第24話 十三日目の記録
五月十五日を開く準備には、半日を使った。
地下制御室に残すのは、ホーコン、クリストエイン、ルグエ、アズ、ブレント、ルアヴエル、ヴァレンシーアの七人だけ。
地上の住民は北側宿舎へ移し、王国兵も外周へ下げた。鐘一回で観測中止、二回で地下から退避、三回ならポンプ場そのものを捨てる。
「手動記録盤だけを開きます」
ホーコンは床へ打った測量杭を確認した。
「五月十五日の制御室全体は戻さない。現在の配管や壁と重なれば、暦圧が起きる。開くのは記録盤の奥行き二尺、幅三尺までです」
「何分?」
アズが聞く。
「最長三分。異常が出れば、その前に閉じます」
「あなたが異常を見つけた時だけ?」
クリストエインが言った。
ホーコンは一瞬だけ黙り、それから首を横へ振った。
「全員です。私が続行できると思っても、誰か一人が中止を求めたら閉じます」
「うん」
それでいい、と彼女は頷いた。
*
黒く塗り潰された五月十五日に、クリストエインが鍵を差し込む。
万年カレンダーの歯車が、一段だけ回った。
封印油が細い管を通って落ちる。
手動記録盤の奥が暗くなった。
黒ではない。
色が抜けたような空白の中へ、十二年前の制御室が薄く浮かぶ。
最初に聞こえたのは警報だった。
『未来指定を解除しろ!』
若いルグエの声。
次に、現在より髪の長いクリストエインが記録盤へ飛びつく。
『解除できない。日付そのものが返ってこない!』
床の中央には、穴があった。
以前ホーコンが踏み込んだ欠落より小さい。
だが同じだ。
縁を見ても深さが測れず、近くの文字から順に消えている。
勤務札の番号。
弁の名称。
配管の製造年。
そして人の名前。
『中央暦法院から緊急閉鎖命令!』
誰かが叫んだ。
映像の奥へ、十二年前のヴァレンシーアが現れた。
現在と同じように背筋を伸ばしている。
ただし、顔には隠し切れない疲労があった。
『十三日分を切り離します』
現在のヴァレンシーアが目を逸らさない。
過去の彼女は記録盤へ院長印を押した。
『事故発生日から十三日間の人員記録、設備記録、輸送記録を王国暦本体から閉鎖。欠落を地下記録層へ固定します』
『中に人がいる!』
若いルグエが怒鳴る。
『承知しています』
『承知してやることか!』
『閉じなければ、王都本体原簿まで接続されます』
過去のヴァレンシーアは、一人ずつ名前を読み上げ始めた。
百八十七名。
白蝶平原の石碑にあった名と同じだった。
読み上げながら、十三日分の記録が一枚ずつ黒く沈んでいく。
影が床下へ押し戻される。
その時だった。
『七一二!』
誰かが叫ぶ。
過去のクリストエインの胸から、金属の札が外れた。
細い鎖が切れたのではない。
札に刻まれた名前だけが先に薄れ、まるで黒い穴へ引かれたように落ちていく。
彼女自身はルグエに腕を掴まれ、床の縁へ残った。
だが名前札だけが、影の中心へ沈んだ。
『私の生存記録を閉じないで!』
過去のクリストエインが叫ぶ。
『札が戻るまで、私を確定させたら駄目!』
映像が激しく揺れた。
ホーコンは測量盤へ目を落とす。
影の中心と、現在のクリストエインの位置。
十二年前の座標。
現在まで残る現存錨。
線が一本につながった。
「分かりました」
ホーコンは言った。
「身体が十三日目に残ったんじゃない」
クリストエインが自分の胸を見る。
「名前札が残った」
「はい。あなたの身体は事故当日に影の外へ出ている。でも、生存記録を閉じるための名前札だけが影の中心に落ちた。だから生存にも死亡にも確定できなかった」
未閉鎖記録。
十二年間、彼女だけが昨日から呼び戻せた理由が、ようやく形になった。
*
記録盤の縁から、細い黒が漏れた。
「閉じる?」
アズが聞く。
ホーコンは時計を見る。
一分四十秒。
「危険域にはまだ入っていません。ただし、影が現在側へ三寸出ています」
以前なら、そこで自分だけで続行を決めていた。
ホーコンはクリストエインへ向き直る。
「ここから先は、あなた自身の性質を確かめることになります。体操着を調べた時の試験では、影はあなたを攻撃せず、内側へ戻そうとした」
「腕を入れれば確かめられる?」
「可能です。ただし危険です」
「どのくらい」
「現存錨の工具を外さない。肘より先へ入れない。十秒で戻す。感覚異常、名前の欠落、工具の変色のどれか一つが出たら即中止」
危険も条件も、全部言った。
「判断は、あなたに任せます」
クリストエインは少しだけ目を細めた。
「前なら止めた?」
「止めました」
「今は?」
「止めたいです。でも、決めるのは私ではありません」
彼女は頷いた。
「じゃあ、やる」
腰の整備工具を確かめ、右腕を影の縁へ入れる。
一秒。
二秒。
皮膚は消えない。
黒いものが腕へまとわりつくが、食い破ろうとはしなかった。
むしろ、失くした部品を元の場所へ引くように奥へ引っ張る。
「戻して!」
八秒でアズが叫んだ。
クリストエインはすぐ腕を抜いた。
指も、名前も、工具も残っている。
「痛みは?」
「ない。懐かしい感じがした」
「それが一番危ない感想です」
ホーコンが答えると、彼女は少し笑った。
ルアヴエルが鐘を一回鳴らす。
ホーコンは即座に五月十五日を閉じた。
記録盤の光景が消え、地下制御室へ現在の色が戻る。
*
「一つ、言うことがある」
人が動き始める前に、ホーコンはクリストエインへ言った。
「摩耗を知った時、私は黙りました。その事実を話した後も、あなたを危険から遠ざけることを優先しようとした」
「うん」
「すみませんでした」
クリストエインはすぐには答えなかった。
やがて、自分の右腕を見ながら言う。
「謝るのは受け取る」
それからホーコンを見る。
「でも条件がある」
「何ですか」
「次から、悪い情報ほど先に教えて。私のことなら、なおさら」
「約束します」
「なら協力する」
簡単な言葉だった。
だがホーコンには、その方が重かった。
判断を任せるとは、危険から遠ざけることではない。
危険を隠さず渡し、それでも相手が選んだ答えを受け取ることだ。
地上へ戻る階段を上がる。
まだ日の出には遠い。
西の空にも夜の色は来ていない。
その途中だった。
「ホーコン」
クリストエインが足を止めた。
振り返る。
彼女の右手が、向こうの壁を透かして見えた。
一瞬だけ。
瞬きをした時には元へ戻っている。
日の出ではない。
召喚を解除したわけでもない。
クリストエイン自身も、自分の手を見ていた。
「今の、見えた?」
「はい」
ホーコンは答えた。
今度は、何も隠さなかった。




