第21話 暦法院長
ヴァレンシーアは、正午前にエッダへ入った。
先頭に暦法院の紋章旗。その後ろに灰色の外套を揃えた親衛隊。馬車は一台だけで、荷台には封印箱と原簿ケースが固定されている。
歓迎の用意はなかった。
北門の内側にはアズの避難班、ルアヴエルの兵、ブレント、ルグエが並んだ。ホーコンは境界杭の位置を確かめてから、その前へ出た。
ヴァレンシーアは王都で命令書を渡した時と変わらない足取りで馬車を降りた。
「久しぶりですね、ホーコン」
「王都へ帰ることは禁止されましたから」
「命令どおりです」
淡い灰色の目が、彼の後ろへ移る。
クリストエインが工具袋を肩に掛けて立っていた。
ヴァレンシーアの視線が一秒だけ止まった。
「クリストエイン。機関整備班、職員番号七一二」
クリストエインが眉を寄せる。
「私を知ってるの?」
「記録しています」
「石碑には私の名前がなかった」
「だからこそ、覚えています」
ヴァレンシーアはそれ以上答えず、親衛隊へ片手を上げた。
兵は剣を抜かなかった。
代わりに封印箱から細長い黒板を取り出し、地面へ立てる。
王国暦法院・北部削除告示。
黒板の四隅には、測量院で二十三年前に廃止された古い境界記号が刻まれていた。
ホーコンは見覚えがあった。
自分の終身閉鎖測量命令、その最後にあった『削除境界』と同じ記号だ。
偶然ではない。
あの命令書は、最初から今日の告示と一続きだった。
ホーコンは文面を上から読んだ。
対象区域――エッダ石油ポンプ場を中心とする北部第七測量区、および削除境界内に存在する人員・施設・暦記録。
「人員も、ですか」
「はい」
ヴァレンシーアは住民の方を見た。
「現在ここにいる難民。王国兵。交易関係者。エッダの残存管理者。そして未閉鎖記録であるクリストエイン。削除時点で境界内に存在するものは、王国暦から切り離します」
ざわめきが広がった。
アズが一歩前へ出る。
「それは避難命令じゃない」
「違います」
「百二十人を消す命令?」
「百二十人だけではありません」
ヴァレンシーアの声は変わらなかった。
「神の影は王国暦の通信線を通じて広がっています。北部の欠落を切り離せば、影は一時的にこの区域へ固定される。王都本体原簿への侵入を遅らせられます」
「その間、ここにいる人間は?」
「削除されます」
アズの目が鋭くなる。
「平然と言うね」
「平然として見えるように話しています」
*
ヴァレンシーアは、白蝶平原へ行きたいと言った。
護衛を連れて石碑の前へ立つ。
モンシロチョウが白い石の上を舞っていた。
「ここを見つけましたか」
「あなたが消した百八十七人の記録です」
ホーコンが答える。
「消したことは否定しません」
ヴァレンシーアは石碑へ触れなかった。
ただ、目を閉じた。
そして職員番号の若い順から、名前を読み上げ始めた。
一人。
二人。
十人。
声は一度も詰まらない。
五十人を越えても、百人を越えても、順序を間違えない。
百八十七人目を言い終えるまで、誰も口を挟まなかった。
最後の名を言い終えた後も、ヴァレンシーアは石碑を見続けていた。
確認するためではない。石碑に視線を落とさなくても、順番も綴りもすべて頭に残っているのだと、ホーコンには分かった。
ルグエは帽子を脱いだ。
十二年間、一人で設備を守ってきた老人の手が強く握られる。
クリストエインが低く尋ねた。
「全員、覚えてるの?」
「忘れたことはありません」
「なら、どうして消せたの」
「忘れないことと、選ばないことは別です」
モンシロチョウが一匹、ヴァレンシーアの肩へ止まった。
彼女は払わなかった。
「十二年前、十三日間を残せば、欠落は王国全土へ広がると判断しました。私は百八十七名と事故区域を切り離した。王国を残すために」
「あなた自身は?」
ホーコンが尋ねた。
一瞬だけ、ヴァレンシーアの目が彼へ向いた。
「その質問への回答は、今は必要ありません」
否定しなかった。
*
ポンプ場へ戻る途中、ホーコンは隊列の横を歩いた。
「一つ確認します」
「どうぞ」
「私をここへ送った理由です」
「命令書に書いたはずです」
「閉鎖測量ではなく、削除境界の確定について聞いています」
ヴァレンシーアは歩みを止めた。
王都を発つ前、暦法院の執務室で見たのと同じ目だった。
「あなたは北部第七測量区を正確に測れる人間でした」
「だから追放した」
「はい」
「原簿改竄の疑いも?」
「あなたを王都から外し、エッダへ送るために必要でした」
「私が反論して調査を続ければ?」
「資格を残したままでは、あなたは別の原簿へ到達する可能性が高かった。王都居住権を残せば、測量院の人脈も使える。終身命令でなければ、任務を終えて戻ろうとする」
「ずいぶん詳しく考えましたね」
「あなたがどう動くかは、提出した測量報告から予測できました」
後ろでブレントが息を呑んだ。
ホーコンは驚かなかった。
王都を出た日から考えていた線が、ようやく相手の口から確定しただけだ。
「私に境界を測らせ、その後どうするつもりでした」
「測量完了を確認し次第、境界内の残存記録を削除する予定でした」
「私を含めて」
「含めてです」
クリストエインがホーコンの横へ来た。
怒鳴らなかった。
「今も同じ予定?」
「条件は変わりました」
ヴァレンシーアは即答した。
「住民が増え、王国兵が入り、独立記録が三系統に分散し、神の影も十二年前より拡大している。したがって削除手順は更新します」
ホーコンは彼女を見た。
「中止ではなく?」
「更新です」
ヴァレンシーアは馬車の封印箱から、厚い集計簿を一冊取り出した。
「あなたたちは、ここにいる人間を残すための方法を考えている」
「そうです」
「私は王国を残す方法を計算しています」
集計簿が開かれる。
「どちらがより多くの明日を残すのか。数字で確認しましょう」




