第22話 王国を残す計算
ヴァレンシーアが開いた集計簿には、二本の縦線が引かれていた。
左は北部第七測量区。
右は王国全登録人口。
数字を一つずつ読まなくても、桁の差は見れば分かる。
集計簿の左欄には、いま食堂で眠っている子どもも、給水当番の老人も、王国軍の兵も、同じ一行の合計として収まっている。
右欄には、その何倍もの町と村が束ねられていた。
「北部を残し、神の影が王都本体原簿へ到達した場合、削除対象は王国全域へ拡大します」
ヴァレンシーアは左欄へ指を置いた。
「逆に、北部を王国暦から切り離せば、失う範囲はここで止められる可能性がある」
「可能性?」
アズが聞き返す。
「断定はしません。十二年前と条件が違うからです」
「だったら、昔と同じ方法を使う根拠にはならない」
「違います。条件が変わったからこそ、現在の数字で選び直します」
ヴァレンシーアは別の頁を開いた。
食料備蓄。
水路。
病床。
王都の工房。
通信塔。
輸送車両。
人間だけではない。
王国が明日も動くために必要な設備が、列ごとに記されている。
「王都を放棄し、この人数を別地域へ移すには時間が足りません。工房を止めれば水路の補修部品が不足し、通信塔を止めれば地方への命令系統が切れる。王都を残すことは、王都に住む者だけを残すことではありません」
ブレントは黙って頁を見ていた。
制度が崩れれば、遠くの町まで巻き込まれる。
彼には、その意味がよく分かるのだろう。
だがアズは集計簿を閉じなかった。
「一つ抜けてる」
「何がですか」
「影が大きくなる速度」
ヴァレンシーアの目が止まった。
アズは第三油槽の方角を指した。
「私たちはここへ来てから、何度も黒い油を地下へ戻した。あれを減らすと影が強くなる。昨日は、油槽そのものまで食われた」
「封印油と呼んでいる物質ですね」
「知っていたの?」
「事故記録には残っています」
クリストエインが一歩前へ出た。
「じゃあ、どうして採ったの」
ヴァレンシーアは答えるまでに、ほんの一拍だけ間を置いた。
「王都の工業設備を維持するためです」
ルグエの顔から血の気が引いた。
「まさか」
「十二年前以降、北部油田の生産量を段階的に引き上げました。王都の燃料不足を補うため、封印油を精製燃料へ転用する命令を承認したのは私です」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
ポンプの低い駆動音だけが、遠くで続いている。
ルグエが掠れた声を出した。
「地下へ戻す量より、汲み上げる量を増やしたのか」
「当時の観測では、地下封印は安定していました」
「十二年前の観測だろうが」
「はい」
ヴァレンシーアは否定しなかった。
*
「測ります」
ホーコンは集計簿を閉じた。
口で争っても前提は変わらない。
変わったものを測ればいい。
十二年前の削除境界は、彼の終身閉鎖測量命令に添付された原図へ残っている。
現在の欠落範囲は、ここへ来てから自分が毎日記録している。
ホーコンはアズへ北側、ルアヴエルへ東側の境界確認を頼んだ。
「二人の値をください。私は西と南を測ります」
以前なら四方向すべてを自分で歩いていただろう。
ルアヴエルは短くうなずいた。
「終了時刻は?」
「日没前。危険を感じたら値を捨てて戻ってください」
「了解した」
アズは笑わなかったが、反対もしなかった。
三方向へ分かれる。
境界杭を打ち、黒い欠落の縁までの距離を取る。
地面の沈み、蝶が落ちる位置、文字が消える看板、油管の腐食線。
測れるものを一つずつ測った。
日没前、制御室の床へ四方向の値を並べる。
境界線は円ではない。油管沿いに伸び、古い暦通信柱の周囲で膨らみ、白蝶平原の手前だけ浅くへこんでいる。
単純な距離では比較できないため、ホーコンは測量区を細かな方形へ切り分けた。アズとルアヴエルの記録にも同じ番号を振り、互いの観測点が重なる場所だけ誤差を取り直す。
ホーコンは十二年前の原図を重ねた。
線が合わない。
現在の欠落は、昔の削除境界を大きく越えている。
面積を区画ごとに割り、測量盤で足し直す。
一度。
二度。
三度。
「結果は?」
ヴァレンシーアが尋ねた。
「十二年前の約三倍です」
部屋が静まった。
「北部を削除しても、十二年前と同じ範囲には収まりません。採油を続け、記録を削除するたび、封印が薄くなって影そのものが育っている」
アズが続ける。
「小さい方を切れば終わる計算じゃない。切るたびに、次に切る場所が大きくなる」
ヴァレンシーアは反論しなかった。
集計簿を開き直す。
北部削除後の推定欄へ新しい数値を書き込み、何本もの線を引き直す。
計算は長く続いた。
やがて彼女は筆を置いた。
「前提を更新します」
「削除は中止?」
クリストエインが尋ねる。
「いいえ」
答えは変わらなかった。
「影の成長速度は想定以上です。だからこそ、王都移転に必要な時間がありません。全面移転を始める前に、本体原簿へ到達する可能性が高い」
「それでも北部を切るのか」
ホーコンが聞く。
「切り離しで得られる時間が短くても、ゼロではありません。その時間で王都側の原簿を分散させます」
ヴァレンシーアは計算を変えた。
だが、選択は変えなかった。
*
夜。
ルグエがホーコンを地下制御室へ呼んだ。
老人は十二年間、一度も開けなかった壁面の小箱の前に立っている。
「今日の話で、条件が変わった」
首から細い鎖を外す。
先には、黒く変色した一本の鍵が下がっていた。
「事故の日、俺が預かったものだ」
ホーコンへ差し出す。
「誰からです」
ルグエはしばらく鍵を見つめた。
「クリストエインの親父だ」




