↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神影の暦術師  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/25

第24話 十三日目の記録

 五月十五日を開く準備には、半日を使った。


 地下制御室に残すのは、ホーコン、クリストエイン、ルグエ、アズ、ブレント、ルアヴエル、ヴァレンシーアの七人だけ。

 地上の住民は北側宿舎へ移し、王国兵も外周へ下げた。鐘一回で観測中止、二回で地下から退避、三回ならポンプ場そのものを捨てる。


 「手動記録盤だけを開きます」


 ホーコンは床へ打った測量杭を確認した。


 「五月十五日の制御室全体は戻さない。現在の配管や壁と重なれば、暦圧が起きる。開くのは記録盤の奥行き二尺、幅三尺までです」


 「何分?」


 アズが聞く。


 「最長三分。異常が出れば、その前に閉じます」


 「あなたが異常を見つけた時だけ?」


 クリストエインが言った。


 ホーコンは一瞬だけ黙り、それから首を横へ振った。


 「全員です。私が続行できると思っても、誰か一人が中止を求めたら閉じます」


 「うん」


 それでいい、と彼女は頷いた。


     *


 黒く塗り潰された五月十五日に、クリストエインが鍵を差し込む。


 万年カレンダーの歯車が、一段だけ回った。


 封印油が細い管を通って落ちる。


 手動記録盤の奥が暗くなった。


 黒ではない。

 色が抜けたような空白の中へ、十二年前の制御室が薄く浮かぶ。


 最初に聞こえたのは警報だった。


 『未来指定を解除しろ!』


 若いルグエの声。


 次に、現在より髪の長いクリストエインが記録盤へ飛びつく。


 『解除できない。日付そのものが返ってこない!』


 床の中央には、穴があった。


 以前ホーコンが踏み込んだ欠落より小さい。

 だが同じだ。

 縁を見ても深さが測れず、近くの文字から順に消えている。


 勤務札の番号。

 弁の名称。

 配管の製造年。


 そして人の名前。


 『中央暦法院から緊急閉鎖命令!』


 誰かが叫んだ。


 映像の奥へ、十二年前のヴァレンシーアが現れた。


 現在と同じように背筋を伸ばしている。

 ただし、顔には隠し切れない疲労があった。


 『十三日分を切り離します』


 現在のヴァレンシーアが目を逸らさない。


 過去の彼女は記録盤へ院長印を押した。


 『事故発生日から十三日間の人員記録、設備記録、輸送記録を王国暦本体から閉鎖。欠落を地下記録層へ固定します』


 『中に人がいる!』


 若いルグエが怒鳴る。


 『承知しています』


 『承知してやることか!』


 『閉じなければ、王都本体原簿まで接続されます』


 過去のヴァレンシーアは、一人ずつ名前を読み上げ始めた。


 百八十七名。


 白蝶平原の石碑にあった名と同じだった。


 読み上げながら、十三日分の記録が一枚ずつ黒く沈んでいく。


 影が床下へ押し戻される。


 その時だった。


 『七一二!』


 誰かが叫ぶ。


 過去のクリストエインの胸から、金属の札が外れた。


 細い鎖が切れたのではない。

 札に刻まれた名前だけが先に薄れ、まるで黒い穴へ引かれたように落ちていく。


 彼女自身はルグエに腕を掴まれ、床の縁へ残った。


 だが名前札だけが、影の中心へ沈んだ。


 『私の生存記録を閉じないで!』


 過去のクリストエインが叫ぶ。


 『札が戻るまで、私を確定させたら駄目!』


 映像が激しく揺れた。


 ホーコンは測量盤へ目を落とす。


 影の中心と、現在のクリストエインの位置。

 十二年前の座標。

 現在まで残る現存錨。


 線が一本につながった。


 「分かりました」


 ホーコンは言った。


 「身体が十三日目に残ったんじゃない」


 クリストエインが自分の胸を見る。


 「名前札が残った」


 「はい。あなたの身体は事故当日に影の外へ出ている。でも、生存記録を閉じるための名前札だけが影の中心に落ちた。だから生存にも死亡にも確定できなかった」


 未閉鎖記録。


 十二年間、彼女だけが昨日から呼び戻せた理由が、ようやく形になった。


     *


 記録盤の縁から、細い黒が漏れた。


 「閉じる?」


 アズが聞く。


 ホーコンは時計を見る。


 一分四十秒。


 「危険域にはまだ入っていません。ただし、影が現在側へ三寸出ています」


 以前なら、そこで自分だけで続行を決めていた。


 ホーコンはクリストエインへ向き直る。


 「ここから先は、あなた自身の性質を確かめることになります。体操着を調べた時の試験では、影はあなたを攻撃せず、内側へ戻そうとした」


 「腕を入れれば確かめられる?」


 「可能です。ただし危険です」


 「どのくらい」


 「現存錨の工具を外さない。肘より先へ入れない。十秒で戻す。感覚異常、名前の欠落、工具の変色のどれか一つが出たら即中止」


 危険も条件も、全部言った。


 「判断は、あなたに任せます」


 クリストエインは少しだけ目を細めた。


 「前なら止めた?」


 「止めました」


 「今は?」


 「止めたいです。でも、決めるのは私ではありません」


 彼女は頷いた。


 「じゃあ、やる」


 腰の整備工具を確かめ、右腕を影の縁へ入れる。


 一秒。

 二秒。


 皮膚は消えない。


 黒いものが腕へまとわりつくが、食い破ろうとはしなかった。

 むしろ、失くした部品を元の場所へ引くように奥へ引っ張る。


 「戻して!」


 八秒でアズが叫んだ。


 クリストエインはすぐ腕を抜いた。


 指も、名前も、工具も残っている。


 「痛みは?」


 「ない。懐かしい感じがした」


 「それが一番危ない感想です」


 ホーコンが答えると、彼女は少し笑った。


 ルアヴエルが鐘を一回鳴らす。


 ホーコンは即座に五月十五日を閉じた。


 記録盤の光景が消え、地下制御室へ現在の色が戻る。


     *


 「一つ、言うことがある」


 人が動き始める前に、ホーコンはクリストエインへ言った。


 「摩耗を知った時、私は黙りました。その事実を話した後も、あなたを危険から遠ざけることを優先しようとした」


 「うん」


 「すみませんでした」


 クリストエインはすぐには答えなかった。


 やがて、自分の右腕を見ながら言う。


 「謝るのは受け取る」


 それからホーコンを見る。


 「でも条件がある」


 「何ですか」


 「次から、悪い情報ほど先に教えて。私のことなら、なおさら」


 「約束します」


 「なら協力する」


 簡単な言葉だった。


 だがホーコンには、その方が重かった。


 判断を任せるとは、危険から遠ざけることではない。

 危険を隠さず渡し、それでも相手が選んだ答えを受け取ることだ。


 地上へ戻る階段を上がる。


 まだ日の出には遠い。

 西の空にも夜の色は来ていない。


 その途中だった。


 「ホーコン」


 クリストエインが足を止めた。


 振り返る。


 彼女の右手が、向こうの壁を透かして見えた。


 一瞬だけ。


 瞬きをした時には元へ戻っている。


 日の出ではない。

 召喚を解除したわけでもない。


 クリストエイン自身も、自分の手を見ていた。


 「今の、見えた?」


 「はい」


 ホーコンは答えた。


 今度は、何も隠さなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。