第19話 昨日の城塞
夜明け前から、ルアヴエルは北側の地面へ杭を並べていた。
黒い群れはまだ遠い。
だが、昨日より数が多い。
「正面へ来るのは三割ほどだ」
ルアヴエルは地図の上へ指を置いた。
「残りは東へ回る。昨日、防火壁が消えた場所を覚えているらしい。さらに一群が西の低地を通る」
「魔物が作戦を立てる?」
アズが尋ねる。
「作戦かどうかは分からない。ただ、前回通れた場所を選んでいる。それで十分だ」
ホーコンは地面の高低を見た。
北側の防火壁跡。
東の旧河道。
西へ伸びる貨物支線跡。
三つとも、すでに測量してある。
「正面は壁で止めます。東は河道へ落とす。西は支線の盛土で進路を細くする」
「全部、同じ年代?」
クリストエインが聞いた。
「違います。重ねません」
ホーコンは野帳を開いた。
「城壁が残っていた年代。河道が乾いて掘割になっていた年代。旧貨物支線が北部幹線へつながっていた事故前。区画を分けて順番に開きます」
ルグエが油量表を見た。
「三つ維持すれば、日没までは持たんぞ」
彼は表の脇に置かれた黒い油の採取瓶を指で叩いた。
「もう隠す意味もない。こいつは燃料じゃない。事故前の地下管理簿では封印油と呼んでいた。地下へ戻して、あの欠落を押さえるための油だった」
給水塔で逆送した夜から、影が黒い油の流れに押し戻されることは分かっていた。
今、用途までつながった。
「全部を最後まで残す必要はありません」
ホーコンは答えた。
以前なら、自分で解除時刻まで決めていただろう。
今回はアズを見る。
「使う順番と、退く時刻は任せます」
アズが一瞬だけ目を細めた。
「分かった。じゃあ人の方は私が決める」
*
住民は四つに分かれた。
北側は王国兵と戦闘班。
東側は油輸送班。
西側は柵を補強する作業班。
中央には救護班と子ども、高齢者を置く。
「逃げる時は南宿舎へ一本化しない!」
アズの声が飛ぶ。
「北が抜かれたら市場跡、西が抜かれたら給水塔側。自分の班の退路だけ覚えて!」
その横をブレントが走ってきた。
「北の商人三組が来ます!」
荷車が六台。
乾燥肉、包帯、ランプ油、鉄杭。
「代金は?」
ホーコンが聞く。
「後払いです」
「信用だけで?」
「七日目の市場で、こちらも約束を守りましたから」
ブレントは息を整えた。
「関係は、こういう時に使うものです」
ブレントは荷車ごとに送り主の名札を結び、受領した住民にも署名させた。
「名前が消える相手と戦うなら、物資の行き先まで記録しておきます。誰が誰を助けたかも残す」
アズが一台目の荷を開く。
「包帯は救護所。鉄杭は西。食料は今は配らない。戦いが終わった後に必要になる」
誰も異議を唱えなかった。
*
昼前、最初の群れが来た。
鐘、一回。
地下で万年カレンダーが動く。
北側の地面から、灰色の城壁が立ち上がった。
今回は外周全部ではない。
魔物の正面百歩だけ。
影に記録を食われるまでの時間を稼げればいい。
「第二群、東へ移動!」
ルアヴエルが叫ぶ。
予測通りだった。
黒い魔物たちが城壁を避け、東の低地へ流れる。
「次!」
ホーコンは第二の境界杭を確認した。
別の日付を開く。
東側の草地が沈んだ。
かつて川だった場所。
水はない。
だが深い旧河道だけが、現在の地面へ重なる。
先頭の魔物が落ちた。
後続がぶつかり、黒い群れが細長い溝の中へ詰まる。
「油輸送班、まだ流すな!」
アズが止めた。
「落ちた魔物が溝を埋めるまで待つ! 封印油は最後に使う!」
住民たちは桶を抱えたまま待った。
*
西から土煙が上がった。
ルアヴエルが地図を見る。
「第三群。予測より十二分早い」
「予定を変える?」
「当然だ」
彼は兵を二十人、西へ回した。
ホーコンも第三の杭へ走る。
地面には、錆びた二本の鉄線しか残っていない。
事故前の日付を開く。
土が盛り上がる。
枕木とレール、貨物台、排水溝。
王都行き北部幹線へ続いていた旧貨物支線が、一部だけ現在へ戻った。
高い盛土が壁になり、魔物の進路を一か所へ絞る。
ルアヴエルの兵がそこへ槍を揃えた。
「ここなら十人で足りる。残りは北へ戻せ」
「本当に?」
若い兵が聞く。
「違ったらまた変える」
ルアヴエルは淡々と答えた。
*
午後。
城壁の文字が削られ始めた。
「北壁、残り三割!」
クリストエインが地下から叫ぶ。
「油量は?」
「予定より一割多い!」
ルグエが計量弁を締める。
「西の支線を先に落とせ! あそこはもう兵だけで持つ!」
ホーコンは地上を見る。
自分で確かめに行く必要はない。
「アズ!」
「西、解除!」
即答だった。
ホーコンはレバーを落とした。
旧貨物支線が消える。
兵は全員、現在の盛土へ退避済みだった。
油量計の針がわずかに戻る。
「次は北壁を切る準備!」
アズが叫ぶ。
城壁、旧河道、貨物支線。
測量。
兵の予測。
住民配置。
油量管理。
商人の補給。
どれか一つでは防げない。
ホーコンが見落とした群れをルアヴエルが数え、ルアヴエルの予測が外れればアズが配置を変える。クリストエインが必要量を読み、ルグエが古い弁の癖まで含めて油を絞る。足りない物はブレントが外からつなぐ。
ホーコンは境界杭の前から動かなかった。
以前なら、五か所全部へ自分で走っていた。
今は、自分にしかできない日付の切替だけを見る。
それでも、初めて一つの城塞として動いていた。
その時だった。
地下から鐘が三回鳴った。
退避の合図。
クリストエインの声が続く。
「油槽区画に影が出た!」
ホーコンたちは走った。
地上最後の封印油を残していた第三油槽。
黒い文字のような筋が、槽の脚から側面へ這い上がっている。
白く塗られた番号が、一文字ずつ消えた。
ルグエの顔から血の気が引く。
「最後の油槽だ」
次の瞬間、鋼板の一部が音もなく黒く欠けた。




