第23話 守られた沈黙
黒く変色した鍵は、ホーコンの掌に収まるほど小さかった。
歯の形は古い。王国暦法院の封印鍵ではない。
ポンプ場の保守設備で使われていた型だ。
「これで何が開くんです」
「事故記録の手動箱だ」
ルグエは地下制御室の奥を見た。
「だが、その前に話す。十二年、黙ってたことを全部だ」
ホーコンはすぐ鍵を差し込まなかった。
「クリストエインも呼びます」
ルグエが目を上げる。
「本人へ話す内容なら、本人がいるところで聞きます」
老人はしばらく黙り、それから頷いた。
*
翌朝。
必要最小限の範囲だけ五月二日を開き、クリストエインを召喚した。
現存錨の整備工具を腰へ固定すると、彼女は現在の地下制御室まで歩いてくる。
アズ、ブレント、ルアヴエル、ヴァレンシーアも呼んだ。
ルグエは嫌そうな顔をしたが、追い出せとは言わなかった。
「私にも聞く権利があります」
ヴァレンシーアが言う。
「十二年前の処理責任者として」
「権利かどうかは知らん。ただ、今さら半分だけ隠しても仕方ねえ」
ルグエは壁へ背を預けた。
「事故の始まりは、未来から新しい循環ポンプを呼ぶ試験だった」
クリストエインの眉が動いた。
「未来から?」
「ああ。今みたいに昨日の設備を重ねる試験じゃない。もっと先の、まだ存在しない高効率のポンプを引っ張ろうとした」
ホーコンは万年カレンダーを見る。
現在の目盛りより先は、亀裂と黒い変色で読み取れない。
「成功したんですか」
「ポンプは来なかった」
ルグエの答えは短かった。
「代わりに、あの白と青の服が落ちてきた。それから、日付のない穴が開いた」
体操着。
王国暦の照合盤が、どの年代もどの土地も示さなかった衣服。
「日付のない穴って、神の影?」
アズが尋ねた。
「今の影と同じものかは、その時は分からなかった。黒いのに、暗くない。中を見ても距離が分からない。文字を近づけると消えた」
ホーコンは体操着で初めて踏み込んだ内部を思い出す。
光ではなく、距離そのものが欠けていた空間。
同じだ。
「事故が、あれを最初から作ったわけではありません」
ヴァレンシーアが口を開いた。
「王国暦はそれ以前から、政治的に不都合と判断された人、土地、出来事の記録を本体原簿から切り離し、地下記録層へ送っていました。未来指定の試験が、その削除層へ穴を開けたのです」
消したものは、なくなっていたのではない。
見えない場所へ押し込められ、積み重なっていた。
「試験を止めても穴は閉じなかった」
ルグエは続けた。
「逆に広がった。制御室の勤務札、配管番号、日付表示。近いものから消えていった」
クリストエインは黙って聞いていた。
「それで私は?」
老人の口が止まった。
十二年間守ってきた沈黙が、最後に喉へ引っかかっているようだった。
「お前が閉じた」
「どうやって」
「自分の記録を、閉じきらないようにしてだ」
クリストエインは瞬きをした。
ルグエは壁の記録窓を指した。
「事故の時、生きてる人間は生存記録へ戻す。死んだ者は死亡記録へ送る。どっちかに入れば、その日の記録は閉じる。それが普通だった」
「私は、どっちにも入らなかった」
「ああ」
「自分で?」
「自分でだ」
部屋が静まった。
「穴の中心が制御室へ重なった時、お前は『私の記録を確定するな』と言った。生きて帰ったことにもするな。死んだことにもするな。自分を十三日間の内側へ残せば、穴が完全に現在へ出てくるのを止められるって」
クリストエインは、自分の胸へ手を当てた。
「私が、封をした」
「部品みたいに言うな」
ルグエの声が急に強くなった。
「お前は設備じゃねえ」
クリストエインが顔を上げる。
「でも結果として、私は残った」
「だから親父さんが俺に頼んだ」
ルグエはホーコンの掌にある鍵を見た。
「『娘本人が真相を選べる時まで話すな』ってな」
*
「どうして?」
クリストエインが尋ねた。
責める声ではなかった。
「私が自分でやったなら、早く言えばよかった」
「最初に呼ばれたお前は、昨日のことすら覚えてなかった」
ルグエは答えた。
「自分が何を選んだかも、なぜ選んだかも分からねえ。そんな奴に『お前が残ったから十二年こうなった』って渡したら、どうなる」
ホーコンは何も言わなかった。
自分も似たことをした。
記録摩耗を知らせれば恐怖だけを渡すと思い、クリストエインから判断材料を隠した。
違うのは、ルグエが父親との約束を十二年間守り続けたことだけだ。
「罪悪感だけ背負わせたくなかった」
ルグエが言う。
「お前が、自分のことを自分で決められるところまで戻るまでは」
クリストエインは長く黙った。
工具袋の金具を指で一度押す。
「今の私は、自分で決められると思う?」
「思う」
「じゃあ、話して」
「もう話した」
「全部じゃない」
クリストエインは鍵を見た。
「父さんが何を残したのか。十三日目に何が起きたのか。私がどうやって残ったのか。まだある」
ルグエは目を細めた。
「怒らねえのか」
「十二年黙ってたこと?」
「ああ」
「今、怒っても記録は増えない」
朴訥に言い切る。
「それより、残ってる情報を全部見たい。見たあとで怒るかは決める」
アズが小さく息を吐いた。
ブレントは記録用紙を広げる。
ルアヴエルは退避用の鐘を入口へ移した。
ホーコンは鍵をクリストエインへ差し出した。
「あなたが開けますか」
彼女は受け取った。
「うん」
地下制御室の最奥。
錆びた壁面の下に、細い鍵穴がある。
クリストエインが鍵を差し込む。
十二年間動かなかった錠が、重い音を立てた。
内側から現れたのは、事故日付の手動記録盤だった。
最下段に、一つだけ黒く塗り潰された日付がある。
五月十五日。
欠落した十三日目。
クリストエインは手を離さなかった。
「次は、これを開く」
ホーコンは頷いた。
「全員が退避できる準備をして、短時間だけです」
「危険も測量結果も、全部教えて」
「はい」
今度は迷わず答えた。




