第20話 住民死者ゼロ
第三油槽の鋼板に開いた黒い穴から、封印油が細く噴き出した。
「塞ぐな!」
クリストエインが叫んだ。
油輸送班の二人が当て板を持ったまま止まる。
「影が鋼板の記録を食ってる。板を足しても、その板まで消される」
ルグエが油量計を見る。
「このままなら十五分で槽が割れる」
ホーコンは北壁、旧河道、第三油槽の位置を頭の中で重ねた。
北壁を維持する。
旧河道も残す。
油槽も守る。
全部を成立させる方法を探しかける。
「ホーコン」
アズの声だった。
「何を捨てる?」
問いは短い。
以前なら答えられなかった。
ホーコンは北の城壁を見た。もう半分近く、建造記録を食われている。
「北壁を消します」
「その後は?」
「魔物を東の旧河道へ流す。第三油槽の封印油も、守るんじゃなく使う」
アズが頷く。
「解除の時刻は?」
ホーコンは一瞬だけ黙った。
「任せます」
*
鐘が一回鳴った。
「北壁、解除!」
アズの合図で戦闘班が左右へ開く。
灰色の城壁が消えた。
遮るものを失った魔物の群れが一斉に踏み込む。
「走らない! 東へ誘導!」
王国兵が槍を斜めに並べ、住民の戦闘班が鉄板を打ち鳴らす。
黒い群れは人の薄い方へ向かう。
東。
乾いた旧河道へ。
先頭が落ちた。
二体、三体、十体。
溝の中へ黒い身体が重なる。
「今!」
クリストエインとルグエが第三油槽の緊急排出弁を開いた。
低い振動が地面を走る。
配管を通った黒い封印油が、旧河道の上流側から流れ込んだ。
魔物が暴れる。
油に触れた脚から、文字のような黒い筋が縮んだ。
「全部入れるな!」
ルグエが弁を絞る。
「溝の底が濡れる量でいい!」
ホーコンは境界杭の前で旧河道の幅だけを見る。
「右岸、あと二歩!」
「第三班、右へ!」
アズが即座に人を動かす。
群れの一部が河道を登ろうとする。
ルアヴエルが兵を十人だけ回した。
「押し返せ。追うな。落とせばいい」
兵の一人が槍を滑らせた。
隣の兵が無言で支える。
「謝罪は後だ。持ち直せ」
魔物が河道へ落ちる。
封印油が黒い輪郭を包み、次々と揺らぎを小さくした。
*
最後の一体が動かなくなったのは、日が沈む直前だった。
アズはすぐ人数を数えさせた。
「戦闘班?」
「全員!」
「油輸送班?」
「全員!」
「救護班、住民死者は?」
「ゼロ!」
一瞬、誰も声を出さなかった。
それから市場跡の方で歓声が上がった。
百二十人の住民。
王国兵。
商人たち。
骨折が一人、裂傷と打撲が十数人。
だが、死者はいない。
ホーコンは野帳へ数字を書いた。
『住民死者、ゼロ』
その四文字だけ、二度確認した。
「そこは疑わなくていい」
アズが横から言った。
「確認はします」
「知ってる」
*
歓声が続く中、地下で乾いた音がした。
ぱき、と。
万年カレンダーの円盤に、細い亀裂が走っていた。
五月二日の目盛りから始まり、これまで何度も開いた日付の溝を横切っている。
クリストエインが触れようとして手を止めた。
「同じ日を開き過ぎた」
「記録が摩耗しています」
「私も?」
ホーコンは答えなかった。
彼女がこちらを見る。
「ホーコン?」
「……日の出までは、もう起動しません」
「質問の答えになってない」
だが、東の空が白み始めていた。
クリストエインの輪郭が薄くなる。
「明日もまた会えるかな?」
「会います」
ホーコンは答えた。
彼女は消えた。
*
日の出後。
亀裂の広がりを測り、危険がない範囲だけで五月二日を開いた。
白いタイルが戻る。
制御盤の前へ、クリストエインが現れた。
いつもなら最初に言うはずだった。
誰、と。
だが彼女はホーコンを見て、眉を寄せた。
「昨日、北壁を消す判断、アズに任せたよね」
ホーコンの呼吸が止まった。
「覚えているんですか」
「うん。河道へ油を流した。死者はゼロ」
胸の奥に、安堵が広がりかけた。
クリストエインは続ける。
「それで、その前に橋を出した。給水塔も出した。昨日だったよね?」
安堵が消えた。
「違います」
「じゃあ一昨日?」
「橋はもっと前です。給水塔は最初の頃です」
クリストエインは額を押さえた。
「順番が、変」
回復ではない。
消えかけた記録同士が、前後を失って混ざっている。
ホーコンは万年カレンダーの表示窓を見た。
『機関整備班 クリストエイ 』
昨日と同じ欠けた名前。
クリストエインも、その視線を追った。
「私の名前、何で欠けてるの?」
逃げられなかった。
「白蝶平原の石碑を調べ、五月二日の映像記録を開いた夜からです」
「……知ってたの?」
「はい」
「いつから」
「五月二日の記録板を調べた日から。工具の扱いにも小さな誤りが出ていました」
クリストエインの顔から表情が消えた。
「それを、私には言わなかった」
「事故の原因が分かる前に、恐怖だけを渡したくなかった」
「誰が決めたの?」
ホーコンは答えられない。
「私を守るためでも」
クリストエインは一歩だけ離れた。
「私が選ぶための情報まで奪わないで」
声は大きくなかった。
だから余計に、ホーコンへ届いた。
「……すみません」
「今は謝らなくていい。次から隠さないで」
彼女は工具袋を持ち上げた。
「私の記録が崩れてるなら、私も一緒に調べる」
地下の扉が開いた。
ブレントが息を切らして立っている。
「王都から隊列が来ています」
「誰です」
「暦法院長ヴァレンシーア本人です」
割れた万年カレンダーの上で、細い亀裂がもう一度だけ鳴った。




