第1話 消えた十三日
紙は、破られたのではなかった。
王国測量院地下三階。窓のない原簿庫で、ホーコンは革手袋を外し、机上の綴じ紐へ指を滑らせた。
北部第七測量区――エッダ石油ポンプ場周辺の原簿。
十二年前の五月二日まではある。次の頁に記されているのは五月十六日。
十三日分がない。
古い記録には欠損がつきものだ。火災、水濡れ、虫害、担当者の怠慢。だが、これは違う。
綴じ穴の間隔が十三日分だけ均等に詰め直され、切断面には紙粉が残っていない。頁を抜いた後、原簿そのものが最初からその厚さだったように再製本されている。
「……消したのか」
ホーコンは定規を当てた。背表紙の革の縮み、糸の撚り、墨の退色まで測る。
十二年前に一度だけ解体され、その後、同じ技法で綴じ直されている。
しかも欠落は日誌だけではない。
測量杭の設置記録、油槽の搬出量、作業員の交代表、王国暦への送信控え。別々の棚に保存されるはずの文書が、同じ十三日だけ空白になっていた。
偶然ではない。
ホーコンは三時間かけて照合し、結論を一行にまとめた。
『エッダ石油ポンプ場周辺、王国暦五月三日から十五日までの記録に人為的欠落あり』
その報告書を携え、彼は暦法院へ向かった。
*
「五月三日から十五日。十三日間ですね」
暦法院長ヴァレンシーアは、報告書を見下ろしたまま言った。
「はい」
「あなたが原簿庫へ入ったのは昨日の十六時十二分。退出は十九時四十八分。閲覧した箱は七箱。封印を解いた原簿は十九冊」
顔を上げる。
淡い灰色の瞳には迷いがなかった。
「間違いありませんね、ホーコン一等測量士」
「ありません」
彼女が昨日の入退室時刻まで覚えていることに、ホーコンは驚かなかった。
ヴァレンシーアは一度見た公文書を忘れない。暦法院では、それを彼女の生来の資質だと噂していた。
「では、確認します。欠落を最初に発見したのはあなた」
「そうです」
「欠落した原簿へ最後に触れた記録があるのもあなた」
「最後ではありません。昨日以前の閲覧記録が――」
「ありません」
返答が早すぎた。
ホーコンは黙った。
ヴァレンシーアは机の脇から一冊の薄い台帳を取り出した。
「原簿庫の閲覧記録です。十二年前から昨日まで、該当原簿の閲覧者は四名。三名はすでに死亡。現存する最後の閲覧者はあなたです」
「だから、私が十三日分を消したと?」
「私は事実を並べています」
「なら、もう一つ並べてください。十三日分を抜いて再製本するには、昨日の三時間半では足りない」
一瞬だけ、室内が静かになった。
ヴァレンシーアは折れなかった。
「事前に準備していた可能性があります」
「何のために」
「それを調べるのが暦法院です」
彼女は新しい書類を一枚、机の上へ置いた。
資格剥奪決定書。
その下に、王都居住権剥奪通知。
さらに、北部終身閉鎖測量命令書。
ホーコンは三枚目だけを手に取った。
「処分が早いですね」
「記録改竄の疑いがある測量士を原簿庫へ残す方が危険です」
命令書には、赴任先としてエッダ石油ポンプ場が記されていた。
十二年前の事故以来、閉鎖された施設だ。
任務は残存設備の測量、危険区域の確定、閉鎖図面の作成。
そして最後の一行。
『削除境界を確定せよ』
ホーコンの指が止まった。
「閉鎖測量に、削除境界が必要なんですか」
「北部では旧式の表現が残っています」
「測量院の現行規定では使いません。少なくとも二十三年前の改訂以降は」
ヴァレンシーアは答えなかった。
ホーコンは命令書を折らずに持ち上げた。
「帰還条件は?」
「ありません。命令は終身です。王都への帰還も禁じます」
そこでようやく、彼の中で数字が一本の線につながった。
十三日分の欠落。
事故で放棄された土地。
異例の速さで決まった追放。
そして、存在しないはずの『削除境界』。
自分に境界を測らせる。
その後、その境界の内側を何かと一緒に消す。
何を消すのかは、まだ分からない。
自分まで含まれるのかも、証拠はない。
だが、測らずに逃げれば永遠に分からない。
「承知しました」
ヴァレンシーアの眉が、ごくわずかに動いた。
「異議を申し立てないのですか」
「申し立てれば、任地は変わりますか」
「いいえ」
「では無駄です」
ホーコンは命令書を鞄へ入れた。
「私はエッダを測ります。十三日間に何があったのかも」
ヴァレンシーアは彼を見つめた。
「深く掘り過ぎれば、戻れなくなることもあります」
「もう帰還禁止だそうですから」
ホーコンは一礼し、暦法院を出た。
*
王都から北へ九日。
最後の三日は乗合馬車すらなく、ホーコンは一人で歩いた。
人に頼るのは嫌いではない。ただ、自分でできることを他人へ渡す理由が分からない。
食事は携帯食で足りる。野営地は自分で選べる。方角は測量士に尋ねるまでもない。
九日目の夕刻、黒い丘陵の向こうに鉄骨の塔が見えた。
エッダ石油ポンプ場。
錆びた外柵。割れた窓。傾いた貯蔵槽。線路は赤茶けた草に埋まり、門柱の施設名は半分剥がれている。
人の気配はない。
ホーコンは門前で鞄を下ろし、三脚を立てた。
まず方位を取る。次に門柱から管理棟までの距離。地面の沈下量。油臭の強い場所を記録する。
暗くなる前に最低限の基準点だけは作っておきたかった。
照準器を覗き、目盛りを合わせる。
そのときだった。
ぎい、と低い音がした。
風ではない。
一定の間隔で、また鳴る。
ぎい。
がこん。
ぎい。
がこん。
ホーコンは照準器から目を離した。
十二年前に閉鎖され、無人のはずの施設。その最奥で、一基だけ石油ポンプが上下していた。




