコンは思った。
人より設備を見ている男らしい。
「ここは十二年前に閉鎖されたはずですが」
「ああ」
「なぜ動かしているんです」
「止めると困る」
「誰が?」
ルグエは答えなかった。
代わりに計器盤を睨み、手回しポンプの柄を押し下げる。
ぎい。
がこん。
地上へ汲み出す設備ではない。
黒い油を地下へ押し戻している。
ホーコンは配管を指で追った。
主管から地下還流管へ。途中の自動弁は死んでいる。圧力制御器も外され、代わりに手製の歯車と鎖が組まれていた。
「これを一人で?」
「十二年やれば慣れる」
交換された革帯、継ぎ当てされた蒸気管、異なる規格のボルト。十二年かけて、動く一系統だけを残している。
「閉鎖命令に違反しています」
「そうだな」
「処罰されるかもしれない」
「十二年遅い」
ルグエはまた弁を回した。
それ以上聞いても答えない。
ホーコンは質問を止めた。
設備を見た方が早い。
*
日没までに、ホーコンは管理棟周辺へ六本の仮測量杭を打った。
ルグエは手伝わなかったが、邪魔もしなかった。
夕食になると、塩漬け肉を二人分だけ鍋へ入れた。
「客扱いはするんですね」
「倒れられると運ぶのが面倒だ」
管理棟には十二年間の生活の跡があった。寝台も食器も一人分。壁際には交換日を書いた部品札が並ぶ。
ただし、十二年前の事故について書かれたものは一枚もなかった。
「事故当日もここに?」
ホーコンが聞くと、ルグエの匙が止まった。
「いた」
「十三日間に何があったんです」
「話せん」
「知らない、ではなく?」
「話せん」
声色は変わらない。
ホーコンはそれ以上追及しなかった。十二年間守った秘密なら、一晩では崩れない。
ならば、自分で調べる。
食後、管理棟正面の表示板を測っていたときだった。
ホーコンは違和感に気づいた。
『第三圧送――』
白い文字の末尾が読めない。
塗料が剥げたのではなかった。
文字のあった場所だけ、板そのものが黒く抜けている。
「ルグエ」
老人が外へ出た。
表示板を見るなり、顔色が変わる。
「灯りを消せ。地下へ行く」
黒い欠落が広がった。
『第三圧送区』の区が消え、送が消え、圧が消える。
同時に、表示板の後ろにあった壁の輪郭までなくなった。
穴ではない。向こう側も見えない。ただ、そこだけ世界が書かれていない。
「走れ!」
ルグエが怒鳴った。
ホーコンは走らなかった。
鞄から巻尺と方位盤を取り出す。
「何をしている!」
「広がり方を測る」
「死にたいのか!」
「逃げる方向が正しい保証がない」
欠落は壁ではなく、地下の何かに沿って広がっている。
ホーコンは最初の杭まで十二歩。
そこから北東へ七歩。
黒い境界へ小石を投げる。
音がしなかった。
「西は駄目です。三十秒前より二歩広がっている」
「そんなものを数えてどうする!」
「南東は止まっています」
ホーコンは二本目の杭を見た。
杭の手前で黒い欠落が不自然に曲がっている。
地表ではなく地下構造に沿っている。
夕方に写した簡易図を広げた。排水管、還流管、旧送油管。
欠落が避けている線が一つだけある。
「地下制御室へ降りる保守管路は?」
ルグエが目を細めた。
「なぜ知ってる」
「図面にはありません。でも、還流管がここだけ二重です。人が入る空間がある」
一瞬の沈黙。
「……こっちだ」
ルグエが走り出した。
今度はホーコンも続いた。
背後で管理棟の窓が一つ、音もなく消えた。
*
錆びた床板を外すと、地下へ続く鉄梯子があった。
二人が降りた直後、ルグエが重い蓋を閉める。
地下には黒い油の臭いが満ちていた。
ホーコンは作業灯を上げた。
「これは……」
制御室の中央に、巨大な円盤が立っていた。
人の背丈の三倍ほどある金属の輪に、一から三十一までの数字と十二の月名、何本もの針が刻まれている。
工場の圧力計ではない。
時計にしては日付が多すぎる。
ホーコンは円盤の下に刻まれた文字を読んだ。
『王国暦接続・万年式』
そして、十三日分の記録が消えた理由を探しに来た測量士は、地下で巨大な金属製のカレンダーを見上げた。




